37杯目 冬の国の甘露

 弥生は震えていた。

 寒さ故ではない。まして、発熱しているわけでもない。

 年内最後の営業日に現れたアリスの首に巻かれたものを見て、震えが止まらなくなっていた。

「ねー、見て見てー。ラビットファーのマフラー! 親にお強請りしたら買ってくれたんだー!」

 自慢そうに見せびらかしているそのマフラーこそが震えの原因だ。

 ラビットファー。

 マフラーになる為に狩られていった幾匹ものウサギたち。

 ――なんて惨い……!

 そのマフラーに付いているぼんぼんを、てっさが狙って姿勢を低くしている。おしりを上げて、しっぽは機嫌良く揺れている。

 ハンターの姿勢だ。

「あーっ。てっさ、駄目だよ、飛びついちゃ。お気に入りなんだから。ね。だーめ」

「ぶーなー」

 窘められてもてっさはまだおしりを揺らしている。

「遊んで欲しいなら後で猫じゃらししてあげるから。これはホントに駄目」

「ぶー」

 少し残念そうに、てっさは狩人の体制から元に戻った。

 元に戻れないのは弥生一人だ。

 目は瞠目し、指先はやはり震えている。

「どうしたの? 弥生くん」

 異変に気付いたアリスが、マフラーを外しながら弥生に目線を向けてきた。

「い、いや。なんでも、ねぇよ。似合うな、それ」

「えへへ。ちょっとお値段したんだけど、いいよって言ってくれたんだー」

 嬉しそうにして、アリスはコートを脱いでいる。鞄とコート、マフラーを隣の席に置き、彼女はカウンター席に着いた。

 ――落ち着け。落ち着け、俺。

 言い聞かせながら、まだ冷静を取り戻せていない手で水とお手ふきを差し出した。


   *


「アリスちゃーん」

 桂が満面の笑みで揺れながらカウンターの中から近寄ってきた。

「今日は趣向を変えてロシアンティーなんてどうかな」

「ロシアンティー?」

「ジャムを舐めながら濃いめの紅茶を頂く飲み方なんだよ」

「へぇ。それ、初めて。飲んでみたい!」

「じゃあちょっと待っててねー。今作るから~」

 桂が作業に移った後、なんとなくメニューを眺めてみた。思えば、メニューを見ること自体が久しぶりである気がする。端から端まで見ても、ロシアンティーはメニューに無い。

 近頃勧められるままに食べることが多いので気にしていなかったが、実際はメニューに無いものをかなり出して貰っているのかもしれない。

 先日のクリスマスプディング然り。今日のロシアンティー然り。

 メニューを戻すと、荷物を置いた隣の席で、てっさが荷物に前足を伸ばしているのが見えた。ぶら下がったぼんぼんを、前足でつついて遊んでいる。

 この程度ならいいか、と注意はせずに見守ることにした。

「そういや、クリスマスはどうだった?」

 少し顔色が戻った弥生が聞いてきた。

「もう凄いお客さん。私が行くといっつも空いてるのが嘘みたい。三日間しか働いてないのに、もうへとへと」

 その代わり時給は弾んで貰ったので疲労は心地のいいものだった。

 弥生は腕組みをして、

「へぇ、クオーリ、繁盛してんだな。うちは相変わらずの三日間だったけど」

「ここに急にお客さん来たら逆に不自然だよ」

「言ったな、アリス」

「なんかもう、この感じ、慣れちゃったから、こうじゃない有栖川茶房って考えられなくて」

「まあ、そうなんだけどさ」

 どんなに騒がしくなっても、見えるのは見知った顔ばかり。偶に新顔が現れても、まず関係者なので厳密に客と言えるかは怪しい。

 それがこの店なのだと、少し前から思うようになっていた。

「はーい、お待たせー」

 やがて、桂がティーカップとポット、ジャムを持ってやってきた。

「紅茶は濃いめのディンブラだよ。ジャムはティーカップに入れないで舐めながら紅茶を飲んでね」

「はぁい」

「ジャムはね、カリンとリンゴのママレードにしてみたよ。気に入ったら次回にでもいろんなジャムと合わせて楽しむのもいいと思うなぁ」

 ごゆっくり、と言い残して桂はカウンターの中に戻っていく。

 ジャムは小さなココット皿に入りスプーンが添えられてある。黄色いジャムをスプーンに取って、一舐め。ほんのり酸味のある甘い味だ。

 その味が消えないうちに、紅茶を口に含む。濃いめの紅茶が、口に残る甘みと合わさって美味しい。

「これ、好きかも」

 もう一度同じ手順を繰り返す。

 ――うん、これ、好き。

 更にもう一度繰り返して、一休み。

「ジャムはねー、ウォッカで練ったりすることもあるんだけど、流石にそんなコトしたらアリスちゃん倒れちゃうかもだから」

「ウォッカは確かに、無理かも」

 お酒さえ未知数なのに、混ぜるだけとはいえウォッカは危険だ。

 桂の気遣いに感謝しながら、ぺろりとジャムを舐める。ジャムだけでも美味しい。ついついジャムだけ食べ進めてしまい、紅茶がまだたっぷり残っているのにジャムが底をついてしまった。

「ジャム、なくなっちゃった……」

「おかわりする? 今度は、木イチゴのジャムとか」

「いいの? それ、食べたい」

「いいよ~! 毎度あり~」

「あ、有料だった」

 思わぬ落とし穴があったが、それはいいとしよう。

 桂が出してくれたのは、真っ赤な木イチゴのジャムだ。妃が好きそうだ、と思いながらスプーンに少しだけ取って食べる。酸味が利いていて、先程の甘さの方が引き立つママレードとは違った味わいだ。ぷちぷちという種の食感も楽しい。紅茶を飲めば、これもよく合う。

「美味し~い」

「今度は配分に気をつけてね~」

「はーい」

 適度に紅茶も飲みながら、ジャムを舐める、というよりも食べる。

 自分がジャムが好きだったことに気付かされるティータイムになった。

 ただジャムと紅茶があるだけなのに、それだけで美味しい。パンやクラッカーの添え物としてしか考えていなかったジャムが、今日は主役だった。

 ――色んな世界があるんだなぁ。

 紅茶も飲み終わり一息吐いてもまだ、てっさはぼんぼんと遊んでいた。

「てっさ、ホントにこれ気に入ったんだね」

「ぶなっ、ぶなっ」

「猫じゃらし使うか?」

「え。いいの? っていうか、あるの?」

「あるよ?」

 すっと弥生がどこからか猫じゃらしを取り出した。

「いくつかあるけど、これ、割とお気に入り」

「でも、お店の中なのに……」

「いいよ。暇なときよく遊んでるから」

「遊んでるんだ……」

 お気に入りという猫じゃらしを受け取り、有紗は席を立った。その場にしゃがみ込むと、猫じゃらしの穂先を揺らしててっさを誘う。

 太い猫はすぐさま反応した。じゃらしにじゃれて、右へ左へと軽快に動く。

「わぁ。猫ちゃんとこうやって遊ぶの、初めて!」

「遊びたくなったらいつでも言えよ。貸すから」

「わぁい!」

 楽しくなって有紗は猫じゃらしの動きを速くしてみた。速くしてもてっさは動きに付いてくる。身体の重さに見合わない動きに驚きながらも、猫じゃらしをどんどん速く振っていく。

「正臣くんがやると店の中めちゃくちゃになっちゃうんだよねー」

 思い出したように桂が口を開いた。

「正臣さん、って、忠臣さんの弟さん?」

「そー。すんごい動かし方するんだもん。ジャンプさせちゃったりとかー」

「ジャンプ……」

「アリスちゃん。試さなくていいからねー」

「う……」

 試したいのを見抜かれた。

 代わりに、体長よりも高い位置で猫じゃらしを振ると、後ろ足で立ってどうにか掴もうと奮闘している。この体重を支えるとは、足腰の筋肉はそれなりにあるようだ。

 余り長いことお預けするのは可哀想なので、また地面近くで左右に振る。息も切らさずついてくるてっさに対して、先に疲れ始めたのは有紗の方だった。

「凄いね。てっさ、体力ある……」

「な。そいつ、しぶといだろ。付き合ってるこっちが先にバテるって」

「こんなに遊んでるのにどうして痩せないんだろうね」

「ぶ、ぶなぁ。ぶなぶなぁ」

「あー、何か言い訳してる」

「ぶなー、ぶなぶなぁ」

 猫は何かを必死に訴えている様子だが、猫語は残念ながら解せない。

「駄目だよ? ちゃんとダイエットしなきゃ」

「ぶー、ぶなー……」

 てっさは動きをやめて耳を寝かせてしまった。しょんぼりと尾も垂らして、とぼとぼとソファ席の方へ向かっていった。そして、ソファ席に上ると、拗ねたようにくるりと丸くなって寝てしまった。

「悪いこと、言っちゃったかな……」

「気にするなって。いつものことだから」

 弥生はそう言うも、気にはなる。

 有紗は猫じゃらしを持ったままてっさの所まで行き、横に腰掛けた。

 まずは撫でてみる。

「てっさ、ごめんねー。てっさは可愛いよー」

「ぶー」

 効果なし。

 次は身体をわしわしと揉んでみる。ふわふわで、手を入れるだけで温かい。揉むとふかふかで気持ちが良かった。

「ねー、ふかふかでいいねー」

「ぶー」

 ひねたような鳴き声は相変わらず。意固地になるように更にきゅっと丸くなってしまった。

「あーん! 機嫌直らないよー!」

「だから気にするなって。暫くすりゃ直るし、暫くしないと直らないから」

 弥生が言うのだから、そうなのだろう。残念ながら、てっさとの戯れは意外なことから打ち切りとなってしまった。

「そっかぁ。んー……。ごめんね、悪気があったわけじゃないんだよ……」

「ぶー……」

 しっぽがぺちぺちと動いていない分、機嫌の悪さの程度は低いのかもしれない。とはいえすぐに構われてくれるわけもなく、有紗は大人しく引き下がることにした。

「今年会えるの最後だったのに、悪いことしたなぁ……」

「ぶ……!」

 ソファ席から立ち去ろうとした有紗の足にしがみつく前足があった。

「てっさ?」

「ぶー! ぶなーぶなー」

「そっか、ありがとね」

「ぶなー!」

 カウンター席に戻ると、てっさは付いてきて先程と同じく荷物の隣で丸くなった。

「よかったな、アリス」

「うん! よかった!」

 暫く会えない寂しさが通じたのだろう。そう思うことにした。

「アリスちゃーん。年内最後だから、もう一杯どう?」

 商魂逞しい桂が、ここぞとばかりに販促してきた。

 お腹も大分満ちているが、問題はそれよりも財布の中身。

「流石にもう一杯は遠慮しておきます……」

 丁重にお断りすることにした。

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