35杯目 焦がれの苦み
「わぁ。なんかいい匂いがする~」
有栖川茶房の中に入った途端、香ばしい、ホットケーキにも似た匂いが鼻に入ってきた。
カウンターの中には弥生と桂。
ということは、
「笑太くん、何か作ってるの?」
「そうそう。妃がクリスマスプレゼントにって笑太にワッフルパンくれてさ。今朝からずっと作ってんの」
「ずっと!」
「早く上手になりたいんだってさ」
「でも、作ったのってどうしたの?」
「俺たちと、エースとジャックに食べて貰った」
「忠臣さんが来たならまあ、平気だね」
「残飯処理機じゃないってぼやいてたけどな」
「で、それでもまだ作ってるんだ?」
「意外と凝り性だからなぁ」
そう言いながら弥生は厨房を覗き込み、
「おーい。アリス来たけど、そろそろ出せそうなの作れるか?」
「うん。もう大丈夫ー」
笑太の嬉しそうな声が返ってきた。
「というわけで、今日のデザートはワッフルです。お飲み物は?」
「今日はコーヒーにしようかな」
「アリスちゃ~ん。こ、う、ちゃ~!」
お約束の桂の紅茶攻撃に対し、
「はいはい、また今度な。また今度」
弥生が軽くあしらった。あしらわれ、頬を膨らませるところまでがワンセット。
いつも通りの有栖川茶房だ。
揚々と弥生はコーヒーの準備を始める。香ばしい匂いにコーヒーの香りが混じって、食欲を刺激してくる。
コーヒーが向かいからやってくるのとほぼ同時に、厨房から笑太がやってきた。
手に持っているのは白い皿とフォークとナイフ。
「お待たせ」
とん、と置かれた白い皿の上に、四角いワッフルが二枚。ワッフルの上には生クリームとベリーのソースがかかっている。
「わぁ、美味しそう! いただきまーす」
フォークとナイフを当てると、さくっという感触がした。
一口分を切り取り、クリームとソースをつけて頬張る。
さっくりとふんわりが同居した、ワッフルらしい食感だ。
「美味しい!」
続けて二口目を頂く。
「良かったー」
笑太は嬉しそうに目を細めている。
「別に欲しいって言ってたわけじゃないんだけどね。貰っちゃったから張り切った」
「これでお店のメニューのバリエーション、増やせるね」
「そ、そうだね……」
何故か少しだけ笑太の目が泳いだ。
疑問に思いつつも突っ込むことはせず、
「弥生くんや桂さんも何か貰ったの?」
カウンターの中に目をやった。
「俺はマフラー。カシミヤの奴」
「へぇ! 凄い!」
「僕はねぇ、紅茶の茶器セット貰ったんだけど、お店で出すには一個じゃ足りないって言ったら怒られちゃった~」
――それは恐らく桂さん専用にあげたものだよ。
と、口から出かかってやめた。きっと妃のことだ、はっきりとそう言ったに違いない。
桂自身に、個人という概念は薄いのだろうか。ふとそう思った。貰ったものは大抵店に使おうとする。買ったものもそうだ。紅茶も、食器も、店の為。
「桂さんは何か欲しい物ないの?」
「僕? そうだなぁ」
視線が桂に集まり、沈黙が流れる。
小さく頭を揺らしている桂は、おもむろに口を開くと、
「無い物ねだりになっちゃうから、いいやぁ」
そう言って、ニコリと笑った。
無い物ねだりとは何だろう。巨万の富と名声か。否、彼はそんな俗っぽいものは欲しがらなそうだ。やはり、お茶会が出来ればそれでいいのだろうか。
だが、お茶会は既に遂行されている。
――じゃあ、無い物ねだりって?
物語を繰り返す彼らにとって、永遠は望むものではない筈だ。
――何だろう。桂さんの欲しい物。
まだ熱いコーヒーを一口飲んで、口の中をリセットする。
「有紗は、何か欲しい物ある?」
笑太に訊かれ、有紗は思考を巡らせた。
すぐに思いついたのは、
「新しいマフラーとコートかなぁ。今年寒くって。厳冬っていうの? 去年とは比べものにならないんだもん」
「妃ならほいって買いそうだな」
「流石にそんなお強請りできないよ。そこは親でしょ。最近連絡取ってないから、電話してみようかな」
弥生が言うように妃ならば二つ返事で買いに行こうと腕を引いてきそうで怖い。彼女の前で迂闊に欲しい物を言わないよう、気をつけることに決めた。
*
お皿もコーヒーカップも綺麗にしてアリスは帰っていった。
笑太は厨房でワッフルパンと食器を洗っている。
弥生は焦げたワッフルの試作品を囓りながら厨房を覗いた。
「なあ、笑太。おまえさ、厨房入る時間長くなるの嫌なの?」
「別にそんなこと無いけど、なんで?」
食器を洗い終わった笑太が、手を拭きながら振り向いた。
「アリスに店のメニュー増やせるねって言われたとき口籠もってたから」
「別に、そんなこと、無いよ」
「そうだよなぁ。おまえ、気が向けば日がな一日厨房に籠もってるしなぁ」
だが、聞いているとどうにも歯切れが悪いように思える。
思考を変えてみよう。
笑太は厨房にいるときは〝笑太〟だが、何もしていないときは〝てっさ〟だ。厨房にいないということは、猫の姿でいるということ。
「おまえが〝てっさ〟でいたい理由って何?」
「え……っと。あの、……」
猫とは自由気ままで、我が物顔で店の中を歩き回り、客に構えとばかりにアピールすることもある。てっさという猫も例に漏れずそういう振る舞いをする。
そういえば、この間はアリスの太ももで暖を取っていた。あれを見て思わず奥歯を噛んだことを、弥生はぼんやり思い出した。
「おまえ、猫でいる方がアリスにくっつけるからとか、そういう下卑た理由じゃねぇよな」
「……だって有紗、暖かいし」
「ぬああ! やっぱそういう理由か!」
「弥生だってウサギでいればいいじゃないか! きっともふもふしてくれるよ!」
「いつもいる俺がいなくてウサギがそこにいたら怪しいだろうが!」
「休みってことにすれば全然怪しくないよ!」
「確かに……って、問題はそこじゃねぇんだよ!」
「どうしたの、大騒ぎして」
半ば掴み合いになりかけていたところに、桂がやってきた。
貰ったばかりのティーカップでちゃっかりお茶を飲んでいる。
「弥生が猫の本能を否定するんだ」
「こんな時ばっかり猫ぶりやがって」
「だって猫だもん」
「もういいから、二人とも静かにしてよぉ」
仲裁する気のない桂は、お茶を飲みながら眉を顰めている。
桂を不機嫌にすると何が起こるかわからない。実際、そこまで機嫌を損ねたことが無いので、その点は未知数だ。
不満は燻りつつも、弥生は笑太から離れて一旦落ち着くことにした。
カウンターまで引いて、残りの試作品のワッフルを囓る。
「宇佐木くんもそんなに羨ましいんだったら、今度ウサギになって膝に乗ればいいじゃない。てっさより軽いんだから、抱っこしてくれるかもしれないよ?」
「俺は、別に、そういうのを望んでるわけじゃなくて」
「じゃあ、何が不満なの」
桂に言われ、やはり自分の感情が整理できない。
羨望するのは自分もそうしたいと思っているからなのか。
アリスに対しての気持ちは、何度となく同じ事を繰り返しては答えが出ないままになっている。皆は態度こそが答えだと言うが、弥生自身はそれで納得していなかった。
「君は不器用だからね。もうちょっと甘え上手だったら良かったのにねー」
「うるせぇ」
残りのワッフルを無理矢理口に押し込むと、弥生は咀嚼しながら二階へと向かった。
「ちょ、ちょっとぉ。何処行くの~?」
「休憩」
「まだ休憩の時間じゃないでしょ~!」
「すぐ戻るから」
振り返ることはせず、弥生は階段を上った。
どうしても今、一人にならずにはいられなかった。
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