18杯目 サマーカット

 夏休み最初の日曜日の午前中、有紗は有栖川茶房を訪れた。

 目当てはモーニングと報告が一つ。

 アイアンのドアノブを押すと、ドアベルが鳴っていつものように迎えられた。

「そんな軽そうな鞄、初めて見た」

 と宇佐木が言うように、今日は学校がないので鞄が小さい。いつもは教科書やノートをぎゅうぎゅうに鞄に詰めているので、大きく、そして鉛の塊のように重たいのだ。

「今日は食いっぱぐれ、って訳じゃなさそうだけど」

「あのね、アルバイト、決まったの!」

 報告したかったのはそのことだ。

 夏休み前に有栖川茶房で働きたいとだだをこねたこともあり、知らせておくべきだろうと思って今日、訪ねたのだ。

「やっぱり夏休み暇かなって思ったから、お友達の紹介で本屋さんで夏休み期間中だけバイトさせて貰えることになったんだ」

「へぇ、良かったじゃん。本屋って、この辺の?」

「ううん。ターミナル駅近くのおっきい本屋さん。ビルが上から下まで殆ど本屋さんなんだよ」

「そんなキャパでかいとこ、大丈夫か?」

「がんばる!」

 人生初のアルバイトに心が浮かれていた。

 ガッツポーズ作った手の片方を、モーニング用のメニューに伸ばす。ラミネートされたペラには、先日食べたモーニングの紹介とトッピングの変更内容について書かれている。すると、下の方にマスキングテープか何かの上に書かれた一品があった。

「フレンチトースト? フレンチトーストやってるの?」

「お、めざといな、アリス。それ、日曜日限定なんだよ」

「なんで日曜日限定なの?」

「客少ないから。作るのに結構手間かかるんだよ」

 宇佐木はそう言うが、客らしい客が入っているのをこの四ヶ月で一度たりとも見たことが無い。そこは言及しないことにして、

「じゃあ、フレンチトーストで」

「飲み物はどうする?」

「今日こそコーヒー貰おうかな。アイスコーヒーで」

 前回のモーニングで頼めなかったリベンジを果たす。

 そういえば、紅茶狂いの桂が居ない。カウンターの中は宇佐木一人。奥のキッチンにも人の気配はない。コーヒーという単語を聞きつけようものなら飛んできそうなのに、物音一つ聞こえてこないということは、少なくともこのフロアには居ないのだろう。

「桂さんは今日いないの?」

「デブ猫のトリミング。さすがにあのモコモコじゃ暑いからって、サマーカットにするんだって言ってたぜ」

「そうなんだぁ。涼しくなるといいね」

「笑えるザマになってなきゃいいけどな」

 意地悪そうな顔をして宇佐木は笑っている。

 サマーカットと聞いて想像したのは毛刈りされた羊くらいのものだったので、さっぱりしていいじゃないか、とアリスは思う。

 今日は本を持ってきていない。てっさもいないので構えない。

 手持ち無沙汰になり、コーヒーを入れている宇佐木に声をかけた。

「宇佐木くんは夏休み、なにかするの?」

「まだなーんも決めてない。寝て過ごすか、妃のトコ行ってゲームでもするか」

「宇佐木くんは妃さんのおうちに住んでないんだね」

「俺は一人暮らし。桂とてっさはこの上」

「へ。桂さんってここに住んでたんだ」

 ――なんとなくそんな気はしてたけど……。

 ということは、改装している際、住まいはどうなってしまっているのだろう。建物の枠組み自体が変わっているわけではないから暮らすことは可能だと思われる。だが、外観は二階までがらっと変わっているから、塗料の臭いとか埃とか、そういうものが入り込んでしまいそうだ。

 改装については深く考えるてはいけない事項であることを思い出し、思考を止める。

「はい。キリッと苦いアイスコーヒー。トースト焼いてくるから、ちょっと待っててな」

 真っ黒なコーヒーを置いて、宇佐木は奥のキッチンに行ってしまった。

 店の中に一人きりになったような錯覚に陥る。

 狭い店の中が、広くなったように感じる。

 そもそもそれ自体が錯覚で、

 ――大きくなったのは私だったりして。……なんてね。

 おかしな空想に身を委ねていると、身体がふわふわしてくるように感じた。

 アルバイトのことで浮かれきっているのだ。そうに違いない。と、目覚まし代わりにアイスコーヒーをストローで一口飲んだ。

 宇佐木が言ったように、キリッと苦い。まさに目が覚める苦さだ。

 暫くすると、フレンチトーストが焼けるジューといういい音が聞こえてきた。音に食欲を刺激されながら待つこと数分。

 きつね色によく焼けていて、粉糖とシロップ、バターが一かけ載っているフレンチトーストが目の前に現れた。

「いただきまーす」

 ナイフを入れるとふっくらとしていて、中までよく卵液が染みている。

 バターをつけながら一口、また一口、と、手が止まらない。

 美味しい、という言葉を発するのもままならないまま、あっという間に完食してしまった。おなかが空いているのならもう一切れ食べたい程だ。

「一気に食べちゃった」

「旨かったみたいでなにより」

 甘くなった口の中を、コーヒーでリセットする。

「いやー、暑い暑い。バターみたいに溶けてなくなっちゃいそうだよぉ」

 コーヒーの苦みを楽しんでいると、ぐったりした顔の桂が店に戻ってきた。

 手には猫用キャリーバッグ。それよりも目に付いたのは、

「桂さん……。髪型……」

 いつもは茶色いゆるふわパーマの髪型が、黒髪のストレートヘアで市松人形のようにサイドをぱっつりと切ったおかっぱ頭に変わっている。

 毛を整えたのはてっさだけではなかったようだ。

「うーん? 夏だからねぇ。少しは涼しくなるかなーって」

 ――それ以前に、似合っていない……よ。

 口に出して言いそうになって、有紗は慌てて言葉を飲み込んだ。

 そうとは知らない桂は、床に置いたキャリーバッグを開け、てっさを外に出した。

 現れたのは、ライオンのたてがみのように顔の周りに毛を残し、胴体部分は綺麗に刈られた哀れな姿だった。しかも、露わになった胴体は想像以上に太い。

「ぶっ……。てっさなにそれ、ダセェ……!」

 宇佐木が腹を抱えて笑っている。

「ぶうなぁぁぁ」

 当人は大変ご機嫌斜めの様子で、店の隅の席までのしのし歩くと、壁際のソファに飛び乗り身体を丸めてしまった。しっぽの動きで機嫌の悪さがなんとなく解る。

 ぺちり。ぺちり。

 しっぽの先がソファを叩いている。

「てっさー。そんなに酷くないよー。涼しくなって良かったね」

「ぶなっ」

 フォローも虚しく、意固地になるように更にぎゅっと丸まってしまった。

「僕もそんなに酷くないと思うんだけどなぁ、ライオンカット」

「にしても、あの腹の太さ! くくくく」

 首回りに残った毛と毛を刈られた胴体との差がまず酷い。もう一つ酷いのが、毛で誤魔化していた太い身体が、想像以上に太かったことだ。

「暑いって言うから涼しくして貰ったのに怒るんだもん。酷いよね」

「見た目とおなかとどっちで怒ってるか解らないけど、暫くそっとしておいてあげよ?」

 拗ねて丸まっている姿が可哀想で、笑う気になれなかった。

 それよりも、久しぶりに変わった桂の髪型の方が気になって仕方なかった。しかし、終ぞ話題に上げることが出来ないまま、その日は店を後にした。

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