17杯目 ご褒美ティータイム
七月も中旬を過ぎた末近く。
有紗は意気揚々と有栖川茶房のアイアンのドアノブを押した。
「アリスちゃん、今日は一段と機嫌良さそうだねぇ」
テーブルを拭いて戻ってくるところだった桂にそう言われ、有紗は改めて笑顔を見せた。
「あのね、今日でテスト終わったの! やったー! 解放されたー!」
拳を作って諸手を挙げる。
胸中にあるのは開放感。その三文字に尽きる。
「暫く来ねぇと思ったら、テストだったのか。お疲れ」
「ぶなー」
カウンターの中に居る宇佐木だけでなく、カウンター席の椅子で丸くなっている太い猫までねぎらってくれた。
「ふふん」
嬉しさに何度でも笑みがこぼれる。
「てっさ、久しぶりだねー。夏で暑いけどもふもふ暑くない?」
「ぶーなー」
至って元気そうな返事が返ってきた。
よしよし、と撫でながら、いつものカウンター席に座る。
「今日はどうする?」
そう問われ、有紗はメニューも見ずに、
「ロイヤルミルクティー飲みたいんだ」
扉をくぐる前から飲みたいものが決まっていた。
甘さと香りで癒やされたい、というのと、ネーミングからなんとなく、という二通りの理由からだ。簡単に言えば、テストを終えた自分へのご褒美だ。
カウンターに戻ってきた桂が小躍りして、
「いいよぉ。アッサムのロイヤルミルクティーにしてあげる。アイスでいいよね?」
「アイスでお願いします!」
桂は早速準備に取りかかった。
「ケーキとかはどうする?」
「そうだなぁ」
さすがにそこまで決めていなかった。
メニューを手に取り、ケーキの欄を眺める。
ロイヤルミルクティーは甘いので、甘みの強いものと合わせるのは少し気が引けた。つらつらと眺めやっていると、スコーン、の文字が目に入った。
――これってすっごくご褒美っぽい!
「宇佐木くん。スコーンでお願い」
「ほーい」
今日は本を読まず、隣に居る猫を構って待つことにした。
てっさも機嫌がいいようで、撫でてやるとごろごろと喉を鳴らして気持ちよさそうにしている。
毛皮で夏バテしていなくてなによりだ。
「暫く見かけなかったけど、上で涼んでたのかな?」
「ぶなー」
「ここも涼しいけど、てっさは着込んでるから暑いもんね」
「ぶなぶなぁ」
久しぶりに会ったてっさを、ここぞとばかりに撫でまくる。撫でるほどに喉を鳴らして擦り寄ってくるので、ますます可愛がる。
「よかったねぇ、てっさ。最近暇そうだったもんねー」
「ぶーなー」
桂に対しては少し不満そうな返答だ。構ってくれないおまえが悪いとでも言いたそうである。
てっさの不満など意に介した様子もなく、
「はい。ロイヤルミルクティー。ちょっとだけ蜂蜜入れてあるから、コクがあって美味しいよぉ」
有紗の前にグラスを置いた。
待ち望んでいたロイヤルミルクティー。一口飲むと、甘みとコクと、濃い茶葉の香りがふわっと広がった。
「はぁぁあ。おいしい~」
有紗にとってご褒美にふさわしい味だった。一息に飲んでしまいたい衝動を抑えながら、ゆっくりと飲み進めていく。
少しして宇佐木が差し出したのはスコーンが二つ載ったお皿だった。
「ほい。クロテッドクリームと今日は木イチゴのジャム付き」
「クロテッドクリーム?」
「うーんっと、脂肪分の高い牛乳を煮詰めて作った……濃い生クリームみたいなやつ」
「へぇ。それって初めて」
小さなココット皿にクロテッドクリームとジャムがそれぞれ入っている。
バターナイフでまずは未知のクロテッドクリームをすくい取り、スコーンに載せた。
くん、と嗅いでみる。僅かに乳臭さを感じるも、それ以外の感想がない。
「いただきまーす」
まずはクロテッドクリームだけをぺろりと舐めてみた。殆ど無味で、遠くに生クリームのような、若しくはバターのような味と香りがする。これだけでは美味しいと言えるものではないようだ。
次に、クロテッドクリームごとスコーンを頬張った。それだけでは味気なかったクリームが、スコーンのアクセントとなって美味しく感じる。たっぷり塗ったクリームも、口の中に入れてしまえば濃厚なのにすぐ溶けてしまう、不思議な感覚だった。
「このクロテッドクリームって面白いね」
「俺はジャム派だけど、好きな奴はハマっちゃうみたいでさ。一応スコーンにつける定番なんだぜ。本式はジャム塗ってクロテッドクリーム塗るんだけど、まあ好きに食べろよ」
「へぇ。知らなかった」
続けて木イチゴのジャムを塗って食べる。甘酸っぱい味は、これも癖になりそうだ。
クロテッドクリームとジャムとを交互に食べたり、両方同時に塗ったりしてみるも、どちらも甲乙つけがたい。
スコーンとトッピング。どちらかが余分に残ることがないようにたっぷり塗りながらスコーンを食べ進めていった。
「テスト終わったって事は、このあと夏休み?」
「そう。九月末まで夏休み」
「え! 二ヶ月もあんの?」
宇佐木は目を丸くして驚いている。
「そうだよ。大学は大体二ヶ月夏休みだよ」
「マジか……」
「あれ、宇佐木くん、知らない?」
「うん。俺、大学行ってないから大学生活ってよくわかんないんだ」
「そうだったんだ」
「宿題とかってあるんだろ?」
「ないよ?」
「ないのかよ!」
「まだ私一年生だからゼミもないし、もしかしたら取ってる授業の先生によっては課題出すのかもしれないけど、少なくとも私は宿題なし」
「へぇぇ。大学生、凄いな。宿題なしで二ヶ月休みって、暇じゃね?」
「暇じゃないよ。やりたいこといっぱいあるんだから」
「日頃だってここに来て時間潰してるのに、夏休み、何するんだよ」
そう問われ、少し考えた。テストのことで頭がいっぱいだったので、夏休みのことはまだ計画がない。
咄嗟に思いついたのは、
「映画見に行ったり、夜更かしして本読んだり……」
「それって、いつでも出来そうだけど……。旅行に行くとか、実家帰るとかじゃないんだ」
「そういう予定は……ないなぁ」
宇佐木の言うとおり、映画に行くのも夜更かし読書も、時間のやりくりや週末で出来そうなことだ。
もっと規模の大きなこと。夏休みにしか出来ないようなこと。有紗は腕を組んで考えた。
「はっ」
一つだけ思いついたことがある。
「ね、宇佐木くん。ここってアルバイト募集してないの?」
「ここ、って、ここ?」
「そう。有栖川茶房で」
仕送りで暮らせているので日頃はアルバイトをすることなく過ごしているが、夏休みならば何も気にせず働くことが出来そうだ。期間は限られているが、その間で雇ってくれるところがあれば良い経験になるようにも思える。
「ね。ここでバイトしたい」
唐突な思いつきがとてもよいものに思え、有紗は少し身を乗り出して宇佐木に言う。
一方の宇佐木は困ったように桂に目線を遣った。
「っていっても、ご覧の通り、この人数で足りてるからさぁ。なあ、桂」
「そうだねぇ。二人で回せてるから、募集は特にしてないんだぁ」
「でも、ほら。宇佐木くんや桂さんも夏休み取るでしょ? その間とか」
示された難色に対して、有紗は食い下がる。
宇佐木と桂は互いに顔を見合わせて、困り顔のようにも見える変な顔をしている。暫く二人で向かい合った後、宇佐木が眉尻を下げて申し訳なさそうに、
「代打はもう頼んじゃってるんだ……。ごめんな」
「そんなぁ。……そっかぁ……残念」
不要なものを押しつけるわけにはいかない。
それ以上粘ることは断念して、有紗は肩を落とした。
「ごめんな、アリス。この店、小さいし」
「いいの。私こそ無理言ってごめんね」
夏休みの予定はこれからゆっくり考えることにしよう。そう気持ちを切り替えて、最後の一口にクロテッドクリームをすべてすくい取って塗りつけ、食べきった。
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