10杯目 隣のお客様

「そうそう。この間、ジャックさんとご飯食べたんだー」

 この話題をきっかけに、宇佐木の手が完全に動きを止めた。

 今日はカウンター席で向かい合っていた二人の間に、微妙な空気が通り抜け始めるも、当人達は気付いていない。

 桂は楽しそうに首肯するだけ。仲裁役の太った猫は今日は店にいない。

 有紗の話を止めようとか、宇佐木の意識を引き戻そうとする者は、この場にはなかった。

 一通り話が終わり、あの料理は美味しかったという話の反芻をしていると、ドアベルが鳴った。

 入ってきたのは、小さな段ボールを抱えたジャック。話題の人だった。

「桂。頼まれてたこれ」

「あー、助かったよー。うっかりしてたからねー」

「桂のうっかりは通常運転だろ」

 ジャックは持ってきた段ボールを渡すと、いつもの席に着きながら、

「コーヒーを……」

 言いかけたところに、

「おまえに飲ませるコーヒーなんてねぇもん」

「な。……なんでだ」

 突如、憮然として言い捨てられ、さすがのジャックも困惑した様子を見せた。

「や、弥生。突然何なんだ」

「しらね」

「知らない、って。間違いなく何かあるだろう」

 ジャックは桂に有紗にと目線を遣る。首を傾げる有紗に対して、笑みを浮かべていた桂が口を開いた。

「ジャックがアリスちゃんと抜け駆けデートするから拗ねちゃったんだよ」

「そんなんじゃねぇよ!」

「じゃあ、クオーリのごはんをぽーんって奢ってあげられない甲斐性の無さを思い知っちゃったとか」

「いいから早くその箱開けて二階行けよ。イトーくんおかんむりだぞ」

 そう言っている宇佐木の声も、相当の怒気を含んでいる。桂は意に介していない様子で鼻歌交じりに箱を開け始めた。

 あの日の夜もジャックはダンボールを運んでいた。今日の箱はあのときより二回り以上小さい箱だが。

 ――気になる……。

 有紗は目一杯背筋を伸ばして桂の手元を覗き込んだ。

「その箱の中身って何なんですか?」

「何処かの飼い主が大切なごはんを買い忘れたのでお使いを頼まれたんですよ」

「そうそう。すっかり忘れて切らせちゃってさー。朝からイトーくん何も食べてないんだよねー」

 ジャックの言葉に呼応しながら桂が取り出したのは、ひまわりの種。それと、中身の見えない紙袋と、もう一回り小さな箱。

 メインは勿論ひまわりの種で、かさかさと振って有紗に見せてきた。

「イトーくん可哀想!」

「ちょっとご飯あげてくるねー」

 カウンターでの仕事をうっちゃり、桂は足早に二階に上がってしまった。

「サボりやがって……」

 宇佐木が小声で悪態を付いたのはさておき。

 彼がコーヒーを淹れる様子は未だ無い。ジャックも用事が済んだ今も、居心地悪そうにしながらも帰ろうとしていない。

 店内に妙な空気が流れていることに有紗は今初めて気が付いた。

 ――あれ。なにがあったんだろ。

 原因を探るべく、店内に入ってからのことを思い返す作業に取りかかった直後、口を尖らせた桂が二階から降りてきた。

 右手の指先を立てて、さすったり咥えたりしている。

「指噛まれちゃった……」

「当然の結果だよ」

「悪いと思っていつもよりいい種も持ってきて貰ってさ、それをあげたのにイトーくんったらがぶってするんだよ。酷くない?」

「酷くない。おまえの方がよっぽど酷い」

「宇佐木くんが酷いよ~」

「ぶなっ、ぶなぶな」

 二階から一緒に降りてきたてっさが、桂の足下で尻尾を激しく床に叩き付けている。宇佐木と一緒になって桂を非難しているようだ。

「てっさ、イトーくんと一緒に居てあげたの?」

「ぶなあ」

「なかよしなんだねー」

「ぶーなー」

 てっさは桂の足下から離れると、有紗の隣の席に飛び乗って香箱を組んだ。撫でてやると機械の駆動音のような音をして喉を鳴らしている。

「もー。猫撫で声なんて出して、てっさったらアリスちゃんには愛想いいんだからぁ」

「文句言ってないで仕事しろよ」

「えー、だってー、指痛いんだもん」

「ちょっと赤くなってるだけだろ。血も出てねぇじゃん」

「やーだー、痛いー」

「何が嫌なんだよ」

「やーだーやーだー。宇佐木くんがいじめるぅ」

「うるせぇなぁ……」

 宇佐木の機嫌が未だかつて無く悪い。

 視界の端でもう一度コーヒーを注文しようとしていたジャックが動きを止めたのが見えた。

 このままでは、閉店時間になっても注文のコーヒーは出てこないに違いない。

 そもそも何故、宇佐木が機嫌を損ねてしまったのか、有紗には皆目見当が付かなかったが、

「宇佐木くん、コーヒー一杯頂戴?」

 いいことを思いついた。

「え、うん。いいけど」

 有紗が頼んでいた紅茶はティーポットにまだ残っている。

 怪訝そうにしながらも、レギュラーコーヒーを一杯、宇佐木はアリスの前に差し出した。

 受け取ったコーヒーを、そのまま右側へスライド。ジャックの前で止め、

「左のお客様からです!」

 一度やってみたかった。

「ありがとうございます」

 一連の流れを目で追っていた宇佐木が驚愕の表情を浮かべ、

「ずるい、ずるいぞ」

 向ける対象も定まらないままに口を尖らせた。

「アリスちゃんのほうが一枚上手だったね~」

「ずるい! 卑怯だぞ、ジャック」

「俺は何も言ってないししてない」

「ぬぬぬぬ」

 歯痒さに耐えかねている宇佐木の前で、ジャックは涼しい顔をして熱々のコーヒーを一口。

 ひとここちついたところでジャックが小さく頭を下げ、礼を寄越してきた。

「アリスちゃん。手間をかけさせてしまってすみません」

「本当にご馳走してもいいくらいです。先日、いっぱい食べたのにご馳走して貰っちゃったし」

「何を言っているんですか。年下の女子大生に払わせるなんて社会人のすることじゃありませんよ。大体、誘ったのはこちらですし、俺の方が圧倒的に食べてるんですから」

「……確かに、凄まじく食べてましたね……。お会計の桁も凄かったですね……」

「ね。だから、先日の夕食もこのコーヒーも、気にしなくていいんですよ」

 財布はおろか小銭を差し出す余地もない。

 これ以上意地を張るのはむしろ失礼な気がして、撤退を決めた。

 一方向かいでは、両手に拳を作ってカウンターに押しつけていたかと思えば、

「くっ……。このイケメン……」

「何を言ってるんだ。顔を言うなら弥生の方がいいだろう」

「そういう話じゃねぇよ! だからおまえキライだよ」

「そうか。俺は嫌われていたか。知らなんだ」

「かーっ! そうじゃねぇ! もうヤだ! シラネ!」

 宇佐木は若干支離滅裂になった上、持ち場を放棄して二階に上がっていってしまった。

 太った猫が後を追う。

 扉を閉める大きな音がして、それきり静かになった。

「今日の弥生はどうした? 語彙はないし短気だし」

「短気はいつものことだけどねー。だからさっき言ったじゃない。誰かさんが抜け駆けデートなんてするから拗ねちゃったの」

 桂が目線を遣るのはジャック。

 しかし当人は、

「何を言われているのかわからない」

「デートってなんですか? なんで宇佐木君が拗ねるんですか?」

 勿論、有紗も何の話かわからなかった。

 疑問を返して答えを聞こうとしたが、相手は桂。

 意味深な笑みを浮かべると、

「おやおや。鈍いのがそろうと大変だねぇ。もー、巻き込まないでよー? めんどくさいの嫌いだからさぁ」

 宇佐木の代わりにカウンターに入った。

 とはいえ、新規の注文もないのですることはない。持ち場についただけで桂が手隙であることには違いなかった。

 ぶらぶらと、手が遊んでいる。

「桂、暇そうだな」

 その怠惰を見やってか、ジャックが残り少なくなったコーヒーを啜りながら声をかけた。

「暇じゃないよう。イトーくんに噛まれた指が痛くって、治療で忙しいんだよー」

「困ったな。紅茶が飲みたいのに」

「ちょっとぉ。いっつも絶対に頼まないくせに、なんなの? イジワルなの?」

「残念だ。今日の二杯目は桂の紅茶と決めていたのにな」

「絶対イジワルでしょー。もー。ぜんっぜんイケメンじゃないじゃない」

「じゃあコーヒー淹れてくれ」

「ほんっともうヤダ! 宇佐木くーん。戻ってきてよう」

 流れるように桂まで二階に上がっていってしまった。

 横ではコーヒーカップを抱えた二枚目が、清々した顔をしている。

「ジャックさん。どうしましょう」

「食い逃げしたらどうです?」

「ええー! さすがにそれはちょっと」

「まあ、無銭飲食はともかく、多分しばらく戻ってこないでしょうから、頃合いを見て帰って大丈夫ですよ」

「……そうします」

 紅茶もあと一口で終わってしまう。

 ジャックがいるので会話には困らないが、さすがにいつまでも居るわけにはいかない。

 そして、薄々気づいてはいたが、

 ――最近、お客さん扱いされてない……。

 職場放棄する店員に、無銭飲食をそそのかそうとするその身内。

 ――深く考えるの……やめよ。

 注文をすべて胃に収めても、やはり彼らは戻ってこなかった。

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