9杯目 続・リストランテ クオーリ

 早くもテーブルが一杯になっている。

 前菜はとうの昔に平らげ、今はパスタやピザの皿が席巻している。

 主食の隙間にカルパッチョやアヒージョなどのサイドメニューも並び、行儀悪くも迷い箸をしてしまいそうだ。

 しかも、瑛が言ったとおり、ジャックが小気味よく食べていくので、少し図々しい程度に取り皿に避けておかないとあっという間に皿が綺麗になってしまう。

 彼は食べ方は綺麗だが、一見すると普通に食べているようなのに、早さが尋常ではない。関知できない早さでジャックは料理を胃袋に入れている。

 まさに〝消える〟という言葉が相応しい。

「アリスちゃん、ちゃんと食べてますか?」

「だい、じょぶ、ですっ」

「俺、食事になると気が利かなくなってしまうので、食べたいのがあったら多めに取っておいてください」

「あ、じゃあ、そのピザをもう一切れと、ボンゴレを……」

「取りますね」

 と、取り分けてくれたのだが、取り分け皿に小山になっている。

 多い。

「あの、ジャックさん……」

「多かったですか?」

「えっと、次は、自分で取りますね」

「すみません……」

 謝らないで欲しいと伝えれば、再び謝罪がやってきそうで、有紗は盛られたパスタに手を付けた。

 こうすれば取り返せまい。

 本当は今、自分がもっと大食漢であればいいのにと思っていた。出てくる料理はどれも美味しく、ひとくち食べれば口が次を要求して止まらない。頼みもしないのに次から次へと色々な料理が出てくるので、どれもこれも食べてみたい。

 故に、一種類につき少しずつ、まんべんなく食べるようにしないと、胃袋の許容量はすぐに限界を迎えてしまう。

「アリスちゃん。無理して食わなくていいからな。放っとけばコイツが全部平らげちまうから」

 瑛が両手に一つずつ皿を持ってやってきた。

 一つはリゾット。もう一つは、

「う……それ、エスカルゴですよね……」

「カタツムリ苦手?」

「カタツムリとか言わないでくださいよう。ますますダメになりそう……」

「んじゃオミ。さっさと食え」

 ジャックがまだパスタを巻いている皿を強制的に退かし、瑛は彼の目の前にエスカルゴのオーブン焼きを据えた。

 邪魔をされてジャックは僅かに眉を顰めたが、巻き取ったパスタを口に入れると、何事もなかったかのようにエスカルゴをフォークに刺し、食べ始めた。

「今日のはいつもより旨いな」

「いいのが手に入ったんだよ。おまえが荷物持ってくるって聞いて、取っといたんだぞ」

「随分と恩着せがましい物言いだな。食べて帰るとは限らないのに」

「夜におまえが来て何も食わないで帰るなんてまず無いもんね」

 そんな会話の間にエスカルゴは消えて無くなっていた。

 見るのもぞっとするものが早々に姿を消したのは有り難い。が、こんな速度で食べて本当に大丈夫だろうか。

「ジャックさん。ちゃんと噛んでます?」

「人並みには咀嚼しているつもりですけど」

 卓上は全て飲み物かと勘違いする速度で食べているのに、その合間に噛んでいるとは到底信じがたい。

「ホントですかぁ?」

 ピザを頬張り始めたジャックを有紗は半ば睨むように見つめた。

 始めは噛んでいるかどうか解らなかった。少しして、いつの間にか咀嚼も嚥下もしていないことに気付いた。

 ――あれ。おかしいな。

 先程まで勢いよく食べ物が消えていた口が、食べるために開かれない。

「あの……流石に食べづらいんですが……」

「だってだって、絶対丸呑みしてるもん。胃に負担がかかって良くないんですよ? ちゃんと噛まなきゃ」

「ちゃんと……噛んでます……から」

 居心地が悪そうにジャックは有紗から目線を外した。

 代わって、瑛の笑い声が入り込んでくる。

「オミもアリスちゃん相手だと弱いなぁ。ま、アリスちゃんもあんまり虐めてやるなって。こいつにはこれが普通なんだ」

「むう……。身体悪くしないならいいですっ」

「ところで、ジュース、空になってるけど、何か持ってこようか」

 指差されたグラスは、空っぽ。途中から食べることに夢中になって、飲み干してしまったことを忘れていた。

「えっとじゃあ、アイスティーを……」

「有栖川みたいないい紅茶じゃないけど大丈夫?」

「なんか、見えない圧力を感じるので、是非紅茶で!」

「はいよ~」

 去っていった瑛とほぼ入れ替わるようにして、入店時に席まで案内してくれた店員がアイスティーを持ってきてくれた。奥で会話を聞いていたとしても早い。

 その人は控えめの声で、

「ジャワのストレートティーだよ」

 そう教えてくれた。

「知ってる! 食事に良く合う紅茶だよね?」

「そう。特にここの料理には良く合うと思うよ。じゃ、ごゆっくり」

 去っていったその人は癖のある前髪で顔の半分が隠れてしまい、女性か男性かも判別が難しい。雰囲気も中性的で、声を聞いて男性かとは思うも、確信は抱けなかった。

 そして、慣れっこになってしまったタメ口。

 不満は何も無いが、別件で気になることが一つ。

「ねえ、ジャックさん。このお店も、お客さん来ない感じのお店だったりします?」

「なんでまた」

「初対面の距離の近さが有栖川茶房と同じだからもしかしてって思って」

「大丈夫。ここは表にあるのでちゃんとお客さん来ますよ」

「よかった」

 言ってから、有栖川茶房に失礼だったかと心を掠めたが、気にしないことにした。

 何しろ、従業員がまるで気にしていないのだ。気の向くままに改装できるくらいなのだから、潰れてしまう心配もないのだろう。

 ……そう、信じている。


   *


 デザートまでしっかり胃に収め、空いた皿が片付いたテーブルに最後に置かれたのは、カバー付きの伝票挟み。

 そっと鞄から財布を取り出し、いくらだろうかと緊張していた。なにしろ、食べた量が尋常ではない。主に食べていたのはジャックとはいえ、単価も気にせず有紗もかなりの量を胃に収めている。

 しかし、ジャックは開きもせずカードを挟んで、持ってきた瑛にすぐさま返した。

「えっと、ジャックさん、お支払い……」

 有紗は財布を抱えたまま、ハの字眉になった。

 ジャックはそれを見ると首を振って、

「財布は仕舞っててください。いつもうちの店を贔屓にして貰ってますし」

 譲らなかった。

 困って瑛を見るとやはり笑顔で首を振り、

「奢られとけって。アリスちゃんが食べた分の算出とか無理だし、コイツと割り勘にすると散財するだけだから。伝票、見る?」

 と、差し出されたのは領収書。

 コンマの左側に二桁ある。

「うわぁ……。桁が一個違う……」

 しかも、左端の数字が1ではない。

 反射的に財布が引っ込んだ。

 六人掛けのテーブルを常に一杯にしていれば当然と言えば当然。

 それにしても、

「毎回こんなに食べるんですか?」

「いえ。今日は少し食べ過ぎました。満腹です」

「おまえが満腹とか言うの久しぶりに聞いた」

「そうかな?」

「いつも仕方なく腹七分目くらいで止めてる雰囲気じゃん」

「夜来るときは酒飲みながら食べるからそう見えるんじゃないのか?」

「だといいけどな」

 カードを挟んだ伝票挟みで仰ぎながら、瑛は行ってしまった。

 去り際にちらと見せた口元は、ジャックの言葉などまるで信じていない。そんな上がり方をしていた。

 食えない人だ。

 知り合ってまだ間もないが、うっすらとそう思う。

 敵ではない。それは確かだ。でも、食われてはいけない。呑み込まれてはいけない。

「アリスちゃん? どうかしました?」

 ジャックの問い掛けに、一瞬で我に返った。

 何を考えているのだろう。敵とか、食うだ呑まれるだとか。縁のない言葉が次から次へと湧いてきていた。

 どうかしてる。

 有紗は首を一つ振って一瞬前を否定した。

「何にもないですよ。それより、今日はごちそうさまでした。雨宿りのつもりがゆっくりしちゃいましたね」

「エース以外と食事をするの久しぶりだったので、楽しかったです。こちらこそありがとうございました」

「あれ。妃さんとはご一緒しないんですか?」

「最近一緒に食べてくれないんですよ」

 何故、と問おうとすると、

「オミと一緒に食べると食い過ぎちまうんだってよ。この前、太ったって言って嘆いてたし」

 会計が終わった瑛が戻ってきた。

 彼はレシートとカードをジャックに押し付けるように返し、

「誰の金でも遠慮しないで食うしなぁ。売上は上がるけど、俺としては外貨が欲しいわけ」

「注文の多い店主だな」

「桂ほど多くねぇよ」

「比較対象が悪すぎるだろ」

 気付いてはいたが、この二人、話し始めると止まらない。

 話し込んでしまわないのは救いだ。

 ジャックは話ながらも手を止めず、すっかり帰り支度が整っている。

「じゃ、帰りましょうか」

「結局おまえ、敬語抜けなかったな」

「万人と同じように話す奴もそう居ないだろ。おまえじゃあるまいし」

「お。それ、褒めてる?」

「さ、行きましょう」

 改めて促され、無視された瑛の横を通り抜けることになった。

 店を出る間際、紅茶を持ってきてくれた店員も姿を見せ、

「良かったらまた来てね」

 と、手を振って見送ってくれた。

 同じように手を振って応じながら表に出ると、湿度の高い重い空気がやってきた。代わりに、空には雲がない。

 初夏の気温の名残のせいで、心地好くないのが残念だ。

「あ。雨、止んじゃいましたね」

「これじゃあ駅まで送っていく口実が無くなっちゃいましたね」

 ジャックも空を見上げ、独り言のように呟いた。

 少しわざとらしく聞こえたにもかかわらず、有紗は反射的に焦りを感じ、

「え、でも、ここからじゃ道わかんないし!」

 そう引き留めれば、

「それじゃあ、どうぞ」

 淀みない動きで助手席のドアが開けられた。

 誘われるままに車に乗り込む。

 雨で慌てふためいていたときとは違い、しっかりと意思を持って。これは迷い込んでいるのではない。なんとなく、そう思いたかった。

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