初めての悪意・5
二時間ほど歩いただろうか。
アリスたちは何の変わり映えもない森の中をただひたすら黙々と進んでいた。ずっと歩き通しだ。アリスが休憩しようと言えば凪はすぐにでも足を止めただろうが、そうしなかったのはアリスの身体には全く疲れが来なかったからだ。これだけ山中を歩きにくい服装をしているにも関わらずである。前世の身体であれば三十分も歩けば休みたくなっただろうが、今は不思議とまだまだ歩けそうな気がした。
「!」
凪が不意に足を止めた。開いた手を後ろに向け、後続にも止まるように促す。
隊列の右斜め前方、木々に紛れて蝙蝠とも鷲ともつかない妙な生き物がいた。鳥にしてはやたら大きく、背丈は一メートル程度。全体的にフォルムがシュッとしていて、大きな嘴が鋭く湾曲している。顔は鳥のようなのに、身体には羽が生えていない。翼は哺乳類の水かきのようにも見える。凪までの距離は三十メートルというところだろうか。嘴だけは鮮やかな黄色だが、他の部位の体色はほぼ茶色と黒という地味なものなので、薄暗い森の中ではここまで気付かなかったのも無理はない。
凪は事前に決めておいた通りに両手を後ろに振って後退の合図を出したが、巨大な鳥(?)はすぐにこちらに気付いた。
「クエー!」
翼を広げて威嚇すると、ドタドタとこちらに走ってくる。羽の下にある肉体は妙にがっちりしていて、陸上生物のようにも見える。翼があっても飛べないのか、それともあえて飛ばないのか。いずれにしても鳥のような巨大生物が正面から走ってくるというのは、かなり威圧感のある異様な光景だった。
「お嬢様」
アリスが振り向くより早く、既に追いついたジュリエットがアリスの肩に後ろから顎を乗せて囁いた。吐息が耳に当たってくすぐったい。
「慌てることはありません。せっかくですからここは凪様にお任せしましょう」
「そんな人任せな」
「わたくしの見立てが正しければ、凪様の戦力は十分で御座います」
実際、凪の判断は早かった。
腰のホルスターから拳銃を抜く。構えに移行するまでに安全装置を外す。照準を定める間隙を入れずに即座に発砲。弾は謎の生き物の頭真ん中に直撃し、苦しむ間もなくその場で後ろにのけぞって仰向けに倒れた。肉片がそこら中に飛び散る。凪が動き始めてから決着が付くまで一秒もかからなかった。
「お見事。さすが、警官ともなると射殺もお手の物ですね」
「そういう言い方はやめてくれないか。動物であっても殺生は可能な限り避けたい。選んでいる余裕がなかった」
クリーチャーは首から上を完全に破壊されている。身体だけが地面に転がってピクピクと痙攣していた。近付いて確認すると、やはり陸上生物に似た身体をしている。鳥と違って足の先まで筋肉で出来ているが、つま先には鉤爪のようなものが付いていてアンバランスだ。他の鳥らしい要素としてはやたら立派な翼が付いているものの、やはり雨傘のようというか、爬虫類系の質感で、とても奇妙だった。
「一応聞くが、この動物を見たことがある者はいるか?」
凪の言葉に全員が首を振る。
「僕も思い当たらない。生態系は私たちがいた世界とは違うようだな」
凪は顎に手を当てる。しかしアリスはこのクリーチャーがもう不思議ですらないというか、「そりゃ変な生き物くらいはいるだろうな」程度にしか思っていなかった。さっきフローラの魔法を見た分、異物に対する許容度が凪よりも下がっているのかもしれない。それでも、危険であることには変わりがないが。
「急いだ方がいいわ。こんなものがいる森で野宿はしたくないもの」
アリスの言葉に凪が頷いたとき、ジュリエットが真上を指差して首を振った。
そこには空中で大きな鳥がこちらを見下ろし、バサバサと羽ばたいて明らかな敵意を見せていた。今足元に転がっている鳥と多分同じ種族だろう。しかし今度は更に大きく、しかも飛行能力を持っているようだ。それでいてあのがっしりした肉体も健在という上位互換。
「お友達の方でしょうか。もう少し早く頭を吹っ飛ばされていれば、ご友人も軽くて飛びやすかったかもしれませんね」
「参ったな。どうやら、この森は思っていたよりも危険に満ちているらしい」
「さっきみたいに銃で撃ち落とせないかしら」
「弾数は限られている。一発で仕留められる状況以外で撃ちたくないし、ここで射殺したところでまた別の個体が襲ってくればジリ貧だ。複数いることがわかった以上、別の対処方法を探った方がいい」
確かに、今度の怪鳥は高い上空を旋回し続けていた。あれに弾丸を当てるのは至難の業だろう。空を飛ばれては照準が定まらないし太陽も眩しい……と考えて、ふとアリスの思考が立ち止まる。
あの光っているものは太陽なのだろうか?
だって、ここが地球という確証はないのだから。太陽的な何かであって太陽ではないかもしれない。今まで当たり前のようにそう思っていたが、ここでは太陽的な何かが沈んで、夜的な何かが来て、月的な何かが昇ってくるとも限らない。
とはいえ、そんなことを言い始めたらキリがない。地面的な何かがもっとカラフルな色だったり、木々的な何かが喋っていてもよいことになるが、今のところそうはなっていない。とりあえず、実際に異なるものを確認するまでは、かつての常識の範囲で物を考えるのが妥当なように感じる。現状での例外は、フローラの魔法と目の前の怪鳥。この例外リストはこれからも増えていくだろう。そういう考え方をした方が、これからの異常事態にも備えやすいはずだ。
ジュリエットが手でひさしを作って空を仰ぐ。
「拳銃を貸していただければ、わたくしなら当てられますけれど」
「駄目だ。訓練を受けていない一般人に拳銃を貸与することは、どんな状況でも認められていない」
「残念です。まあ、槍か弓矢あたりがあれば十分だと思いますが」
ジュリエットが冗談とも本気ともつかないことを言ったとき、突如飛来した矢が怪鳥の脳天を下から貫いた。怪鳥はそのまま動きを止め、地面に落ちてずしんと大きな音を立てる。一撃だった。
「そう、ちょうどこんな風に!」
ジュリエットが大袈裟な拍手をした。その一方、凪は緊張した顔で声を潜める。
「まずいな。我々とは別に、武器を扱える人間が近くにいる。拳銃に比べれば劣るとはいえ、弓矢にも十分な殺傷威力がある。弾数も恐らくあちらの方が多いだろう」
「ええ、ええ、そうですね。地上から空中に放たれた角度からすると、遠くて二百メートルというところでしょう。なんであれ、『異邦人』か『現地人』かが気になるところです」
ジュリエットは目を輝かせてあたりを見回し、凪は拳銃を握りなおした。脅威が一つ排除されると同時に、別の脅威が出現したわけだ。あの鳥を落とすほどの威力の弓矢による攻撃を受けた場合、ほとんど飛び道具を持たないこちらの勝機は薄い。凪が持つ拳銃の残弾数が何発あるかは知らないが、さっきからそればかり気にしているあたり、そう多くはないのだろう。
すっかり臨戦態勢に入る二人に比べ、フローラはアリスをくいくいと手招きして木にもたれかかるのみだ。特にやることがないアリスもその横につく。フローラの横顔を見ると、興味なさげな姿勢とは裏腹に、その視線は凪を注視して動かなかった。
「武器を扱える人間」はすぐに姿を現した。
ジュリエットがフローラに遭遇したときのように即座に攻撃をしなかったのは、彼らが頭上何メートルもある木の上から現れたからだ。そして凪が狙撃をしなかったのは、とりあえず彼らが弓矢をこちらに向けてはいなかったからだ。アリスがそこまでの経緯を認識したのは、つまり、高い木の上に男女の一組の姿を認めたのは、凪とジュリエットが彼らの姿を捉えてから何秒か後だった。
「……エルフ?」
見たままの感想がアリスの口から漏れる。
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