初めての悪意・3

 今から初対面の相手の小指を折る。

 じゃあ、としゃがんでジュリエットの小指を両手でギュッと握るが、そこからどうすればいいのかわからない。ムキムキのレスラーならともかく、小柄な少女が力を入れてすぐにバキッと折れるものでもないだろう。


「どうするの、これ」


「アリス様、他人の小指を折った経験が無いのですか?」


「あるわけないでしょう」


「小指とはいえ、腕力で骨を折るのは女性には難しいです。足をお使いください。踏むのです」


「なるほど」


 立ち上がり、アドバイス通りに指先を軽く踏みつけた。小さな黒いブーツの靴底で小指をコンコンと叩く。人様の身体を踏みつけるのは初めてだし抵抗はあるが、相手がやれと言っているのだから仕方ない。


「ここからどうするの?」


「体重をかけるだけですよ」


 ジュリエットは簡単そうに言ったが、小指を折る作業は難航した。

 物理的にではなく、心理的に難しいのだ。小指に体重をかけていき、柔らかい指先を堅く感じるようになったあたりで、ついつい腰が引けて足を浮かせてしまう。それに小指は思っていたよりは丈夫だった。すぐにポキリといってくれればいいものを折れそうで折れずに関節が懸命に突っ張ってくる。すると、「これ以上やると折れてしまう」という本末転倒なブレーキがかかって、それ以上進めなくなってしまうのだ。自分が痛いはずはないのに、太い注射器を見たときのような、嫌な痛みの前兆が押し寄せてくる。呼吸が荒くなり、心臓の鼓動が早くなる。何故か自分が処刑台にかけられているような、じっとりとした恐怖が身体を包む。

 十分近く格闘した頃には、アリスの方が焦燥と緊張で汗だくになっていた。ジュリエットは足元から涼しい顔でアドバイスする。


「一息にいきましょう。全体重を乗せるので御座います。ジャンプして飛び乗っても構いません。何か言いながらやると勢いで突っ切れます」


「なんていえばいいのかしら」


「やるぞー、とか」


「よし、やるぞ、やるぞ、やるぞー……」


 アリスはもはやこの異常な行為の目的を忘れかけていた。とにかくなんとしても指を折らなければならない、という強迫じみた思いと共にその場で地面を蹴った。と思った次の瞬間には、細い小枝を折るような感覚、パキッという音、そして地面の堅さ。さきほどまでの頑丈さが嘘のように、小指は一瞬で折れた。


「うぐっ……」


 指が折れる瞬間、ジュリエットは低くこもったうめき声を漏らした。表情が苦痛に歪み、奥歯を噛み締め、ギュッと瞑った目から涙が滲む。先ほどまでの余裕ぶった様子からは想像も付かない有様だ。足首を弱弱しくタップされてアリスはようやく指を踏みつけたままだったことに気付き、急いで足を浮かせた。


「ちょっと、大丈夫?」


 小指は見るも無残な姿に変わり果てていた。関節は完全に破壊され、逆の方向に曲がり、白い骨が露出している。その横には黄色い脂肪がはみ出して平たく潰れている。骨が突き破った皮膚から溢れ出した血液が草を濡らし、地面に真っ赤な溜まりを作っていた。


「大丈夫ではありません……とても痛いです、すごく痛い……」


 苦し気な言葉とは裏腹に、ジュリエットは手馴れた様子で自分自身の処置を始めていた。脂汗をかきながらもまずは一度だけ深くゆっくり深呼吸して息を整える。折れていない方の手で手首を強く掴んで神経と血管を圧迫する。患部を心臓より高く上げて止血に努める。


「アリス様、しばらく手首を握って頂けますか」


「あ、うん」


「もっと強く。握力検査のように、出せる限りの力で」


「わかったわ」


 言われるがまま、アリスはジュリエットに代わって手首を両手で思い切り握った。ジュリエットは空いた手で折れた小指を掴んだ。そして思い切り逆向きに折り曲げる。口からは噛み殺した絶叫のような苦悶の声が漏れるが、動きには迷いが無い。向きを正した小指に地面から小枝を拾って添えると、ポケットから大きめのハンカチを取り出し、歯を使って器用に患部を縛った。


「うぐっ……うう……」


 それからしばらくの間ジュリエットは何度も深呼吸を繰り返し、溢れてくる汗を袖で拭い続けていた。歯を食い縛りながらのシュウシュウという喘ぎ声が森に響く。よし、と言いながら一応の微笑みを取り戻してアリスに向き直った頃には、アリスの両手は痺れて感覚がなくなっていた。


「自分から申し出た癖に、ボロボロじゃない。てっきりマゾヒズムの異常性癖だと思っていたんだけど」


「全く違います、アリス様。わたくしに被虐趣味は御座いません。他人からの痛みをしっかりと味わうことが重要というだけです」


「それってマゾなんじゃないの?」


「苦痛は重要ですが、痛いことは苦手です。わたくしのことより、人の骨を折っておいて謝らないでいられるアリス様も大概だと思いますが」


「だって、あなたがやれって言ったんじゃないの」


 いまさら責任転嫁されても困る、とアリスが頬を膨らませると、ジュリエットは満足気に頷いた。


「いえ、それでいいのです。こういうとき、大抵の人間は罪悪感からついつい謝罪をしてしまうものですが、そういう誤魔化しはわたくしが最も嫌うものの一つで御座います」


「それは良かったわ。一応聞くけど、その指をちゃんと治療するアテはあるの?」


「ありません。壊死が始まるようなら切断も視野に入れましょう」


「小指を失うリスクを負ってでも、苦痛の存在とやらを確かめたかったのね。私にはわからないけど」


「理解が早くて助かります」


 話している間にジュリエットの顔からはもう汗が引いていた。出会ったときのような余裕ある表情が戻ってきている。正直なところ、アリスはこの不遜なメイドのことをもうかなり気に入り始めていた。変態行為を経てもなお彼女の受け答えは理知的で頭は冷えている。この惨状でなお冷静でいられるのであれば、彼女の異常事態に対する耐性は高いと言えよう。これから謎の状況を共にするにあたり、それは心強い性質だ。


「ジュリエット、約束は守ってもらうわよ。私に仕えることと、情報の提供」


「ええ、もちろんです。この身体に初めて苦痛を与えたあなたを主人と認めます、お嬢様」


 ジュリエットは大袈裟に跪き、わざわざ折れた方の手を差し出してきた。骨折した手で握手をさせるわけにもいかないので、アリスは腰を曲げてハンカチに軽く口づけた。キスをする立場が主人と下僕で逆だが、まあいいだろう。


「続いて、あなたについてですが……」


 ジュリエットが言いかけたとき、草むらが揺れた。

 それはアリスから見て前方。ジュリエットからは死角だったはずだが、アリスが気付いた次の瞬間にはジュリエットは地面を蹴っていた。振り向き様に蹴りを浴びせる、というよりは蹴るついでに振り向いたという方が近い。スカートが大きく開き、ヒールが水平に宙を滑る。


 ジュリエットの足刀蹴りを踵で受け止めたのは、白衣を着たナースだった。ジュリエットの鮮やかな蹴りはアリスを驚かせるには十分なものだったが、ナースはそれを片足を上げるだけで踵で受け止め、ただちに下方に振り払った。二人の足が同時に地面を叩く。


 深い森の中、メイドとナースが対峙する。

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