初めての悪意・2

 緑の額縁に青一色の絵。

 それが木々に囲まれた快晴だとわかるまで、実に一分近くかかった。それが自分が仰向けに横たわって眺めている風景だと気付くのに更にもう一分、そして身体を動かして立ち上がれると気付くまでには更にもう一分かかった。


 立ち上がる。私は森にいた。

 湖が目の前にある。その周りを大きな木々が囲んでいる。地面は苔と草に覆われており、赤や黄色の花がぽつぽつと咲いている。小屋や道のような人工物は一切なく、ただただ自然ばかりだ。青々とした草の香り、爽やかな土の匂い。日差しは柔らかく、木々を通り抜けて複雑な影を地面に落としていた。

 手を太陽にかざしてみる。綺麗な手だ。傷一つなく、もちろん炭化してもいない。グーチョキパー。ちゃんと動く。

 ただ、微妙な違和感があった。爪の形、指の長さ、指紋、赤みのある部位、手のひらの紋、青く透ける血管の位置。そんなことをいちいち覚えているわけではないが、少なくとも何かが確実に違う。喩えるならこんな感じだ。パズルを組み上げたら、形は完璧に合っているのに、描かれている絵がほんの少しだけズレている。


「あ、あー……」


 少し声を出してみた。綺麗なソプラノの声が出た。声帯も潤っている。もう一度手のひらを開け閉めして、腕をぐるぐる回してみた。身体は快調この上ない。


 記憶の糸を辿る。短い十六年の人生の最期、猛火で焼けた記憶。のど元過ぎれば何とやらではないが、苦痛そのものはあまりよく思い出せない。しかし、自分の身体の無残な状態は思い出せる。身体のあちこちが焼け落ち、神経が死んでいた。あの状況からここまで回復するのは現代の医療ではとても無理だろう。未来の医療なら可能だろうか。方法としては、脳だけを冷凍保存して身体に移植すれば不可能ではないかもしれない。ひょっとして、そういう経緯で私の身体は換装されていて、そのために身体に違和感があったのか。ならば、現在の姿を確認する必要がある。

 湖の前で前傾し、身体を水面に映した。


「……誰?」


 水面に映る私は私ではなかった。

 代わりに映っていたのは、なんというか、お嬢様だった。長いふわふわの髪を、頭頂部でバカみたいに大きなリボンがまとめている。もともと顔は整った方だったと思うが、少なくともここまで目がぱっちりとして睫毛が長いお人形のような美形ではなかった。試しにウィンクをしてみると、池の中の少女は愛らしい表情で笑いかけてくる。年のころは十六かそこらだろうか。表情や角度によってドキッとするほど大人びて見えたり、無邪気な幼さを覗かせたりする。

 立ち上がって全身の姿かたちまでよく見れば、着ている服も見たことがないものだ。胸元のタイや大きな三角形の襟はセーラー服らしき意匠だが、やたら華やかなフリルやリボンが付いていて、スカートもふんわりと広がっている。制服とゴスロリの中間、こんな服で登校するのはちょっとどこの高校でも無理だろう。しかしこんな格好が滑稽ではなく、あどけない少女にはとてもよく似合っていた。


「可愛いじゃないの。身体は資本、容姿は通貨。万事快調で言うことないわね。誰が用意したのか知らないけど、それなりに気が利くじゃない」


 水面の少女が得意気に笑ってくるりと回る。明らかなのは、この身体はかつて私が高校に通っていたときのそれとは全く別のものだということ。しかし、それは目覚めた時点で予想が付いていたことではある。脳移植でもされたのか、そうでなければ来世とか。いずれにせよ、今はこの身体が上々であるということにだけ喜べばいい。


 そのとき、藪の中からうめき声が聞こえた。獣ではない。人の声だ。そこにある大きな木の裏から、小さくうめく声がする。少しだけ考え、とりあえず確認することに決めた。正体不明のものを放置するのは性に合わない。なるべく音を立てないように忍び寄る。


「第一村人……って感じでもないわね」


 黒いワンピースの上に白いエプロン、そしてヘッドドレス。「メイド」以外の言葉では表現できない女性が仰向けに倒れていた。髪は長く背も高い。自分よりも明らかに年上だろう。草の上に寝転んでいるが、服には葉っぱ一つさえも付いていない。そういえば、自分も森の中にいるにしては不自然なほどに衣服が綺麗だ。まるでワープでもして飛び出してきたかのように。

 見た限りではとりあえず危険人物ではなさそうで安心する。少なくとも包丁を何本も持った大男とか、腕が三本ある緑色の怪物とかではない。むしろ自分と近い境遇としてシンパシーを感じる。こんな山奥に似つかわしくない服装をした、美しい女性というあたりがそうだ。この謎な状況で最初に遭遇する人物としては理想的と言ってもいいかもしれない。


「起きなさい、あなた」


 身体を揺らすと、メイドはすぐに目を開けた。


「……おはようございます」


 メイドはゆっくりと半身だけ起こす。こちらを見る。しばし見つめ合った。メイドは何の捻りもなく美人だった。切れ長の美しい目は寝起きの呆けたものではなく、観察するように落ち着いたものだ。彼女は無言で自分の衣服を確認し、再び目の前にいるフリルの少女を確認し、第一声を発した。


「お嬢様、わたくしの指を折っていただけますか?」


 メイドは上体を脱力させ、勢いよく地面に倒れこんだ。土煙が舞い、彼女は仰向けでこちらを見る。


「お嬢様がこの小指を折らない限り、わたくしは立ち上がりません」


 その表情はさっきまでの無機質な印象とは打って変わって悪戯っぽい。口元に挑発的な微笑みをたたえている。メイドは自分の左小指を立ててこちらに見せる。


「……」


 こいつはなんなんだ。奇天烈な言動に対し、警戒心がアラートを鳴らしている。その場から走って逃げる選択も考えたが、相手が立ち上がらないというならいつでも逃げられる。軽く息を吸って胸を張り、相手のペースに呑まれないよう意識して堂々と口を開いた。


「意味不明だわ。あと、私はあなたのお嬢様ではないわ」


「では、なんとお呼びすれば宜しいですか?」


「有……」


 反射的に答えようとした名前に、あまりの違和感で喉が詰まる。どう考えても今の自分の容姿は漢字の名前ではないだろう。少し頭を捻って、適当な名前を自分に付ける。


「アリスよ。私の名前はアリス」


「良いお名前ですね。では、わたくしはアンリエッタあたりで」


「被るじゃない、『ア』と『リ』が。私の名前の三分の二だわ」


「クララではどうですか?」


「それだと同年代のお友達みたいだわ」


「冗談ですよ。わたくしの名前はジュリエットで御座います」


 メイドはやけに楽しそうだ。そんなに年下の少女と喋るのが面白いのだろうか。


「最初からそう言いなさい。ジュリエットはどうしてここに倒れていたの。メイド服でハイキング?」


「わかりません。何故メイド服なのか、何故山奥なのかも不明です」


「そう。じゃあ、変なことを聞くけど……死んだ記憶とか、ある?」


「ええ。射殺されました」


 メイドはあっさり肯定する。バン、という指のジェスチャー付きで。思った通り、自分と同じような状況ではあるようだ。現状について、お互いに情報を交換したいところではある。しかし、どこから何を喋ったものか。高校に通っていたときの話をするのは違う気がする。肉体がそのときのものではない以上、それを話しても自己紹介にはならない。自分はこの身体の少女のことを何一つ知らない。今確実にわかっていることは、ただ一つしかない。


「ここは死後の世界、次の人生、そんなところでしょう。私も死んだことを覚えているわ」


「死因をお聞きしても?」


「焼死。多分だけど、テロに巻き込まれたの。黒い飛行機が青い空から爆撃してきたのが目に焼きついているわ」


「二千二十二年、五月六日」


 あの日の日付。アリスが喋るよりも早く、ジュリエットはそれを口にした。


「午後三時十五分頃。米軍基地から盗難された戦闘機十一機の編隊が足立区を強襲。揮発性の燃焼剤を散布し、草葉高校と大津病院を含む住宅街半径一キロ四方が火の海に変わる。民間人が百人以上死亡」


 アリスは絶句した。時刻と場所がほとんど正確に一致している。こいつ知っているのか。あの事件を。


「詳しいのね」


「まあ、大事件でしたからね」


 気持ち良さそうに伸びをしてジュリエットは目を閉じてしまった。

 アリスは考える。仮に、自分もジュリエットも死んで転生してきたとしよう。そして、生前の二人はほとんど同じ時間と空間、すなわち二千二十年頃の日本に生きていたことになる。ジュリエットがアリスよりは事件を詳しく知っているということは、タイミング的にはアリスよりも少し後に死んだということになるのだろうか。いやいや、それは微妙なところだ。ジュリエットが言うように、日本での数百人規模の犠牲者が出るテロ事件など世界に轟く大事件だったはずだ。教科書に載って後世に伝わっていてもおかしくないので、それを知っているからと言って同時代の人間とは限らない。


 考え込むアリスを前に、ジュリエットは依然として寝転がったまま小指を立ててウィンクを送る。


「無料の情報はここまでで御座います、アリス様。これ以上知りたければわたくしの小指を折っていただきましょうか」


 同郷のよしみで湧いていた親しみが一気に引いていく。こいつ変態だ。アリスには見知らぬ他人の指を折る趣味などなかった。それに、よくよく考えてみれば、そこまでして事件の詳細を知りたいわけではない。こうして別の肉体を獲得した今、前世の死への執着はわりと微妙なところがある。後遺症が残って苦しんでいるわけでもないし、個人的な恨みを云々して殺されたわけでもない。アリスは「テロに巻き込まれて死んだ」というだけのこと。密室殺人とか人間関係のもつれとか、ミステリーサスペンスな事態があったわけでもない。今更犯人の名前だの思想だのを知ったところで何になるのだろうか。「テロに巻き込まれて焼け死ぬ」というのは数ある死因の中でもかなり不幸な方だとは思うが、犯人を憎む気持ちなども特に湧いてこない。遺族ならまだしも、死んだ本人というのは自分の死因に対してこんなに興味がないものなのかと自分でも少し驚く。


「悪いけど、私はあなたの小指を折らないわ。これ以上事件について知ったところで今更どうなるわけでもないもの。あなた、少し変態なこと以外は悪い人ではないみたいだし、小指のことは諦めて私と一緒に行動してくれると嬉しいのだけど」


 しかし、ジュリエットは引かなかった。

 

「いいえ、わたくしと行動を共にしたいのであれば小指を折っていただきます。それに事件の詳細に興味が無ければ、もっと重要な情報も提供できて御座います」


「もっと重要な情報?」


「ええ。わたくしの推測が間違っていなければ、わたくしとアリス様の関係はそう遠いものではありませんよ。あなたのアイデンティティにも関係することで御座います。これからこの世界で生きていくのにも、恐らくは役立つことだと思いますが……」


 ジュリエットが得意気に笑い、アリスの耳が跳ねる。

 自分の立ち位置があやふやな今、アイデンティティに関する情報と言われれば心を動かさずにはいられない。悔しいことに、ジュリエットの交換条件は俄然魅力的になってきた。彼女をどのくらい信用できるかは甚だ怪しいが、指を折るというだけで得られるのなら、聞いておく価値はあるかもしれない。しかしその前にもう少し探りを入れてみる。


「事件のこともだけど、あなたはずいぶん詳しいのね。ひょっとして、だいぶ前からこの世界にいたのかしら」


「いえ。恐らく、スポーンした時期はアリス様と大差ありません。しかし、前世にかけてはアリス様より正確な情報を持っている自信があるということです。とはいえ疑わしいでしょうから、無料で出せる範囲なら質問を受け付けましょう」


「じゃあ、あなたはどうしてメイドなの? 私はどうして令嬢なの?」


「それについては思い当たる節がありません。ただ、メイドであることの原因は不明でも、メイドであることの結果として仕える主が欲しくてたまらないというところがありますね。適材適所で御座います」


「いいでしょう。それならこっちからも条件を出してあげる。あなたの小指を折るから、メイドとして私に仕えなさい」


 アリスはびしっとジュリエットを指さした。

 アリスが先走った提案をしたのは、結局のところ、極めて安直に言って、ジュリエットの外見は所作まで含めてとても好ましかったからだ。ぐいと寄って近くで見れば容姿は天使がデザインしたかのように整っており、その容姿の整うことと言えば、さっき湖で映して見たアリスの姿に勝るとも劣らないほどだった。たびたび冗談めかして喋る口ぶりも可憐で、かといっておどけるアナウンサーあたりにありがちな俗っぽさというものが全くない。第一声から一貫して丁寧な物腰であることにも好感が持てる。性癖に異常があるからといって性格に問題があるとも限らないのだ。


「願ってもおりません、アリス様。やはりメイドには主君が必要で御座います」


「交渉成立ね。じゃあ、あなたの小指を折りましょう」


 アリスは手を叩いた。

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