第一章 ―終わりの始まり―



『コンビニに行ってきます』――


お世辞にも整っているとは言えない文字が並んだメモを手に、阿藤は沈黙している。雨粒がひっきりなしにビルの壁面を叩き、時折風が窓ガラスを揺らす。とても「ちょっとそこまで」という天候ではないにも関わらず、信濃はわざわざ出掛けていったらしい。らしい――というのも、阿藤は残業中に眠ってしまっていたので、信濃が出て行く現場を見ていないのだ。昨日はすこぶる夢見が悪く、数時間置きに飛び起きていたのが原因だろう。先程目を覚ます直前も、胸に澱みを残すような重苦しい夢を見ていた。今なお尾を引く頭痛に苛まれ、その上この状況である。阿藤は大きく肩を落とし、深い溜息を吐く。

「あー……。マジで何やってんだ、俺……」

独り言と言うには余りある声量で呟くが、応える声はない。阿藤は机上にメモを放った指先で眉間を摘み、信濃の行き先を推察する。信濃のパソコンに表示されていた地図は、長苫(ながとま)四丁目付近のものだった。事務所がある三丁目からは徒歩五分圏内。この大雨の中、どこかの大型犬が散歩でもしていない限り、そう経たずに戻ってくるだろう。妥当な結論を得られた阿藤は小さく頷き、帰り支度に着手する。

「信濃が戻ってきたら、今日はもう引き上げだな……雑務だけ、片づけておこう」

信濃の向かい側、勝谷のデスクからはパソコンの稼働音が聞こえる。しかし信濃のように外出している訳ではない。任務には几帳面な勝谷だが、こうした些細な部分では大雑把なのだ。これまでにも何度かパソコンの電源を切り忘れて帰宅し、翌日音羽所長の小言を食らっていた。阿藤は身を屈め、マウスを手にいくつかのファイルを操作し、保存とクローズを繰り返してからシャットダウンを実行する。

「また怒られるぞ……。懲りないな、勝谷さんも」

他に整えるべき物のないことを確かめた上で虎鉄のデスク前を通り、阿藤自身のデスクに戻る途中、虎鉄のデスクとの境、阿藤が使っているディスプレイの裏に積まれた資料が目に入る。それらは数か月前に行った素行調査で使用した資料類で、報告書の作成に使った後、整理してから片づけようと考えてそのままオブジェ化してしまったものだ。

どう整理したものかとファイルに挟んだだけの資料類を捲っていると、一枚の名刺が現れた。

「おや。こんなところに……結構使い勝手がよかったな。教師の肩書き」

〝奈胡野私立長苫中学校教諭 麻生 浩二〟。調査中、阿藤はその偽名を名乗り、任務に当たっていた。教師になりたいと思ったことはないが、麻生先生、と呼ばれるのは悪い気がしないものだ。にんまりと口元に笑みを浮かべ、阿藤はその名刺をジャケットの胸ポケットに収める。ポケットの上から名刺を叩くと、突然バタン、と物音が響いた。

「えっ?」

信濃が戻ったのだろうか。阿藤は出入り口の扉に目を遣るが、扉が動いた形跡はない。首を捻りながら周囲を確かめ歩を進めると、右手に並ぶ所員用ロッカーの内、一つだけ扉が開いていることに気付く。物が落ちた様子はない。何が原因かはわからないものの、ロッカーの扉が開いた音だったらしい。

「信濃のロッカー……半開きだったのか? この間も開いてた気がするし、立て付けが悪いのかな、この扉」

間違いなく閉じるように扉を強く押し、二、三度叩いて開いてこないことを確かめる。一息吐いて自分のデスクに戻ると、メーラーが新着メールの通知を発していた。

「おっと、メールか。所長から……ああ、山村氏の件だな」

音羽からのメール文面は非常に簡素で無駄がない。必要な情報と用件だけが書かれている。それは音羽本人のどこかシステマティックな性格を表すようであり、公私を混同しない彼のポリシーを体現したようでもある。

「ええと、捜査対象の関連情報――『至高天研究所』? 聞き覚えがあるような……しかし、仰々しい名前だな。宗教法人だろ?」

現在阿藤が受け持っている案件は、山村修司という中年男性の失踪に関する調査だ。山村氏は失踪する一年程前から宗教に傾倒していたらしく、その総本山が件の至高天研究所だという。至高天研究所とはカトリック系の新興宗教団体であり、その名が示す通り、至高天を目指し、その高潔な精神を持ってして世界を救うことを活動の本懐としている。

至高天――エンピレオとは、イタリアの詩人、ダンテ・アリギエーリの著書、神曲に登場する天国の果てのような場所だ。地獄を抜け、煉獄を越えた先、天国の中でも恒星天、原動天よりも更に向こう。神の坐す場所であり、作中ではダンテが世界を動かす原動力である、神の愛を視たとされる場所。阿藤にあるのはその程度の知識でしかない。至高天研究所がその存在を確信し、大真面目に世界を救おうとしているとすれば、信者達の心中――信仰心は、阿藤の理解の範疇を遥かに超えている。

そもそも阿藤は無神論者だ。自らの特殊な体質や境遇、これまでの人生を振り返っても、神の愛を感じるような場面は一つもない。阿藤の人生が特別不幸なものだった訳ではないが、決して円満な環境にあったとは言えないだろう。そんな阿藤を救ったのは、いつも周囲の人間だった。現在、音羽探偵事務所の奈胡野営業所を取り仕切る音羽所長と、その父親である社長には、特に深い恩義を感じている。音羽とは中学時代からの友人、言わば幼馴染であり、これまで様々な場面で支えられてきた。阿藤にとって、人と関わる上での方向性を定めたとある大きな出来事も、彼の存在がなければ乗り越えられなかったかもしれない。音羽社長にしても、息子の友人に過ぎない阿藤の人柄と能力を評価し、探偵事務所での勤務を勧めてくれた恩人だ。彼らとの出会いに感謝するというより、彼らの人間性に阿藤は感謝している。彼らの人間性を作ったのは彼ら自身であり、神などではない。

「初鳥創と、宇津木徳幸。始祖と教祖って所か。宗教そのものを否定する気はないけど、自分の信仰を他人に広めようって精神にはいまいち共感できないな」

資料に目を通しながら、ポイントになりそうなキーワードを頭のメモ帳に控える。二つの名前を眺める内、目の奥に響くような頭痛を感じ、一瞬、目の前が点滅した。人生の半分以上を頭痛と共に歩んできた阿藤だが、ここ数日のそれは至上稀に見る頻度と強度だ。疲労による所が大きいのだろうか。心なしか固く感じる項を揉み解しながら、もう一つの添付資料を開く。こちらの資料は任務に関わるものではなく、信濃についての詳細情報だった。

「信濃栄治、二十六歳。音羽探偵事務所東京本社に昨年中途採用……浅田先輩の話に出てきたくらいだから、本当にうちの所員なんだよな……」

浅田は数年前、音羽探偵事務所の本部を東京に移設し、元々本部であった奈胡野の事務所が奈胡野営業所となる際、社長と共に東京へ出て行ったベテラン所員だ。長く社長の右腕として務めており、阿藤も何度か任務を共にしたことがある。その浅田が社長と共に昨年末開催された奈胡野営業所の忘年会に顔を出し、信濃を含む東京本部の所員について語っていたのだ。その時浅田から聞いた話は『犬のような新人がいる』という、他愛もない内容だったように思う。まさかその数か月後、その犬に懐かれ、面倒を見ることになるなどと、当時の阿藤は想像もしなかった。

「しかしあいつ、何をしに行ったんだ? そろそろ戻ってきても良さそうな時間だけど」

『超能力を正しく身につけよう』という如何にも胡散臭いポップ体の文言が躍るホームページをインターネットアプリケーションごと閉じ、扉の方を伺い見るが、未だ人の気配はない。

 所内には嵐の音だけが響く。阿藤の頭痛は止まず、唯一開かれた完了報告書のフォーマットの中でカーソルが点滅している。デスクに片肘をつき、掌を額に押し当てて阿藤は目を伏せた。脳裏を様々な思考が過っていく。音羽は無事、東京に辿り着けているだろうか?このところの体調不良の原因は何なのか?報告書の手直しをしなくては。それは明日にするとして――信濃はいつ戻ってくるのだろう?

「電話……してみるか」

 意を決し、机上に放置されていたスマートフォンを手に取る。購入して一年程だが、既に画面の端に亀裂が走っていた。画面が破損しやすい機種だとは聞いていたが、利便性に負けて購入を決めた己の決断を、今更恨めしく思う。電池残量を示すパーセンテージは一桁だったが、数分の通話くらいは耐えられるだろう。

 オフィスチェアから立ち上がり、扉の方へ数歩進みながら発信履歴をスクロールさせる。幾つかの履歴から信濃の名前をタップし、発信ボタンを押してスマートフォンを耳に当てると、数回のコール音の後、無機質なアナウンスが応答した。

「お掛けになった電話番号は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていない為……」

「野郎……」

 舌打ちが漏れる。親指で通話を終了すると、インフォメーション・バーにメールの受信通知を見つけた。送信者は信濃だ。

『阿藤さん!ちゃんとコンビニにたどり着きました。

 こんな時期ですが、おでんを買いました。

 阿藤さんの分もあります。

 でも方向音痴で地図音痴な俺が探偵だったなんて

 本当なのか不安になりますね^^;

 とりあえず今から戻ります☆』

 凡そ、職場の上長に宛てた文章とは思えない。画面の中で煌めく星の絵文字に、阿藤の唇は端を引き下げる形で歪んだ。二の句が継げないままメーラーを閉じようとするが、表示されている受信時刻に目が留まる。八時半。既に四十分以上前だ。徒歩五分程度のコンビニから帰って来るにしては、時間が経ち過ぎていた。

阿藤はスマートフォンを握りしめたまま、扉を凝視する。今ここであの扉が開いて、信濃が姿を見せてくれたら。この予感を払拭してくれたら、どんなに良いか――そんな空想に耽っていると、背後で紙の擦れる音が鳴った。

 振り返るが、やはり何の影も見当たらない。一つ一つ、正常を確かめるように、阿藤の視線が彷徨う。客人を出迎えるように飾られた黄色い造花。ファイルの並ぶ棚。窓の外、表の街頭を煙らせる雨。駆動音を響かせる阿藤のパソコン。――机上で崩れ落ちた書類の白と、何かが這いずったような、黒。

「……」

 再び己のデスク前に立つ。オブジェのように聳え立っていた書類の山は崩れ、机上を乱雑に見せる。白と黒のコントラスト。触れようとするが、刺す様な頭痛に遮られた。

「っつ……ペンのインクでも漏れてたかな……片付けないと、……ああ、でも、先に信濃を……」

 纏まらない言葉の端々が唇から洩れ、逡巡の後、再び発信履歴を開く。もし、信濃がただの後輩であったなら、置き去りにして帰るという選択肢もあっただろう。あのふざけた文面のメールに一言返信してやっても良い。しかし、相手は信濃だ。何もないと言い切るには、余りに不安要素が多すぎる。転勤から僅か一週間。重篤な方向音痴を患う信濃が道に迷っていないとも限らない。また、信濃が半年分の記憶を失うに至った原因が関わっていないとも。事態は既に、阿藤が解決できる領域を超えた。阿藤がこの状況で話すべき相手は一人しかいない。

 耳元で断続的にコール音が鳴る。阿藤の祈りが通じたのか、薄く小さな銀の箱を通して、耳慣れた声が語りかけてきた。

「音羽だ。何かあったか」

「所長、出張中すみません。今よろしいですか?」

「こんな時間に職場か? 他に誰か居るのか」

「職場ですが、今は一人です」

「なら普通に話してくれ。どうにもむず痒い」

「はは……ありがとう、塁。どう? 東京には辿り着けた?」

「ああ。遅延はあったが何とかな。今から父と合流して食事だ。それで、用件は? まさか私の様子が気になったというだけではないだろう?」

「うん。実は、信濃が帰って来ないんだよね。俺が居眠りしてる間にコンビニに行ってくるって書き置きを残して、それっきり。八時半頃、おでんを買ったから今から帰る、ってメールが入ってたけど、さっき掛けた電話は通じなかった。……どう思う?」

 音羽が通話口の向こうでふむ、と呟く。背後では多くの人間の会話がざわめきの波となって押し寄せ、時折クラクションがそのリズムを乱している。都会の喧騒。その流れを分けるように立つ音羽を脳裏に描きながら、阿藤は返る声を待つ。

「よりによって信濃か……捨て置けないな。少し離れたコンビニに行った、という可能性は? 何日か前、紅茶がどうのと話していただろう」

「あれは今日買ってきたよ、アイツ。抜かりなく。それに、この時期おでんを取り扱ってるコンビニって言ったら、一番近い所だと思うんだよね」

「なるほど、確かに」

 短い沈黙が訪れる。阿藤は持て余していた左手で右肘を覆い、床に視線を落とす。互いに口にはしないものの、恐らく、阿藤と音羽が考えている提案は同一のものだ。どちらが先に言い出すか。それだけの話ならば、口火を切るべきは阿藤だろう。短く息を吐き、顔を上げる。

「……やっぱり俺、探しに行こうかな」

「大丈夫なのか? そちらもまだ雨が酷いんだろう。また体調を崩すんじゃないか」

「うーん。塁が『大丈夫だ、放っておけ』って言ってくれたら、お言葉に甘えたんだけど。実はちょっと期待してた」

「ふ。心にもないことをよく言う」

「信濃の面倒を見るのも依頼の内だからね。任務を途中で投げ出すような調査員は、音羽探偵事務所にはいないよ」

「頼もしいことだ。とはいえ……無理をするなよ、春樹。何かあればまた電話してこい。すぐに応答出来るようにしておく」

「ありがとう。親父さん……じゃなくて、社長にもよろしく」

「ああ、伝えておく。じゃあな」

 阿藤の返答を待たず、音羽の声は電子音に変わった。過剰に物事を引きずらないのも、音羽の長所であると阿藤は思う。スマートフォンの電池残量は5パーセントを切っていた。

「さて……鍵、鍵。まったく、手のかかる後輩だよ……」

 愚痴っぽく呟くが、会話を通して思考が整理されたのか、阿藤の心中は幾分か澄んでいた。外から聞こえ来る雨音もクリアに聞こえる。

 そういえば、


「〝あの日〟も、こんな雨だった」



「……あの、日?」

 無意識に洩れた言葉を反復する。今発せられた声は、自分の物か?口元に手を遣り、他人よりも些か薄い唇を撫でるが、答えは出ない。一時忘れかけていた痛みが頭を刺す。

「くそ……さっきあんな夢を見たから。きっと混乱してるんだ……」

 額に触れ、少し身を折って、言い聞かせるように。吐き出すように口に出す。


 閉じた瞼の裏、

 夢で聞いた声がリフレインする。


『はるき』


 遠く、自分を呼ぶ声。いつかの、母の声。


『これは、わるいゆめ』


 幼い阿藤が恐ろしい夢を見て、泣きながら不安を訴えると、

 母は決まって阿藤を抱きしめ、そう言うのだ。


『あなたは、はるき』


『あなたのなまえは』


「あとうはるき」



 瞬間、光が弾けた。鼓膜をつん裂く轟音が鳴り響き、所内の照明が一斉に落ちる。見慣れた事務所の景色は闇に沈み、阿藤と現実を隔てていた薄い膜が霧散した。

「な……雷? 停電?」

 窓際には街灯の明かりが零れている。どうやら停電しているのは屋内だけらしい。薄明りの中で周囲を伺える事を確かめ、いよいよ阿藤は頭を抱えてしゃがみ込む。

「何なんだよ、もう……厄日か……」

 夢見の悪さ。頭痛。二の腕と前腕の間に顔を埋め、唇を噛み締める。

 帰って来ない訳有りの後輩。折悪く東京出張中の親友。自分の脈動が握り締めた右手首から伝わってくる。

 数十秒、数分、空間に漂う様々な音に耳を澄ます。雨。風。遠ざかっていく雷。徐々に足先が痺れ始めた。

 阿藤は薄く目を開く。頭を抱える両腕の間から、滑らかな闇が滑り込む。何処からか、小さく犬の遠吠えが聞こえる。

「――行かないと」

 重い腰を上げ、改めて暗い所内を見渡すが、明るい状態で見つからなかった鍵が視界に入る筈もない。眉間に力を籠め、一杯に目を凝らしながら慎重に足を進める。まるで泥の中を歩いているかのように、足元が覚束ない。鬱血した爪先は感覚がぼんやりとしていて、気を抜くと見えない何かに躓きそうだった。

デスクの板面を探る。紙の感触だ。指先を滑らせて辿り着いた縁をなぞりながら進むと、途中、どろりとした感触があった。

「げ。さっきの……何だろう、これ。ぬめっとする……」

 拭うものさえ見つけられない現状では、ジャケットの裾に擦り付ける以外に選択肢はなかった。二、三度拭った指先を宙で払って薄らと残る記憶を頼りに鍵の所在を探るが、触れる物は筆記具、電卓、クリップと、目的からは程遠い物体ばかりだ。

「信濃の野郎……まさか、俺の鍵を持って行ったんじゃないだろうな……」

 最悪の状況が脳裏を過る。信濃が阿藤の鍵で施錠して出て行っていた場合、阿藤には打つ手がない。事務所の奥、音羽所長のデスク付近には金庫が設置されており、クライアントの機密に関わる情報を含め、様々な貴重品が収められている。鍵を所持しているのは阿藤と勝谷、音羽の三名で、暗証番号を入力した上で鍵を差さなければ開錠することは出来ない。とはいえ、施錠も無しに夜の事務所を出られる程、阿藤の危機管理能力は低くなかった。

 万事休す。そんな言葉が頭に浮かんでは消えるが、ここで諦めがつくのなら阿藤は既に帰路に着いているだろう。電気の復旧を待つという手段もあるが、今は一分一秒が惜しい。

 心当たりのある場所は概ね探し終えた。残るは鞄や引き出しの中、或いはロッカーに収めたコートのポケットか。一つずつ順に潰すべく、手近なデスクの引き出しを開ける。奥まった部分はよく見えない。ライトの一つでもあれは効率が上がるのだろうが、懐中電灯の所在がはっきりと思い出せない。右手を差し込み左右に振ると、早々に冷たい固さが触れた。多数の傷にまみれ、ささくれ立った板状のそれを掴んで顔へ寄せる。恣意的に損傷させられたとしか考えられない程に汚れた液晶に、阿藤の細い目が映っている。

 信濃が発見された時、唯一所持していたらしいスマートフォン。本人はパスワードが思い出せないから、と早々に新機種を購入していたが、こうして職場のデスクに収めているのは信濃自身が記憶の回復を諦めていない証拠かもしれない。


 ―――三度、物音。


 甲高い電子音と共に訪れた深く体に響く振動に、阿藤の脈が跳ねる。依然、目の前のスマートフォンは沈黙している。と、いうことは――

「お、俺の? 信濃か?」

 音羽と通話した後、どこにしまい込んだのだったか。ズボンのポケットに汚れたスマートフォンを入れ、ジャケットのポケットを左右同時に叩く。震源に触れた左手で取り出した端末の液晶には『公衆電話』の文字が表示されていた。

「……もしもし?」

 応じる声はない。

「信濃か?」

 掠れた雑音。

「もしもーし……」

「――――か」

 明らかに加工された音声が、何事かを問うている。内容は聞き取れない。雑音が多く、声も遠い。

「え? あの、聞こえ」

「あとう はるき か」


 続けて発しようとした音を飲み込む。全身が総毛立ち、握り締めたスマートフォンが軋んだ。

 電話口の声ははっきりと阿藤の名を呼んだ。相手は阿藤を知っている。その上で、己の正体を隠匿している。阿藤は調査に当たる際、個人端末を利用しない。公私を切り離していたいためだ。よってこの電話は、音羽探偵事務所の所員に向けたものではなく、阿藤個人への干渉と断定できる。悪戯の線を疑って何人か知り合いの顔を思い浮かべるが、いずれも可能性は低そうだった。声の向こうの音に神経を集中させる。正体の解明に役立つ手掛かりが得られるかもしれない。


「てを ひけ」

「……は?」


「てを ひけ


      首のないネズミを忘れていたいだろう」


 赤い明滅。


 耳から離したスマートフォンは通話終了を表示し、画面の明かりを一段落とす。


 *のない、

 ***?


「あ……」


 掌から床へと滑り落ちた銀の板が硬い音を立てる。

 額に手を当て、一歩後ずさった阿藤の、


 すぐ、脇を。


 金属を引っかくような不快音と共に、

 何かが走った。


 それは、暗闇の中にあってなお、黒い塊。

 あの夢の黒。

 素早く床を這うそれから零れた液体を、ゆっくりと目で追う。

 壁面一杯に誂えられた広い窓。

 荒天の外界と阿藤を遮る透明な壁の、

 その僅かに手前。


 使い慣れた複合機の上から、

 〝それ〟が、こちらを見ている。


 小さな体躯に光る二つの赤。ずんぐりとした楕円を描く肉の輪郭の先には細い影が躍っていた。

 足首を右、左と順繰りに半回転させ、靴底を床に擦り付けるようにして阿藤は〝それ〟との距離を詰める。やがて薄黄色の明かりに影が薄められ、阿藤の視界に映ったのは。


「……ネズ、ミ?」


 〝黒い〟瞳と、ひくひくと空気の臭いを嗅ぐ鼻先に揺れる髭の一本一本が、光を反射していた。僅かに開かれた三角形の内側には二本の白い歯が覗く。宙を掻いていた前足で樹脂の表面を傷つけながら、体長十五センチ程のげっ歯目が辺りを嗅ぎまわっている。


「は、はは……、なんだ、なんだよ。ネズミ? ははは!」

 極度の緊張からの解放。突如として訪れた安堵に止めどなく笑いが込み上げる。

 馬鹿馬鹿しいことだ。何を恐れる必要があったのか。たかが十五センチ程度の生き物に怯える合理的な理由が見つからない。たかが停電、たかがネズミ。先程までの慎重に慎重を重ねた己の挙動を思い返し、更に可笑しさが追い討ちをかける。

「たまたま、偶然。偶然嫌な夢が続いて、信濃が見当たらなくて、停電して、変なイタズラ電話が来て、ネズミが出て!それだけだ!はは、ははは」

 昨日は昼夜問わず一日中眠りが浅かったのだ。体の疲れから弱気になっていたのだろう。頭痛にしてもそうだ。季節の変わり目に加え、嵐に伴う気圧の変化から悪化しているに過ぎない。別々の原因による不調を無理に繋げて考えようとして、突拍子もないオカルトじみた恐怖に囚われていた。

「は……ああ、下らない。ほら、今日の所は見逃してやるよ。日置さんが仕掛けたトラップにかかる前に逃げな」

 二本足で立ち上がり、首を回して阿藤の挙動を追うネズミに語り掛けながら、複合機の右側に位置する窓に向かい合う。簡素なクレセント錠を下ろし、左の窓枠に手を掛けて地表に視線を落とすと、エントランスの明かりが灯っていない事に気付いた。やはりビル全体が停電しているらしい。鍵を見つけ、事務所を施錠できた所でエレベーターが動かないかもしれない。電気の復旧を待った方が賢明にも思える。

「さ、ここから――」

 左へ首を捻り、複合機の上を見る。その生き物は変わらず阿藤を見つめている。

 しかし、その体躯は粘着質の黒に染まり、両目は赤く輝いていた。

「え、あれ」

 声を漏らした刹那、〝それ〟が阿藤に向かって跳ぶ。優に三十センチはあろうかという空間を跳躍し、咄嗟に身を捻った阿藤の左腕に爪を立て、大きく口を開いた。

「うわっ、何……痛って!」

 左前腕の中程に熱い痛みが刺さる。肩から左腕全体を振り下ろして宙を切り、それを振り払おうと試みるが質量が消えない。しがみつかれているであろう箇所の布地が徐々に濡れそぼっていく感触に阿藤の血の気が引いた。興奮状態にあるせいか痛みは既に遠く、出血量の予測が出来ない。何よりも〝それ〟は未だに阿藤の左腕を這い回っている。

 黒板を金属で引っかくような、強い不快感を伴う鳴き声。先程阿藤の脇を走り抜けた音の正体。強く歯を食いしばり、全身に力を込める。

「いい加減っ、に……しろ!」

 肩口へ向かって素早く移動する影を右手で掴んで無理矢理に引き剥がし、力任せに床へ叩きつけた。水音と粉砕音が混じった生命が終わる音と共に、ぢ、と何かが燃え尽きる。


 〝それ〟はもうネズミではなかった。ネズミの形をした、黒い肉の塊になった。


「……お前が、悪いんだからな……」

 荒げた呼吸を肩で吸い込む。何かで濡れた左の袖を右手で握り、床に横たわる塊に目を凝らす。頭の辺りに広がる黒ずんだ水たまりが先程まで小刻みに波打っていたが、今や静かに凪いでいた。

 生物の完全な沈黙。興奮が冷めゆくと同時、阿藤の心中に罪悪感が芽生え始める。己の罪を確かめるべく足音を殺してそれに歩み寄り、片膝を床について身を屈める。

「やっぱり、死――」


 びくん、と。

 肉塊が周囲の黒い液体を撥ねた。舞い上がった飛沫は一滴残らず塊に吸い寄せられ、音もなく消える。それだけではない。床に広がっていた水分も全てが塊に帰し、やがて、塊自体の輪郭が蒸発していく。


 阿藤の目の前で、ネズミの形をしていた〝それ〟は完全に空に溶けた。


「これ、は、夢だ」


 状況が飲み込めず、唇が独りでに音を紡ぐ。

 こめかみが脈打ち、千々に乱れる思考に頭痛がフェードインしてきた。

 下ろした瞼の裏に映る生理的嫌悪を催す模様。幼い時分、顕微鏡で覗いた命のパーツ。


『これは、わるいゆめ』聞こえ来る母の声。

「そうだ、悪い夢だ……」離れて聞こえる己の声。


 震える手。触れる髪の感触。冷えた体温。

 肺が痺れる。酸素が足りない。喘ぐように顎を突き上げ、口を開く。


 暗闇を吸い込む。臓物に血が巡り始める。

 瞼を上げる。薄明りに照らされた天井の白。

 夢なら早く覚めれば良いのに。

 全身の筋肉が弛緩していく。

 脳まで緩んでしまったようだ。何も考えたくない。

 このまま倒れ込めば、現実に帰れるだろうか?


 阿藤の体は全てを放棄し、傾いでいく。


 それを支える手があった。阿藤の背を右腕で包むように抱き止める。普段あまり触れることのない他者の体温に阿藤はうっすらと瞼を上げる。


「      あーーーーーーーーーーー       」


 真っ黒な顔が阿藤の鼻先数センチまで寄せられ、異様なまでに血走った双眸が左右各々勝手に視線を乱れ撃つ。


「      うーーーーーーーーーーー       」


 絶句している阿藤の肩を、生暖かい指先が握る。

 ゆっくりと上下に揺さぶられ、その度に真っ黒な滴が疎らに降り注ぐ。


「      んーーーーーーーーーーー       」


 動きが揃う事のなかった両の瞳が揃って阿藤を捉えた。


「    あ    」


 口の端が大きく裂け、真っ赤な口腔が露わになる。


「 あ あ   あああああああああああああ 」

『逃げろ はるき!』

「あ――――――」


 声が重なる。自分が発している音がどれなのか判別がつかない。

 目が見ている。阿藤を見ている。誰かが逃げろと告げている。

 いけない。いけない。このままではいけない。体が動かない。言葉が出てこない。

 逃げなければならない。ここにいてはいけない。このままでは――



「ああああああああ!」



 閃光が世界を真っ白に塗り潰す。両手で耳を塞ぎ、頭を抱え込むようにきつく肩を竦める。

 固く閉じた瞼の裏が赤い。阿藤の意思とは無関係に、外部からの力で体が揺れている。

「阿藤さん!」

 強く手首を引かれ、聞き慣れた声が鼓膜を叩く。光に目を慣らそうと徐々に目を開くと、逆光の中に濡れた茶髪が揺れていた。

「阿藤さん、阿藤さん!しっかりしてください!」

 ハの字を通り越して垂直になりそうな程下がった眉。目尻には涙が浮かび、半開きのまま返答を待つ口元は僅かに震えていた。首から背にかけての緊張を緩め、後ろに向かって倒れると、膝蓋骨の固さと濡れた布地の冷たさ、その奥にある体温が阿藤の腰辺りに触れる。

「……信濃?」

「はいっ、信濃です!信濃栄治二十六歳です!わかりますか、阿藤さん!」

「ああ、うん、いや……見ればわかるよ」

「よかったあ……。阿藤さん、このまま死んじゃうかと……」

「勝手に殺すなよ……」

 曲げた左腕を瞼に載せる。先程まで確かに濡れていた袖は僅かな水分さえ含んでいなかった。一方的に話し続ける信濃の声を聞いていると、全てが本当に悪夢だったのではないかとさえ思える。

「お前、どこまで行ってたんだよ。心配したんだぞ」

 視界を覆ったまま呟くと、阿藤の体を支える腿が跳ねた。

「えへへ……すぐそこのコンビニだったんですけど、迷っちゃって。ずっと地図見てたら充電は切れちゃうし、やっと戻ってきたら電気は消えちゃうし。阿藤さんが大きな声出してるのが聞こえたから、すぐに入ろうとしたんですよ。そうしたら今度は全然、鍵が見つからなくて……」

 信濃の口から溢れ出る理由の川には果てがないようだ。阿藤は長く息を吐き、目元を覆っていた左腕を伸ばして信濃の額を指の腹で軽く叩く。

「馬鹿。次は起こしてくれよ」

「はーい。あ、おでん!阿藤さんの分も買ってきたんですよ、白滝とこんにゃく!」

「あー、それはどうも……。それ食べたら今日は帰ろうな」

「そうですね。阿藤さん、明日は休んだ方がよくないですか?まだ水曜ですし……」

「ありがとう。俺の仕事を信濃が代わってくれるってことだな?」

「うっ……それはちょっと……いえ、すごく難しいです……」

「だろ。ほら、さっさと食おう。なんか俺まで小腹が空いてきた」

 体の脇に手を付いて阿藤が体を起こすと、信濃は立ち上がり、小走りに自分のデスクへ向かっていく。立てた片膝に額を当て、目を伏せていた阿藤もやがてそれに続いた。



 阿藤は思う。何故この時、原因の追究を放棄してしまったのか。この時ならばまだ、惨事を防げたのではないか。

 続く悪夢。黒い〝何か〟。素性の知れない悪戯電話。それらを何故、忘れようとしたのか。

 ――後悔は尽きない。

 この出来事から既に、事は始まっていた。

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