細胞神曲 -Stay What That-

ととり単

序章 ―誰が**を殺したか―



 首のないネズミがこちらを見ている。


 首がないその生物をネズミと形容することも、目がないそれがこちらを見ていると表現することも、或いはそう感じている私にすら、違和感があるかもしれない。

 しかし、〝そう〟としか表しようがない程にそれはこちらを見ている。

 かつてネズミであったそれは、何を思うのだろう。

 どんな思いでもって私を見ているのだろう。


 それの視界には、

 一体何が映っているのか?


 首から溢れるタールの様な黒が塗り潰していく。

 〝それ〟を。

   思考を。

    世界の 全てを。



『――三月三十一日、火曜日です。

 本日は全国的に晴れマーク。例年より気温も高く、過ごしやすい日となるでしょう。

 ただし、明日の夕方以降は大きく天気が崩れる地方もありそうです。

 ではまず、今日の詳しい予報を見てみましょう……』


 アラーム音の向こうから、朗らかな女性アナウンサーの声が聞こえる。手探りでスマートフォンを手に取り、薄く目を開くと白い光が視界を満たした。

「……しまった、寝落ちた……」

 スマートフォンのスヌーズ機能をオフにして身を起こした男は小さく呟く。

 昨日までの多忙が祟ったのだろう。リビングのソファでほんの少し横になったところ、眠りこけてしまったらしい。昨夜帰宅した時の服装のまま、方々に跳ねる色素の薄い髪を掌で撫で付け、力を込めて体を伸ばすと、四方八方至る箇所から小気味よく疲労の音が鳴った。食べ残しが目立つ弁当のプラスチック容器を一瞥するが、男はそれらが勝手に片付くような超能力を持ち合わせてはいない。大きな嘆息の後、周囲を片づけにかかる。

 大手コンビニチェーンのロゴマークがプリントされた袋に機械的な動作で容器を放り込む途中、開けることのなかったソースの小袋を視界に捉え、動きを止めた。

「何か……何だ? 夢を見たような、気が」

 艶めいた黒。あれはもっと鈍く、暗い、塗り潰すような色だった。記憶の糸を手繰ろうとするが、浮かぶのはただ、黒ばかりだ。その黒の中、最奥にはとても恐ろしい――しかし、目を逸らすことを許さない何かがある。そう、確信はある。それは一体何だったか?


 頭痛がする。周囲の音が徐々に大きくなり、思考が遮られる。

 とても重要な、

 思い出さなくては、


 だが、それは――


『続いて、今月十七日、東京都××区で発生した大型犬による殺傷事件の続報です。

 警視庁の発表によりますと、大型犬は狂犬病に罹患していた可能性が高く……』


耳に飛び込んできたニュースに顔を上げると、画面には長閑な公園の風景が映し出されていた。

「ああ、この事件、まだ解決してなかったのか。結構被害者出てるのに……」

独り言つ男と画面を隔てた先、深刻な表情のアナウンサーとコメンテーターが、解決には到底役立ちそうもない感想を述べあう。

「所詮他人事なんだよな……」

 意せずしてそう声が漏れる頃には頭痛も止み、世界は正常な様相を取り戻していた。


 黒い小袋は静かに、ごみの中へ落ちていく。




 男は市内にある音羽探偵事務所という小さな探偵事務所に勤務している。自宅から職場までは車で十五分程度だが、地方柄、通勤時間帯は渋滞に巻き込まれやすい。遅刻するよりは、と、早めの出発を心掛けていると、始業時刻よりもかなり早く到着してしまうことがある。――今日のように。

 ソファでは吸収しきれなかった疲労と、持ち帰ったものの全く進んでいない仕事を手に事務所のドアノブを回すと、思いがけずすんなりと扉が開いた。

「あら、早いねぇ阿藤ちゃん。おはよう」

 比較的丸い体をさらに丸めて応接スペースのテーブルを拭いていた女性が身をもたげる。

「松井さんこそ、今日はお早いんですね。おはようございます」

「ほら、今日朝一でお客さんが来るって言ってたでしょ。やっておかないと所長がうるさいから。やってらんないわよぉ」

 快活に笑いながら台拭きを振る松井に苦笑を返すと、阿藤はロッカーに足を向ける。半開きになっている隣のロッカーを押し閉めて自分のロッカーに鍵を差し、扉を開けて羽織っていた薄手のコートをハンガーに通していると、思い出したように松井が話し始めた。

「そういえば阿藤ちゃん、今朝のニュース見た? ほら東京の。何とか公園の犬のやつ」

「ああ、見ましたよ。落相公園の事件ですよね? あまり進展がないとか」

「そうなのよぉ。飼い主もわかってないんだって。怖いわよねぇ……。

ウチもね、隣の人が大きい犬飼ってるの。その人、しっかりしてるからまさかとは思うけど、もしあんなことがあったらって思うと……孫もまだ小さいでしょ。もう、怖くてね」

「なるほど……それは不安ですね」

 他人事候であったアナウンサーとコメンテーターの会話が頭を過る。身近な問題である分、松井の方が危機感を抱いているようだ。誰かが被った災難が己の身に降りかかるなどと、多くの人間は想像だにしない。当事者でない事件など、どれだけ大事であろうとフィクションと大差ないのだ。

「何もないって、本当に有難いことですよね」

 狂犬病の恐ろしさについて、ワイドショーで得たのであろう知識を並べ立てる松井にそう相槌を打つと、阿藤はロッカーの扉を閉めた。


 探偵事務所勤務とはいえ、所員達は常時調査に出ている訳ではない。事務所内でクライアントに提出する資料を作っていたり、調査に必要な情報収集を行ったりと案外デスクワークが多いものだ。幼い頃から体が弱く、人一倍体力に自信がない阿藤がこの仕事を続けていられるのも、それに因るところが大きい。

 無意味に事務所と自宅を往復した資料を開き、文書作成ソフトを立ち上げて報告書のフォーマットを呼び出す。先日片がついたばかりの案件について、記憶と資料を頼りに文章を打ち込み始めると、想像以上に手間取ったあれこれが思い出されて眉間に皺が刻まれた。報告の内容に私情を挟むまいと頭を振る様を目撃したのだろう、正面のデスクで領収書の分別に勤しんでいた派手な髪色の青年がにんまりと笑う。

「阿藤サン、顔、顔!スゲー怖い顔してる!」

 引き出しの最上段から取り出した個包装のチョコレート菓子を阿藤に投げて寄越すと、自身は書類の山の間からガムボトルを引っ張り出した。

「ありがとう、虎鉄君」

「いえいえ!どうしたんスか、飲みすぎ?顔色悪いっスよ。ちゃんと朝飯食ってます?食わないとパフォーマンス下がって逆に時間ムダにするんだって!だからどんだけ時間がなくても……いッて!」

 椅子の背に体重を預け、前後に揺れながら語っていた虎鉄の脳天を厚いファイルが直撃する。

「時間ムダにしてんのはその口か? ん? 自慢げに受け売りかましてる暇あったら、手ぇ動かせ。手」

 尾を踏まれた猫のような悲鳴と共に丸くなった背にもう一撃、ファイルの角部が追い討ちをかけた。

「背筋。あとお前、いい加減に敬語使え。そこに並べてる教本は新手のインテリアか?」

「スンマセン……」

「申し訳ございませんでした、だろ」

「ゴメンナサイ」

「よし」

 唇を尖らせる虎鉄の隣のデスクにファイルを投げ置くオールバックの男は、副所長の勝谷だ。元々は海上自衛隊に所属していたそうだが、事故で右目を失明したのを切欠に退職し、この事務所に籍を置くこととなった。……と、所長の音羽から聞いている。その不運が彼の人生にもたらした不便など微塵も感じさせない仕事振りには、多くの所員が信頼を寄せている。そんな勝谷が手ずから育てたいと申し出た新人所員が虎鉄だ。多少常識の枠から外れた言動が見られるものの、この奈胡野営業所のムードメーカーとして努めてくれている。

『学が薄い分吸収が良く、事件に対する直感力――嗅覚と、悪運の良さは天下一品』

 虎鉄にとって初めての事件を共にした勝谷は、虎鉄をそう評価した。当時は一介のフリーターでしかなかった虎鉄を勝谷が強引に拾い上げる形での中途採用となったため、入所当初こそコネだなんだと偏見を向けられた時期もあったようだが、本人が意に介さなかったせいかすぐに鎮静化した。周囲の視線や評価をものともせず、奔放に振る舞う虎鉄の姿に、この若者は大成するかもしれない、と予感したのを阿藤自身もよく覚えている。

 基本的に勝谷と虎鉄は二人一組で行動しており、阿藤にも同様に面倒を見ている後輩がいるのだが、今朝はまだ姿を見ていない。

「信濃さん、遅いですね。遅刻連絡は入っていませんが、阿藤さんは何かご存知ですか?」

 ドラッグストアの袋を手に、件の後輩――信濃のデスク前を通りかかった女性が、緩やかに波打つ長い黒髪を靡かせて振り返る。道を歩けば十人の内八人は足を止めるであろう彼女の美しさは、日置という暖かな字面の苗字からは想像も及ばない冷たい瞳と、ユーモアを解さない本人の性分によって、悪い虫や馬の骨から守られていた。

 日置が入所した際、年が近いですね、と社交辞令的な当たり障りのない言葉を選んだつもりが、「近いから何ですか?」と真顔で問われた記憶は、未だ阿藤の中に日置に対する若干の苦手意識となって蟠っている。

「いや、僕にも何も……。寝坊ですかね?」

 些か引きつり気味の頬を強引に持ち上げ、微笑を湛えつつ出来るだけ親しみやすい声音を心掛けて阿藤は答えた。

「そうだとしたら笑い事ではないと思いますが」

「あ、はい、そうですね……」

 どうやら今回も日置の防衛線を突破仕損じたようだ。ヒールの音も高らかに、日置は踵を返してロッカーの方へ歩いていく。安堵と後悔の入り混じったため息を零しつつ、ジャケットのポケットからスマートフォンを取り出し画面を確認するが、やはり信濃からの連絡は来ていない。音羽探偵事務所はフレックス制を採用しており、コアタイムも午前十一時から午後二時までとかなり短い。出勤時間の自由度は高いが、事務員の就業開始時刻である午前九時以降にフレックス出社する場合、前日もしくは当日午前八時までに上長か事務所に連絡することを推奨していた。寝坊常習犯の虎鉄はさておき、信濃からの連絡がないのは、阿藤の知る限り初めてのことだ。壁の掛け時計は午前八時五十五分を指している。

「(寝坊か……? まさか、何かあったんじゃないだろうな)」

 信濃は元々、東京本部で中途採用された所員だが、特殊な事情で奈胡野営業所に移ってきた。

 本部からの指令を受け、現場での任務を完了した数日後、休暇中に失踪。七日間の音信不通の後、奈胡野営業所がある香芝井市の駅で発見された。発見時、信濃は失踪前後を含めた半年程度の記憶を失っており、それは未だ回復していないらしい。本部は何らかの事件に巻き込まれた可能性――具体的には、失踪直前に信濃が担当していた事件――との関連性を疑い捜査を行ったが、空振りに終わった。何故東京本部に勤務していた信濃が香芝井市で発見されたのか、記憶喪失の原因は何なのか。そのいずれもが解決されないまま、多忙な本部に代わって、奈胡野営業所が身柄を預かる運びとなったのだ。

 信濃を任されてからのこちら一週間、阿藤が見てきた彼に大きな問題はない。少々忘れっぽく、人より方向音痴気味で、極端に犬を怖がる。その程度だ。記憶喪失に関してもさして重大に捉えている様子はなく、阿藤の方が拍子抜けした程だった。所長をはじめ、事情を知る所員とは、いずれは記憶を取り戻して何事もなかったかのように去っていくだろう、などと、話していたのだが。

「お早う。松井さん、お客様にお茶を頼む」

 時計の針が午前九時を指すよりも僅かに早く、背後にクライアントと思しき男性を伴った音羽所長が事務所の扉から現れた。男性の案内を松井に任せ、足早に所長用のデスクを目指す音羽を追い、阿藤が小声で話しかける。

「所長、実は信濃がまだ――」

「すみません!遅れました!」

 阿藤の声に被さるようにして響いた言葉に、菓子パンにかじりつこうとしていた虎鉄も、コピーを取っていた日置も、クライアントに着席を促していた松井も、礼を述べようと口を開きかけていたクライアントも、阿藤を振り返り足を止めた音羽も、無論阿藤自身も動きを止め、声の主へと首を回す。

「あ……あれ?あの、俺、遅刻……」

 勝谷が奏でる軽やかでいて力強いキーボード音を背景に、所内ほぼ全員の視線を一身に浴びる信濃が眉を下げた。




「もう、お客さんも笑ってたわよ!栄ちゃん、やってくれるわぁ」

「うう、ごめんなさい……。遅刻だ!って思ったら、俺もう、とにかく謝らなきゃって、本当に焦っちゃって……」

「電話連絡すれば済む話じゃないですか」

「気が動転してたんですよぅ」

 松井、日置と共に応接間で昼食を摂る信濃の声には疲労の色が滲んでいた。デスクに伏して仮眠の態勢に入りながら、阿藤はその会話に耳を澄ます。先程まで勝谷と虎鉄が何やら言い合っていたが、二人でコンビニに行くという結論で決着したらしく、我先にと出掛けていった。

「何で遅刻したの? 寝坊?」

「違うんです。ちゃんと起きて、いつも通りに家を出たんです。でも……」

「でも?」

 日置の声だ。信濃が答えあぐねている。詰問されているようで答えにくいのだろう、阿藤はわかる、と、心中頷く。

「犬が」

「犬ぅ? ああ、栄ちゃん、犬が怖いんだったねぇ」

「はい。何でかはわからないんですけど、すごく怖くて……。松井さん、お隣の人が犬を飼ってるの、知りませんか?こーんなに大きい……」

「そこまで大きい犬は土佐犬くらいだと思いますが」

「あたるちゃんってば、例えの話でしょ。あのー、あの犬よ。何とかハウンド?毛が長くてモップみたいな、大きいやつ」

「アフガン・ハウンドでしょうか。確かに大型犬ですね」

「種類までは……。でもその、大きくて毛の長い犬が庭に出ていて」

 時折話を脱線させながらも信濃が語った内容は、こうだ。

 普段は家の中にいるか、庭の犬小屋に鎖で繋がれている大型犬が、今日に限って放し飼いになっており、門扉の所まで出てきていた。信濃の自宅から事業所に辿り着くためにはどうしてもその道を通らねばならず、飼い主――松井邸の隣人――が庭に出て犬を引っ張っていくまで、吠える犬と一進一退の攻防を繰り返していた……と、そんなものだった。

 阿藤にしてみれば実に下らない、下手な寝坊の言い訳のような話だが、信濃にとっては死活問題だったのだろう。松井に笑われ、日置の嘆息を度々浴びながらも、必死にその犬の迫力と恐ろしさを語っていた。

「(小さい頃に噛まれでもしたのか?そういうの、トラウマになるっていうもんな……)」

 茫とそんなことを思いつつ、三人が織りなす和やかな談笑のヴェールと、未だ春は到来せずと告げる暖房のほのかな風に包まれて、阿藤はうとうとと午睡にのめり込んでいく。



 ふと目を開けると、周囲は深淵にも等しい黒に覆われていた。そういえば、今朝方ソファで見た夢も、こんな風に漆黒に塗り潰されていたように思う。上下左右、前後すらも判然としない世界で阿藤はゆっくりと立ち上がる。ぐるりと周囲を見渡せば、遠くにぼんやりと白い明かりが灯った。

 まるでコンビニの電灯に吸い寄せられる虫のように、無意識に阿藤の足がその光を目指して進み始める。よくよく目を凝らせば、その光はスクリーンのようだ。真っ黒な空間の中で、長方形に区切られた白の中には、輪郭のぼやけた影が蠢いていた。

 ――嫌な予感が、する。無意識が発するシグナルに呼応して、阿藤の足が止まる。あの風景は阿藤にとって好ましくないものだ。



 己の頬を、滴が伝っていくのを感じる。


 近づきたくない。見たくない。『忘れたままでいい』。掌に爪が食い込む感触はあるが、痛みは感じなかった。これは夢だ。わかっている。


『――が出来る。それなのに――』


 聞き覚えのない声が鼓膜を揺らし、白く輝くスクリーンが阿藤の眼前に現れた。 そこに映し出された青年を、阿藤は知らない。


 その表情は激昂に満ち、今にも怒声を上げんばかりに歪んでいた。目元にうっすらと光る涙は怒りによるものだろうか。火を見るよりも明らかな敵意を感じるにも関わらず、その姿に何故か、憐れみを覚えた。


 指先ひとつ動かすことができないまま、ただ、スクリーンを見つめる。


 やがて青年は俯き、瞼を伏せて頭を振った。『ああ、終わる』。諦観か安堵か、そんな言葉が脳裏に浮かんだ次の瞬間、


 白い光がぷっつりと消えた。阿藤の周囲を再び闇が閉ざす。それと同時に、阿藤の体は紐が切れた操り人形のように崩れ落ちた。全身から冷や汗が噴き出す。重圧に喘ぐ脳が酸素を欲し、呼吸が乱れる。今見たものは一体何だった?何故見たくないと思った?あの男は誰だ?これは夢か?

 夢だ。ただの夢。『自分』の夢だ。

 思考の処理スピードが追い付かない。動揺しているのだと感じる。何故?見も知りもしない、幻の情景に、何故これほど揺さぶられる?

 次第に感覚が遠ざかっていく。待ってくれ。阿藤は声にならない声で叫ぶ。これは一体何なんだ。阿藤にとっては『意味のないもの』。知らない。わからない。これは――



『私だけの 思い出(もの)』



「あ、阿藤さん……?」

「――っ!」


 肩に触れた熱の重みに伏していた顔を上げる。纏わりつく何かを振り払うように身を捩ると、慌てた様子で身を縮める信濃が大きな瞳を殊更に丸くして阿藤を見ていた。

 周囲を見渡す。阿藤の細い体を押し潰さんばかりの重い暗闇はどこにも見当たらない。浅く呼吸を繰り返す己の肩も、小刻みに震える汗ばんだ掌も、何ら変わった様子はない。

 ――現実だ。

 認識した瞬間、どっと疲労感が押し寄せる。長く、長い溜息を吐き切った後、阿藤はおろおろと視界の端で動き回る信濃に苦笑を向ける。

「ごめん。嫌な夢を見てたから」

「大丈夫ですか? すごく苦しそうでしたけど……」

「大丈夫。……ただの夢だ」

 自分に言い聞かせるように呟いて、背を反らす。隣席で信濃がオフィスチェアに腰を下ろし、それでも納得がいかないと言いたげに時折阿藤の方を伺っているのを気配で感じる。再び瞼を下ろし、ふっと小さく息を吐くと、阿藤は信濃に向き直った。

「本当に大丈夫だって。お前、心配しすぎだよ」

「だって……あ、そういえば阿藤さん!俺、昨日、阿藤さんが気になるって言ってた紅茶、見つけたんですよ。明日買ってきますね!」

「ああ、うん、ありがとう……唐突だなあ。っていうか、その話したの結構前なのに、よく覚えてたな」

「えへへ、俺、阿藤さんのことは何でも覚えちゃうんです!」

「やめろよ、怖い」

「へへへ」

「褒めてないっつーの」

 信濃の照れくさそうな笑みにつられて、阿藤の頬も自然に緩む。モニターの電源ボタンを押して背筋を伸ばし、肩を回していると、事務所の扉が開く音と共に虎鉄と勝谷がなだれ込み、一気に所内の空気が賑わった。信濃を巻き込み、新製品だという菓子のどちらが旨いかなどと言い争っている二人に日置が言葉の鉄槌を下す。松井は笑い、音羽の鶴の一声で皆が各々業務に戻っていく。


 これが阿藤の日常だった。――何事もない、平穏な。

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