第2話 オルトバーネスの馬鹿王子
暖かい日差しが窓のガラス越しに降り注ぎ、室内は昼寝に最適な環境になっている。一度外に出れば木枯らしが吹き始めているとはいえ、窓さえ開けなければ寒さなど微塵も感じない。事実、会議に参加している重鎮の中には、眠そうに瞼を擦る者もちらほら伺える。
そんな心を穏やかにするような気候であるというのに、スヴェンはいたって不機嫌そうに眉間のシワを深くした。
スヴェンは年の頃三十ほどの男で、動きやすそうな黒の軍服と肩の紋章が、王子直属の護衛隊長であることを示していた。黒の軍服に合わせたように、長い黒髪を背中で一つにまとめているが、髪を伸ばしたというよりは、放っておいたら伸びたというような、大雑把な結い方であった。もう若くもない男にしては、かなり整った顔立ちではある。しかしその表情には苦労が刻まれ、緑の瞳は憂いに曇っている。
スヴェンの頭痛の種は、会議室の上座の空席にあった。本来この会議は、責任者たる王子に聞かせるためのものだ。それなのに、肝心の王子の席が空席とは、どういうことか。
兎にも角にも時間はどんどん過ぎていくので、王子不在の間にも会議は進行されることになり、壇上では最近話題の、人身売買組織の壊滅についてのスライドが流れていく。不運にも行方不明となっている人魚族の子供の姿が、魔晶と呼ばれる石に大きく映し出されたとき、会議室の戸が音を立てて開かれた。
会議に参加していた全員が注目する中、王子付きの小間使いが緊張に顔を青ざめさせ、大声で叫ぶ。なぜだか制服の裾に焦げ目が付いていた。
「ほ、報告致します!
王子の部屋から、このような手紙が発見されました」
小間使いは懐からなにやら紙を取り出した。
「読み上げます。『スヴェンへ。ちょっとヴィゴニアまで出かけてくる。気が向いたら帰るよ。じゃあね。ディーデリックより』とのことです!」
その報告を聞くや否や、スヴェンは周囲の視線もはばからず、ガタンっと椅子を蹴って立ち上がった。哀れみや同情の視線を感じながら、額に青筋を立て怒りに体を震わせる。そして大きく息を吸い込むと、会議室が震えるほどの大声で叫んだ。
「あんの、馬鹿王子が!!」
スヴェン・グレーバーズはオルトバーネス国に使える騎士の一人であった。その中でも特に優秀な成績であった彼は、現在二十八歳という若さでありながら、王子の直属護衛隊、通称君影隊の隊長に任命されるという偉業を成し遂げた。
眉目秀麗、冷静沈着、質実剛健。その言葉全てが彼を示す言葉だった。そんな彼であったが、不思議と周囲からの羨望や嫉妬の対象にはならなかった。それはひとえに彼の人望によるもの……ではなく、王子の人望の無さによるものであった。
ディーデリック・セオフィラス・アルバ・オルトバーネスは、オルトバーネス国の王太子である。彼はたゆとう金の髪、煌めく空色の瞳、完璧なプロポーションを持つ、まさに絵に描いたような王子で、剣技も頭脳も、全てにおいて常人から頭一つ、いや二つ三つは抜きん出ていた。
ところが、彼には全く人望がなかった。議会には勝手に欠席するわ、国家間の会談では眠りこけているわ、視察に行った先では突然姿をくらまし、当時の責任者が半泣きで王都に帰ると、王子は先に帰っているわと、とにかくわがままで手に負えない性格であったからだ。
それをどれだけ叱っても、王子は悪びれた様子もなく舌を出す。本人曰く、「僕はもともと、王太子になんかなるつもりじゃ、なかったんだよ? それに王子様なんて、退屈なだけじゃないか。いつか冒険野郎になって、世界中を旅するのが僕の夢」だそうだ。
歴代の護衛隊長は皆ストレスから体調を崩して、異動願いを叩きつけた。その度に護衛隊長への待遇は輪をかけて良くなるのだが、その程度の待遇改善では追いつかないほどに王子の世話は大変だった。
国中の王子の関係者がその事実を知っているため、当代の護衛隊長であるスヴェンに対しては、皆あからさまに哀れみの視線を向けた。彼はあと何ヶ月持つだろうかと、賭けの対象にもされているらしい。スヴェンはキリキリと痛む胃をさすりながら、それもそう遠い話ではないかもしれないな、などと思っていた。就任してからまだ数ヶ月であるが、王子の厄介さはすでに身に染みて理解していた。
この日の会議とて、スヴェンは王子が抜け出すのではないかと危ぶみ、色々と対策を練っていたのだ。
まず王子の部屋の窓の周りには、飛行型の小型ゴーレムを飛ばし、不審人物がいれば(それが金髪碧眼の整った顔立ちの男であっても)容赦なく焼き払うように設計しておいた。部屋の鍵はこっそりと外側からしか開かないものに付け替え、それを三重にした。下手に解除しようとすると、電流が流れる装置もついでに取り付けた。さらに王子の部屋の前の廊下には監視用のクリスタルを二つ並べた。もし動くものを見つけたら、内部で増幅されたレーザーが光の速さで打ち出される。
しかしそれらの対策は、小間使いが王子を呼びにいくのに無駄な時間を使わせる以外の役には立たなかったらしい。彼の話によると、王子はこれらの罠を一度解除したあとで再度設定し直したという。小間使いの服が若干焦げ付いていたのは、これが原因のようだ。
先ほど読み上げられた手紙の追伸には『この程度の罠で僕を閉じ込めておこうだなんて、百年早い』と書かれていた。ご丁寧に、舌を出す王子が描かれた芋ハンコ付きで。
その手紙のハンコを見た途端、スヴェンはくしゃっと王子の手紙を握りつぶし、人さえ殺せそうな凶悪なオーラを醸し出した。小間使いの青年はビクッと震え、泣き出しそうな表情をしている。
しかし肝心の王子にこの攻撃は効かない。以前スヴェンのこの表情を見たときには、両の人差し指を自らの頬に当てて「あんまり力入れてると、額のシワが残っちゃうよ? スマイルスマイル」と言ってのけ、スヴェンの怒りに火を注いだものだ。
「あ、あの……スヴェンさん……。いかがいたしましょう」
この青年は王子の小間使いであるが、ことディーデリック王子については、小間使いとしてではなく、監視役としての仕事の方が重視されている。その仕事に不備があったのだ。たとえ王子が悪いとしても、この青年にも落ち度がないとは言い切れない。もしも王子の身に何かあろうものなら、処罰は免れないだろう。
なんで人事課は新卒を王子につけたのか、甚だ疑問だ。これは明らかに人事ミスだろう。どんな玄人をつけたとしても、王子には不十分であるというのに。
恐る恐る話しかける若い小間使いに、スヴェンは顔を向けた。再びビクッと震える青年に向けて、しかしスヴェンは優しく微笑んだ。王子のお付きになったばっかりに、こんなくだらない騒動で神経を削らなくてはならない青年が、哀れでならなかった。
「心配するな。王子は必ず連れて帰る。……責任なら俺がとるさ」
優しくされた青年の瞳が、実に意外そうにくるくる動いていたことが、スヴェンにはひどく遺憾であった。
ヴィゴニアは王都から汽車で丸一日半ほどの位置にあり、隣国に直接面した都市であった。古くは戦争の緩衝地帯であったこともあり、王都と比べるとさすがに寂れた印象を受ける。小さな街が点在しているだけのこの地域は、盗賊やらの取り締まりが不十分で、治安が悪い街としても有名である。間違っても王子のような身分の人間が、ふらふらしていい場所ではない。
長時間の汽車の旅を終えたスヴェンは、憂鬱であるという気持ちを隠そうともせずに盛大にため息をついた。
海が近いため、風に潮の香りが混じっている。同じくヴィゴニアの駅で降りた若者は、サーフボードと思しき荷物を担いでいた。今年最後のサーフィンでもしに来たのだろうか。スヴェンの恨めしげな目が、笑顔の旅行客に向けられた。
頭を振って、思考回路をオン仕様にする。集中しなくては。ただでさえ王子の追跡は骨が折れる。ヴィゴニアの街はもう目の前であったが、王子探しがスムーズに進むとは、到底思えなかった。
黒い軍服を着込んだスヴェンは、一見全身真っ黒で、夜道で遭遇したら憲兵を呼ばれてもおかしくないような出で立ちであった。一日で王子が見つかる保証もなかったので、最低限の着替えなどの荷物をスーツケースに入れている。
そんなスヴェンを追いかけるようにして、スヴェンより一回り小さな影が汽車から降りてきた。スヴェンと同じ服を着ているのに、ボサボサな茶色の巻き毛のせいか、ずっと柔らかな印象を受ける。ただしスヴェンは長剣を腰に帯びているのに対し、こちらの男は身の丈ほどもある大槌を背負っていた。
彼はスーツケースを重そうに引きずって、スヴェンの隣に並んだ。
「あー、重い。荷物重い。下に車輪つければよかった」
「クリスお前、軍の体力測定で、腕力A判定だっただろうが」
「関係ないです。重いものは重いです」
クリスはスヴェンの部下で、君影隊の副隊長を担っている。その実力は折り紙付きで、特に筋力については目を見張るものがあった。しかし。
「お前もう少し、この際ふりでも嘘でもいいから、やる気を見せたらどうだ」
スヴェンの言葉に、クリスはふいとそっぽを向く。反省の色が見えない。だが今は、クリスの職務態度について言及している暇はない。
「行くぞ」
クリスの返事を待たずに、スヴェンは王子がいるであろう街へと足を向けた。
間延びしたやる気のない返事を聞きながら、スヴェンは心中で深くため息をついたのだった。
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