16.情報屋とスタンドプレー
an Information provider and stand play
男の名前は
年齢は三十三歳、職業は飲食店従業員。と言うと聞こえはいいが、実のところはキャバクラの用心棒。ガタイが良く、学生時代にボクシングをかじったことがあり、そこそこの強面でもあったので、その店で支配人をやっている昔馴染みに雇われた。とはいえそんな怪しい職業に人ひとり安心して暮らせるほどの充分な報酬はついて来ず、彼は他の手段でも稼ぐ必要があった。パチンコでとりあえずキャバクラの仕事と同じくらいは稼げたが、なにぶん安定収入とは言えない。そこでもう一つ、これもまたあくまで臨時収入を得るための方法として、そしてそれとは真逆のある使命感を持って請け負っている「仕事」があった。それが今、こうしてとある男を尾行・監視するというこの状況を生んでいる。
五時半過ぎに署の玄関に現れた
それからもうじき一時間。そろそろ出てくるんじゃないかとタツは気が気でなかった。
依頼してきたあいつには、もうとっくにこの状況を報告してある。なのにあいつはまだ来ない。自分から頼んでおきながら、相変わらずのんびりしたやつだ。まるで仲間うちでの自由参加の飲み会感覚だ。ただ、それがあいつの警察官らしからぬところのあらわれで、自分はそこが気に入ってこうやってガラにもなくスパイのようなことをやっているのだから、不満を言うのはナンセンスというものだ。
タツは携帯電話に表示された時刻を見た。十時ちょっと前だった。
タツは生ビールを呷った。煙草を消し、もう一度携帯電話に手を伸ばしたところで、西方向から表通りをやってくるあいつが目に入った。やれやれ、やっとお出ましだ。
指定された居酒屋に入ると、鍋島は窓際の席に相手の男を見つけた。ゆっくりと近付いて行き、何食わぬ顔で男の隣に座った。
「――遅いやんか」
タツは窓の外を見たまま言った。
「悪い。ちょっと体調イマイチでな」鍋島は適当に答えた。
店員がやって来て、鍋島の注文を聞いて立ち去った。
タツは鍋島の情報屋だった。鍋島とは、彼がまだ十三署の制服警官だった頃、酔っ払ってブティックのショー・ウィンドウを壊し、店員に怪我を負わせて逮捕されたときからの知り合いで、鍋島が刑事になったのをきっかけに、頼まれもしないのに自分が仕入れたミナミの裏情報を鍋島の耳に入れるようになった。鍋島は最初、情報提供者と言えば聞こえはいいが、しょせんは密告者、スパイであり、そんなものを抱えるのは自分の性分に合わないと思って相手にしなかった。しかし、大阪府下全域を管轄とする本部の捜査員とは違って、一所轄署の刑事にすぎない鍋島にとっては、なにぶんミナミは管轄外である。普通に捜査するにはたいして支障はないが、少し脇道にそれて情報収集する場合などは、そのためにいちいち所轄署に話を通すのも面倒だし、かと言ってそれをせずに調べてまわるとなると、途端にやりにくくなるのが堅気の世界と違うところだ。警察もどこかと同じで、縄張りがものを言う社会なのだ。刑事としての経験を積むにつれてそのことを実感した鍋島は、いつの間にか情報屋としてのタツの存在を受け入れることに抵抗を感じなくなっていた。
「――で、どうや」鍋島は煙草に火を点けた。
「さっき電話で言うたのと変わりなし」
「入店するときの様子はどうやった。バッジとか見せてたか」
「普通の客と変わらんよ。野暮なもんも見せてない」
タツはちらっとだけ鍋島を見た。「仕事と関係なく、ただ遊びに来てるだけちゃうの。先週までここらの所轄にいたんやろ」
「へえ、よう知ってるんやな」鍋島は目を細めた。
「見覚えあるんや、あの顔。えらい男前やんか。確か
タツは自分の言葉に頷き、鍋島を見た。「で、あいつ何したん」
「なにって?」
「何かやったから俺に尾けさせたんやろ。同僚やのに」
「やったかも知れんし、やってないのかも知れん」
「へえ?」タツは笑った。
「おまえの言う通り、ただの女漁りとか」
鍋島は言うと自分の吐いた煙を目で追った。「仕事で再会した美人の昔馴染みとお好み食べて、前任地の土地勘を活かして可愛いコのいる店で飲み直しってだけかもな」
「は、俺はそんなええ加減な憶測のために駆り出されてるんか」
「まあそう言うな。報酬は約束したやろ」
そう言うと鍋島はジーンズの後ろポケットから茶封筒を出し、テーブルに置いた。タツはそれを手元に引き寄せ、中身を覗いて小さく頷いた。
「ほな退散するわ」タツは言った。「ここの勘定は任せたで」
「ああ。ご苦労さん」
「お大事に。体調管理は大事やで」
タツはにっと笑い、鍋島の肩を軽く叩いて立ち去った。
見計らったように店員がやって来て、ハイボールと牛スジ煮込みを並べ、タツのジョッキと料理の皿を引いて行った。
鍋島は窓の外を見た。キャバクラの出入口は静かなままだ。いい加減出て来いよと思った。キャバクラは何回か行ったことはあるが、そんなに楽しかったっけ? そりゃまぁ、あいつなら楽しいか。悔しいな。
ハイボールを一口飲んで、煮込みに箸を伸ばしたとき、キャバクラの扉が開いた。
キャバ嬢が三人出てきた。そして芹沢がそのあとに続いて現れた。鍋島は即座に箸を置き、五千円札一枚をグラスの下に敷いて席を立った。
居酒屋の扉を開け、鍋島は表の様子をうかがった。さっきより少し人通りが減り、キャバクラの出入口もよく見通せた。しかしそれはつまり、キャバクラからもこちらがよく見えるということになる。鍋島は慎重に外に出た。俯いて視線だけを上げ、居酒屋からゆっくりと離れた。芹沢は相変わらず、 キャバ嬢たちと談笑している。そのうちの一人に腕を絡ませられていた。彼女は名残惜しそうだ。店の中での様子が想像できて、ますます悔しい。
そのとき、ちょっと、と肩を叩かれた。
振り返ると、居酒屋の店員が怒った顔で五千円札を鍋島の顔の前にかざしてきた。
「お客さん、足りませんよ」
「えっ?」鍋島は思わず声を上げた。「いくら?」
「あと九百円 。お連れさん、しっかり食べてはったからね」
鍋島は小さく舌打ちして、ポケットから千円札を出して店員に渡した。「お釣りはいらんから」
店員は当たり前だ、というような顔をして店に戻って行った。
鍋島はため息をついた。タツのやつ、どんだけ食べたんや。まあ、一時間も待たせた自分が悪いのか――
突然、後ろから襟首を掴まれた。そのままものすごい勢いで引っ張られ、倒れそうになったので、腕を振り回して相手の腕を掴もうとした。するとさらにその手首を掴まれて、後ろにねじ上げられた。
「い、いててててぇ――」
鍋島には分かっていた。誰にやられているのか。だからつい、軽い反応になった。そしてあえて抵抗するのをやめた。あーあ、気づかれてしもたか。
そのままの態勢で今度は背中を押され、居酒屋のすぐ隣にある路地に連れ込まれた。突き飛ばされて、かろうじて踏みとどまり、それからゆっくりと振り返った。
真正面から向き合って、鍋島はじっとその整った顔に視線をとどめた。
「何やってんだよ」
芹沢は静かに、しかし十分怒りのこもった口調で言った。
「居酒屋で飲んで――」
「いいよもう。そんな言い訳は」
芹沢は鍋島の言葉を遮り、腕を組んだ。「どっから尾けてたの」
「ほう。分かってなかったんや」鍋島はにやりと笑った。「署からずっと」
芹沢は目を細めた。「まさか」
「デタラメやないで。せやから今ここにいるんや」鍋島は肩をすくめた。「北浜のお好み焼き屋では秋山と会うてたな」
「……ふざけやがって」芹沢は舌打ちした。
「それはこっちの台詞やで」鍋島も腕を組んだ。「どういうつもりや。勝手にコソコソと」
「そっちが調子悪そうだったから」
「嘘つけ。その前から秋山と連絡取り合ってたやろ。スタバのあと、俺のトイレを待ってるときに」
「へえ。気づいてたんだ」芹沢は口元を緩めた。
「甘く見るなよ」鍋島はふんと鼻で笑った。「組んだ以上、難波にいたときみたいなスタンドプレーは許さへんで」
芹沢の表情が曇った。瞳に怒りが現れた。その様子を見逃さなかった鍋島は、彼もまた厳しい眼差しで芹沢を睨みつけた。
そして鍋島は不敵に笑い、言った。「文句なら東さんに言え」
やがて芹沢がふっと力を抜いて、諦めたような笑顔を見せて言った。
「分かりましたよ」
「素直でええやん」鍋島は満足気に頷いた。「それで、ここに来た目的は何や」
「樫村の妹の友達がね。あの店で働いてて」
芹沢は少しだけ後ろを振り返った。「今回の事情をある程度知ってる」
「へえ。それで?」
「ここで話すの? ちょっと長くなるけど」
「ほな場所変えよか」
鍋島は回れ右して、小さな袖看板の連なる路地の奥に入って行った。
芹沢は一つ大きくため息をつくと、鍋島の後に続いた。
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