15.メンタルの悩みといつかのキス

a mental problem and a kiss of someday

 路地の親子は、学校からの不審者情報メールを受けた母親が息子を迎えに行って帰宅するところを、運悪く逃亡中のコンビニ強盗に偶然出会わしてしまったらしい。慌てて逃げようとしたものの、まだ足のそう速くない息子が強引に連れ去られた。母親が死に物狂いで追いかけたが、我が子に刃物を突き付けられていては手も足も出ず、文字通り発狂しかけているところに奇跡的に捜査員が通りかかり、逮捕に至った。犯人の男は、二十五歳のフリーターで、ひと月ほど前に勤務態度が悪いと勤め先を解雇され、金に困って無計画にコンビニ強盗を働いたという。犯行時の言動がおかしかったのは酒に酔っていたからで、簡易検査では薬物などは出てこなかった。とは言えアルコールの摂取量はかなりのものだったらしく、それで闇雲に刃物を振り回されたのではたまったものではない。親子が無事で何よりである。



 刑事部屋のコーヒーメーカーから二つのカップにコーヒーを注ぎ、芹沢は自分のデスクに戻って来た。席に着き、隣席で椅子に身体を預けてぐったりしている鍋島に振り返ると、カップの一つを差し出した。「どうぞ」

「あ――ありがとう」

 鍋島は力なく頷いてカップを受け取った。

「薬は飲んでるんですか。下痢止めとかの」

「いや、腹の具合はもう大丈夫やねん」鍋島は俯いた。「そういうのとは違うから」

「持病があるとかですか」

「ない」そう言うと鍋島は首を傾げた。「……でも、こういうのも持病っていうのかな」

「もしかして、メンタルの問題」

「……まぁ、そういうこと。お恥ずかしながら」鍋島は力なく笑った。「いずれちゃんと話すよ」

「コンビだから?」

「うん」

「いいですよ、わざわざそんなの」

「でも――」

「誰だって、弱味の一つや二つあるでしょ」

 芹沢は涼しげな笑顔を見せた。「俺は気にしないんで」

「でも、この先確実に自分にも迷惑かけることなんやで」

「だったら、聞いても聞かなくても同じじゃないですか。それこそコンビなんだし、気にしないでください」

 鍋島はそんな芹沢をじっと見つめると、彼もまた穏やかな笑顔になって言った。

「……なるほど。面倒臭いんやな」

「分かります?」

 芹沢はコーヒーを飲みながら悪戯っぽい上目遣いで鍋島を見た。「クソめんどくせえッス」

「腹立つなぁ」と鍋島は苦笑した。「……ま、自分がそう言うんやったらいいけど」

「でしょ。どうしても知りたくなったら俺から訊きますから」

 芹沢は言うと、飲み干したカップをデスクに置いて腕時計を見た。「じゃ、帰りますか」

「えっ、もう? 樫村蓉世を探るんとちゃうの」

「だって、定時ですよ。昨日サービス残業してるのに、今日もなんてムリです」

 芹沢は腕時計を指差しながら言った。「それに、鍋島さんもしんどそうだし」

「俺のせいにして早く帰ろうって?」鍋島は呆れ顔で芹沢を見た。

「そういうわけじゃないけど、どうせあの会社ももう就業時間は終わってるだろうし、樫村を知ってる人物が上手くつかまえられなきゃ、探りようがないでしょ」

「まぁ、そうやけど」

「とにかく、今日はあのコンビニ強盗のせいで調子が狂っちゃったってことで。捜査にしても、鍋島さんにしても」

「…………」

 いちいち癇に障るやつやなと思いつつも、鍋島は芹沢の提案を受け入れることにした。実際、彼にとってもその方が都合が良かった。

「――じゃ、お疲れさまでした」

「お疲れさま」

 部屋の面々に挨拶を済ませた芹沢が出て行き、鍋島はデスクに残った。まだ気分は晴れなかったが、実のところ、そうも言っていられないのだ。

 とりあえずはほんの少しここで時間稼ぎだと鍋島は考えた。芹沢が拳銃を保管庫に返却に行き、ロッカーに立ち寄って署を出るまで十分から十五分と言ったところだろう。仮にロッカーに立ち寄らなかった場合は、5分もすれば署の玄関に現れるはずだ。このコーヒーを飲み終わったら、一階ロビーへ降りよう。にはあらかじめ署の近くで待機するように頼んである。

 は当初、普段のとは違うエリアで、しかもよりによって対象ターゲットが警察官であることに激しく拒絶反応を示してきたが、最終的には呑み込んでくれた。それに見合うだけの報酬を提示したとはいえ、この借りは大きい。だから是が非でも、芹沢のを暴いてやる。

 鍋島はカップをあおった。そしてデスクの鍵をかけると、ゆっくりと立ち上がった。




 北浜駅から徒歩三分、古い雑居ビルの二階にある小さなお好み焼き屋で、ソースとマヨネーズによるまるでラテアートのような装飾が施されたお好み焼きを切り分けながら、尚央は芹沢に昼間の豊田咲との話を報告した。

「――騙されたって」

 芹沢は鼻で笑いながらビールジョッキを口元に運んだ。「往生際の悪いやつの常套句だな」

「それが、どうやら本当みたいなの」

「というと?」

「さっき言った後藤っていうあたしの同期よ」

「ああ、飲み会でつまんねえことペラペラ喋って豊田さんに怒られたっていう」

「ええ。彼から詳しく事情を訊こうと思って、仕事の後に待ち伏せて捕まえたの」

 尚央は梅酒サワーのグラスを手に取った。「後藤の言うにはね、ユーキは、妹のお腹の子の父親は別にいて、樫村姉妹は何からの意図があって自分を騙そうとしてるんだって考えてたみたいなの。で、それを明らかにしようとしてたそうなのよ」

「どうやって?」

「妹の友達を一人知ってたらしいの。姉妹とは幼馴染みで、妹の一番の友達――親友と言ってもいいらしいわ。その人物なら、ことの真相を知ってるんじゃないかとユーキは思ったのね」

 なるほど、と芹沢は満足げに腕を組んだ。「でも、親友が話してくるかな。逆にかばうんじゃないの」

「まぁ、それはそうね」と尚央は苦笑した。

「どんな人物?」

「それが、後藤もよく知らないみたい。ユーキから聞いたのは、ミナミの『クラブえん』ってキャバクラに勤めてるらしいってことだけ」

「あ、そこなら知ってる」

「そうなの?」尚央は目を見開いた。「行ったことあるの?」

「うん、まぁね」芹沢は頷いた。「知り合いに誘われて、何度か」

「……知り合いそっちのけでモテモテな光景が目に浮かぶ」尚央は呟いた。

 芹沢はペロッと舌を出すと、焼きそばを箸に取った。「名前とか分からないよなぁ」

「聞いてない。後藤も知らないと思う」

「……ま、いいや。行けば何とかなるだろ」

「行くの?」

「うん。せっかく尚央さんが聞き出してくれたんだし」

「でも、親友だから庇うかもって」

「もちろん、すんなり喋ってくれるとは思ってないよ。でも、片山さんが真実をくれない以上、他でとっかかりを探るしかないだろ」

 そう言った芹沢をじっと見つめながら、尚央は箸を置いて静かに言った。

「……芹沢くんは、ユーキが本当に記憶を失ったって思ってるの」

「まさか」と芹沢は口元を歪めた。「彼は真相を言いたくないんだよ」

「それは――彼も誰かを庇ってるってこと?」

「そこは何ともね。不用意なことは言えない」

「だから調べるのね。蓉世ちゃんと妹のこと」

「あくまで片山さんが真実を話しやすくなるように、だけど」

「どういうこと?」と尚央は首を傾げた。

 芹沢はジョッキに残っていたビールを飲み干すと、一呼吸置くように肩をならして話し始めた。

「俺は、この一件は、片山さんが自ら真実を話してくれることが一番いい解決策だと思ってるんだ。確か昨日も尚央さんに対して言ったよね。俺たち警察が捜査権を行使して、関係者とその周辺の人たち全員に事情聴取して真実を導き出すこともできるけど、できればそうしないで片山さんの方から全部話してくれた方が、これ以上事を荒立てなくて済む。片山さんや、樫村さんやその妹さんそして尚央さんにとってのこれからのためには、それが一番じゃないかって、そう思ってるんだけど」

「……確かに、そうね」

 尚央は頷くと嬉しそうに芹沢を見た。「芹沢くん、頼もしいね」

 別に、と芹沢は言ってにっこりと笑った。「ありがとう。いろいろ助かったよ」

「こちらこそ。芹沢くんが担当してくれて良かった」

 尚央はぺこりと頭を下げ、それから言った。「じゃ、あんまり引き留めたら悪いね。これからキャバクラに行くんでしょ」

 芹沢は腕時計を見た。「そうだな、行ってみようかな。いい感じの時間だし」

「キャバ嬢さんたちにモテモテで、本来の目的を忘れないようにね」尚央は冷やかすように言った。

「大丈夫。慣れてるし」

 芹沢は余裕綽々しゃくしゃくで答えた。


 店を出ると、尚央は言った。

「――それじゃ、あたしはここで。頑張ってね」

「気をつけて帰ってね」芹沢は微笑んだ。

 すると尚央は少しのあいだ俯き、それから顔を上げた。

「ねえ、ひとつ訊いていい?」

「ん、なに?」

「……あたし、ずっと気になってたことがあったんやけど」

「気になってたこと?」芹沢は首を傾げた。

「いや、ずっと、っていうのはちょっと違うかな。は気になってたけど、そのうち忘れて。それで今、また思い出したっていうか」

「あの頃?」

「……バイトしてた頃」

 ああ、と芹沢は頷いた。「その頃の、何?」

「えっと……」

「言いにくそうだね」

「まあ……」尚央はまた俯いた。

キスしたこと?」芹沢はさらりと言った。

 尚央は顔を上げた。「憶えてるの?」

「憶えてるさ。それで?」

「どういうつもりだったのかなって。だって、あのときがほぼほぼ初めてだったでしょ。みんなで飲みに行って、ちゃんと話したのって」

「そうだっけ」

「そうよ。で、たまたま席が隣になって、お互いあんまり知りませんよねって話からだったのに――」

「尚央さんが可愛かったからだよ」

「えっ」

「それ以外の理由なんてない」芹沢は肩をすくめた。「今だって可愛いし。キスはしないけど」

 尚央は呆れたような照れたような、何ともいじらしい表情で笑うと、気を取り直したように頷いた。「分かった。ありがとう」

 芹沢も頷いた。「どういたしまして」

「じゃ、また」

「うん、また」

 尚央は小さく手を振って、北へ向かって歩き出した。芹沢はしばらくその後姿を見送っていたが、やがて反対方向に歩き出した。


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