9.規則(ルール)違反とスペインバル

a violation of rule and a spanish bar


 昼食のあと、二人の新入りは刑事部屋に戻って、植田課長と高野係長にこれまでの報告をした。

 課長は一定の評価をし、引き続き自分たちの裁量で動いてよしとの指示をした。しかし二人は当然これを好評価などとは受け取らず、期待外れだった新入りを、さっさと諦めて適当にあしらっているのだと見抜いていた。

「――ま、要は勝手にやっとけってことなんやな」

 自分の席に戻り、ゆっくりと椅子を引いて座った鍋島はぼそりと独り言を言った。

 隣でその言葉を聞いた芹沢はふっと小さく笑った。振り向いた鍋島と目が合うと、その目を細めて軽く頷いた。

 鍋島は面白くなさそうに口元を歪めた。

「――で? どうしますこれから?」芹沢は明るい声で言った。

「えぇ?」

 鍋島はちょっと笑った。芹沢のポジティブなドライさと言うか、一種の打たれ強さのようなものが意外に思えて、正直、頼もしく感じたのだ。

「スペインバルかな」鍋島は言った。

「そうだった。調べないと」

 芹沢はデスクのノートパソコンを開き、ネットに接続した。

「……あった。ここじゃないかな。『エル・メルカド』」芹沢はマウスを動かしながら言った。「店の人間が覚えてるといいんだけど。片山のこと」

「片山一人やなかったかも」

 芹沢は横目で鍋島を見た。「秋山尚央?」

「ああ。一緒やったとしたら、誰か覚えてるんちゃうか。彼女、美人やし」

「どうだろなぁ。だったら俺たちにしれっと嘘つきますかね。どうせすぐバレるんだし」

 鍋島はにやっと笑みを浮かべ、声を潜めて言った。「そこでや、芹沢くん」

「え、なに」芹沢は振り返った。「気持ち悪いな」

「スペインバルには俺一人で行く。自分はもっかい秋山に会いに行って」

「は? 何で? どういうこと?」芹沢はパソコンを閉じた。「さっき会ったじゃ――」

「だ、か、ら、それは刑事デカとしてやんか」鍋島はまだにやにやしていた。「で、今度は友達として会うてきて欲しいんや。メシにでも誘ってさ」

「……意味わかんね」芹沢はふんと鼻を鳴らして腕を組んだ。「言いましたよね俺。彼女のこと、すぐには思い出せなかったって」

「うん。それでも、自分にやったら何か喋ってくれるんと違うか」

 鍋島は言うと椅子の背に身体を預け、頭の後ろで手を組んだ。「男前やし」

「……本気で言ってるんですか」芹沢は睨みつけた。「殴りますよ」

「冗談やって」鍋島は笑った。「けど正直、二人の方が口は滑らかになると思うけど」

「……まあ、それはそうだろうけど」

「やろ。ダメもとでやってみようや」鍋島はにたっと笑った。

「でも、マズいんじゃないですか」

「何が」

「単独行動ってことになりますよ。俺も鍋島さんも」

「は? そんなもん大したことちゃうやろ」

「そうは思いますけど、あとで上司うえにバレたら面倒くさいことになるんじゃないですか」

「平気平気。文句言われたって、聞き流しといたらええねん」

 そう言った鍋島を、芹沢は真顔でじっと見つめた。

「え、なに」鍋島は言った。

「いや、別に」

「何やねん。言うてみてよ」鍋島は面白そうに身を乗り出した。「遠慮すんなって。俺らコンビなんやし」

「……怒んないでくださいよ」芹沢は小さく溜め息をついた。

「大丈夫やって」

「意外だったんで。規範意識の高い、品行方正なジュニアだと思ってたから」

 鍋島はははっ、と笑った。しかし目は笑っていなかった。

「あ、やっぱ怒った」芹沢は口元を歪めた。

「いや、大丈夫。慣れてるし、そういう風に振舞ってもいるから」

「でも、本当は違う」芹沢は真顔だった。「手段は選ばないタイプ」

「そうでもないよ。いたって普通や」

 そう言うと鍋島は芹沢をまじまじと眺め、訊いた。「自分の親御さんは何やってるん」

「酒屋です。酒販会社」

「へえ、社長さん」と鍋島は頷いた。「親父さんが興しはった会社?」

「いや、親父は四代目」

「じゃあ自分で五代目か。て言うか長男?」

「ええ」

「跡継がんでええのん」

「どうなんだろ」と芹沢は首を傾げた。「望んでるわけでもなけりゃ、諦めたわけでもないっていうか」

 ふうん、と曖昧な返事をして鍋島は腕を組んだ。芹沢はそんな鍋島を見て口元を緩めた。

「がっかりしました? 大した話じゃなくて」

「そんなことないよ。何で?」

「大阪の人って、オチがないとダメなんでしょ」芹沢はにやっと笑った。

「……アホか」と鍋島は溜め息をついた。「いちいちそんなんやってられっかい」

 芹沢はふふん、と笑って気を取り直したように背筋を伸ばした。「じゃ、ちょっと連絡取ってみますよ。秋山奈央に」

「お、その気になったか」

「選択の余地はないんでしょ」

 そう言うと芹沢はポケットから携帯電話を取り出した。「別行動だったら、結果報告し合わなくちゃ。番号教えてください」

「あ、俺ケータイ持ってない」

「うっそ! 何で?」芹沢は声を上げた。

「いや、うるさいうるさい」

 鍋島は口元に人差し指を当て、周りを見ながら言った。「みんなびっくりしはるから」

「……何で持ってないの?」

「何でって、必要を感じひんから」

「必要じゃん。めちゃくちゃ必要じゃん」芹沢は携帯電話をかざした。「これ無しで、どうやって連絡取るのさ?」

「俺がそっちに電話するやん。公衆電話とかから」

「つまり一方通行ってことですよね」

「ま、ちょっと不便やけど、問題ないやろ」

「……マジかよ」

 芹沢は大きく溜め息をついて、小さく舌打ちをした。


 五時半になって、鍋島は北新地のスペインバルを訪れた。そしてフロアマネージャーに昨夜は店で喧嘩や揉めごとのようなことはなかったかと訊いたが、特に目立った揉めごとはなかったということだった。そこで鍋島は片山の写真を見せ、この人物が昨日来店していたか、来ていたとしたら連れはいなかったかとも尋ねたが、マネージャーはよく覚えていないという。そこで昨日も出勤していた他のスタッフにも訊いてくれたところ、フロア係の一人が、この人物かどうか確信はないが、似たような男性がいたような気がすると答えた。男性は六時過ぎに来店し、しばらくは一人で食事を摂っていたが、やがて遅れてやってきた女性が合流したという。だが女性は一時間もしないうちに先に出て行ったらしい。そのあいだの二人がどんな様子だったかはよく覚えていないそうで、ただ、店を出るときの女性がずいぶんと暗い表情だったので、デートで食事のはずが喧嘩でもしたのだろうと思ったという。そして女性の風貌を尋ねる鍋島に、スタッフは「可愛かったですよ。美人でした」と答えた。だがあいにくそれ以上の印象的な記憶はないとのことだった。

 店を出た鍋島は、公衆電話を探して芹沢に電話を掛けた。

「どう、そっちは」

《――それが、まだ会えてないんですよ。友達の買い物に付き合う約束があるとかで、それが終わったら連絡くれることになってます。七時過ぎくらいかなって》

「ふうん。で、今どこにいる?」

《俺ですか? 中崎町なかざきちょうです。待ち合わせの店を物色中です》

「警戒が解けるような雰囲気の店にした方がええで」

 そして鍋島はスペインバルでの聞き込みの結果を話し、そのことを踏まえて秋山に探りを入れるように言って電話を切った。

 電話ボックスを出ると、鍋島は自分もどこかで食事を摂ろうかと考えた。そして少しのあいだ立ち止まって考え込んでいたが、やがて小さく溜め息をつき、だらだらと引き返した。


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