8.繋がらない電話とモヒート

unconnected telephone and a mojito


 いつも以上に長く感じた定例会議を終えると、秋山尚央は今日三度目の電話を樫山蓉世にかけた。しかし前の二回と同様、応答はなかった。

 もちろん、数日前からメッセージも送ってある。昨夜のゴタゴタのあとにも送った。彼女なら事情を知っていると思ったし、たとえそうでなくても、知らせておくべきだと考えたからだ。ところが、それより前に送ったメッセージも含めて、画面に既読が付くことはなかった。

 勘弁してよと尚央は思った。このままでは、自分に対するあらぬ疑いが晴れるどころか、根も葉もないよからぬ噂が音速並みのスピードで沸き起こるに違いない。と言うか、きっともう自分を知る人間のいるあちこちで起こっているだろう。片山は相変わらず記憶が戻らないと言っているらしいし、もはや蓉世以外に自分と片山の関係を釈明してくれる人物はいないのに。

 あのとき、蓉世の話なんか聞かなければよかったと尚央は後悔した。


 ――八日前。二日間の東京出張から戻った日の午後。尚央は会社に顔を出し、出張の報告と留守中の連絡事項を処理して一息ついていると、後ろから女性の声に呼ばれた。

「秋山さん」

「はい、何?」

 振り返った尚央のそばに立っていたのは、樫村蓉世だった。

「あ――蓉世ちゃん」尚央は作り笑顔を浮かべた。

「お帰りになってたんですね。お疲れさまです」

 蓉世は笑わずに言った。小さな丸顔に小作りの部品が上品に並んだおとなしそうな女性で、肩より少し短めの柔らかそうなウエーヴの髪がよく似合っていた。細長い首を少しだけ傾けて尚央を見つめている様子は、深刻というより、むしろ悲愴にすら見えた。

「……メールの件よね。何かあった?」

 尚央は蓉世のただならぬ気配に気圧されて、声を落とした。

「あの、今日、何か予定ありますか……?」

「え、まあその、特には……」

 尚央は言葉を濁した。出張明けで疲れてるから、今日は早く帰りたかった。でもそう言えそうな空気ではなかった。

「……話があるって、ことやったよね……」

「ええ、ちょっと相談が……」

 蓉世は呟くように言うと顔を上げた。「でもいいです。考えてみたら出張から戻られたばっかりで、お疲れですよね。また今度にします」

 今度にする気はあっても、やめる気はないんだなと尚央は思った。だったらさっさと片付けてしまおうと、そのとき彼女はいつもの悪い癖を出してしまった。

「ご飯、食べに行く?」

「でも……いいんですか?」

「うん。どうせあたしも思ったより早く戻ってこれたから、どこかでゆっくりご飯食べようかなとも考えてたとこやし。五時過ぎには身体空けられるけど、蓉世ちゃんは?」

「あたしも大丈夫です」

「じゃあ、五時過ぎに一階ロビーで」

「分かりました。すいません、無理言うて」

 蓉世はほっとしたような笑顔を見せ、ぺこりと頭を下げると足早に去って行った。

 その様子を見送りながら小さくため息をつき、尚央はデスクに向き直ったのだった。


 退社後、尚央は蓉世とともに梅田の洋風居酒屋へやってきた。

 注文を済ませたあと、尚央は話を切り出した。

「早速やけど、相談ってなに?」

「あ、ええ」

「仕事のこと? 前に辞めたいって言うてたことがあったけど……今も?」

「いえ、違うんです」と蓉世は小さく首を振った。「あ、でも――だんだんそんなことも考え始めてます」

「え、なに? どうして? 分かるように話してよ」

 蓉世は小さく頷いた。飲み物が運ばれてきて、二人は控えめに乾杯をした。蓉世は遠慮がちに口元に運び、一口飲んで息を吐いた。

「秋山さんの課の、片山さんのことなんですけど――」

「ユ―キね」と尚央は頷いた。「あのお調子もんがどうかした?」

「付き合ってるんです」

「――――――!」

 尚央はビールジョッキを落としそうになった。「ごっ、ごめん――」

「いいんです。ほんまにお調子もんやから」

「いつから? 全然知らんかったわ」

「一年半ほど前からです」

「あ、そう……へえ、そうやったの」

 尚央は冷や汗が背中を落ちていくのを感じた。片山とはよく一緒に組んで仕事をするのだが、明るくて仕事も出来て、誰にでも人懐っこい。尚央のことも先輩として立ててくれるし、あまり異性を感じさせない淡白な雰囲気のある男だった。だからつい尚央も気安く軽口を叩いてしまうのだ。

「で、そのユーキがどうかした?」

「――二週間前の週末に、彼、うちに挨拶に来てくれたんです」

「あれ、ほんと。片山クン、やるときはやるじゃん」

「……ほんとにそう」

「で、何かあったの? まさか、ご両親に許してもらえなかったとか」

「そのときは許してくれました」

「そのときって――」

 尚央が唖然としたところで、注文した料理が運ばれてきた。店員が去るのを待って、蓉世が続きを話し出した。

「両親には前から話してありましたし、何度か顔を合わせたこともありましたから。挨拶に来るって話したときも、喜んでくれたんです」

 そこまで言うと蓉世は突然声を詰まらせた。「でも、そのときになって、妹が急に反対し出して……その理由を聞いた両親も、怒り狂って結婚は許さへんって……」

「え、なんで? どうして妹さんが反対するわけ? そこまでの権利ないじゃない」

「それが……」

「あ」

 尚央にはピンときた。社会に出て五年あまり経つが、そのあいだに学生時代の友人や職場の同僚から、この手の話は嫌というほどいろいろ聞かされてきた。不倫、三角関係、略奪愛、ひどいところではDV男や結婚詐欺。女が泣かされたという結末だけではなく、どう考えても被害者は男の方だとしか思えない場合も決して少なくはない。かくいう尚央にも、いくつかの苦い恋愛経験があった。

「はん、分かった」

「えっ?」

「ユーキのやつ、妹さんにも手を出してたんでしょ」

「…………」

 奈央の露骨な言い方に、蓉世は言葉を失ったようだった。

「違う?」

 尚央が言って蓉世を見ると、彼女は手にしていたグラスを置き、力なく頷いた。

「で、どっちが本命?」

「どっちって……」

「ユーキが挨拶に来たのは、どっちのため? 蓉世ちゃん? 妹さん?」

「……私です」

「ならええやん。遊ばれた妹さんや事情を知ったご両親が怒るのはごもっともだと思うけど、蓉世ちゃんは悪くない。針のムシロに座るのはユーキ一人に任せて、蓉世ちゃんは堂々としてたらええわ」

 そこまで言うと尚央は肩をすくめ、蓉世をじっと見た。「と言うのはあたしみたいな責任のない傍観者の考え。蓉世ちゃんはそれでは納得出来ひんやろうし、妹さんと対決するか、ユーキを不用品として処分するか、好きな方を選んだらいいと思う」

「それが……形勢不利なのはあたしの方なんです」

「どうして? ユーキが妹さんを選ぶとでも言うてるの? そんな権利、彼にはないはずよ。ご両親の怒りも買うてるわけやし」

「両親は、彼に責任をとってもらうべきだと言ってます」

「慰謝料とか?」

「妹と結婚しろと。お腹の子の父親として当然やって」

 尚央はあいた、と声は出さずに口の形だけで言って目を閉じた。

「彼とはたった一度だけのことやったらしいんですけど、そのたった一度で……妊娠したって」

「ほんとなん? それ」

「は?」

「いえ、妹さんを疑うようで悪いけど。本当にそんなことってあるのかなって」

「それが、あったみたいです」

「失礼を承知でもっとはっきり言わせてもらえば、本当にユーキの子かってこと」

「そこまでは、あたしには……でも彼の方も身に覚えがあるって言うてるし」

「どうしようもない男ね、あいつ」尚央は吐き捨てた。「今の蓉世ちゃんに言うのは酷やけど、そういう男は信用出来ひんよ」

「父もそう言ってました」

「それでも妹さんとのことは責任取らせようって思ってらっしゃるのね」

「ええ。子供が出来た以上は仕方ないって」

「今、何ヶ月?」

「十五週に入ったところだそうです」蓉世は言って俯いた。

 尚央は頬杖を突いて思わずため息を漏らした。「……あんた、最悪よね」

「そう思いますよね。秋山さんも」

「思うわ。思うけど、どうこうしろとは言えない」

 蓉世は肩を落として頷いた。疲れきった表情でモヒートを飲み、ふうっと長い息を吐くとゆっくりと顔を起こして言った。

「それで、秋山さんにお願いがあるんですけど」

「ユーキをブチのめせとか? 是非ともやってあげたいけど、それでは何の解決にも――」

「いえ、そうじゃないんです。そう言っていただいて嬉しいです」

「じゃあ何?」

「しばらく、あたしを秋山さんの部屋に置いていただけませんか」

「うちに?」

「ええ、ご迷惑でしょうけど……お願いします。うちにいたくないんです」蓉世はすがるような眼差しで尚央を見つめ、今にも泣き出しそうな声で言った。

「気持ちはわかるけど……あたしんち、狭いよ」

「邪魔にならないようにします。彼氏とかが来られるときは、ちゃんと遠慮しますから」

「そんなのは来ないからいいけど、ご両親が心配なさるわよ」

「連絡は入れますから。両親もあたしの気持ちは分かってくれてます」

 ――困ったな、と尚央は思った。彼女の苦しみを思うと承知してあげたいのはやまやまだったが、正直、面倒な話に巻き込まれたくないという思いもあって、尚央は少し躊躇した。

「やっぱり、迷惑ですか」

「迷惑とか、そんなんじゃないけど。そうね、一日考えさせてくれない? きっと悪いようにはしないから」

「一日……ですか」

「そう。一日でも嫌? 家にいるのは」

「いえ……」

 蓉世は暗い顔になった。それは、家に帰りたくないという気持ちだけからくるものではなく、明らかに思惑が違ったことによる困惑の表情だった。

 そして彼女は言った。

「実は、もう荷物をまとめて来たんです」

「ええ?」と尚央は目を見開いた。「荷物って、どこに?」

「梅田駅のコインロッカーです。紀伊国屋きのくにやのそばの」

「……無茶というか、強引というか。よほど思い詰めてるんやね」

「すいません」

「謝ることなんてないわよ」

 尚央は小さく笑い、小さくため息をついた。そしてジョッキのビールを空けると、腹を括ったかのようにどんとテーブルに置き、蓉世を見て言った。

「ええわ。とにかく今日は泊めてあげる」

「いいんですか?」

「仕方ないでしょ。でもとりあえず今日だけ。明日からのことは、まだあたしも何とも言えないわ」

「分かりました。すいません、本当に」

 蓉世はほっと安堵の息を吐いた。


 ――あれから八日。こんなことになるなんて。

 尚央は電話を切ると、ほとほと困って廊下の壁に背をつけた。

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