勝率ゼロ

 どうやら女は本格的に動き出したみたいだ。


 朝の清楚な空気を穢れた存在が汚染していく。村から少し離れた位置にある森林の茂みに、俺は息を殺して身を隠していた。俺は木片を手にしていた。それは武器として使用する。防具は無い。身につける物は腰巻き位で、防御力は心許なかった。


 武器やら防具やらと物騒な事を考えるのは、これから起こる事が原因だ。ジッとしているだけで、恐怖に心が侵食されていく。死の可能性がある命令をされた。しかし体は躊躇いもなく命令に従う。俺の記憶を勝手に探り、そこから最適解を導いて、こうして命令を果たさんとしていた。


グルルルッ


 何者かの鳴き声が鼓膜を揺さぶった。音をたてずに音源の方を見る。そこにいたのは、黒い毛を纏った狼だ。それは魔獣。見た目はただの凶悪な狼なのだが、どうやら少し元の世界の狼とは違うらしい。


 運良く単体で行動していた。背後から襲い掛かった。のし掛かる様に押さえ込むと執拗に頭部を木片で殴った。


 ゾンビというのは、特に人間と変わらない能力しか持っていないが、脳も肉体もリミッターが外されており、人間の持てる最大限の能力を生かす事が出来た。身体能力で言えば、およそ四倍の力を引き出せる。


 狼が抵抗をやめた。いや、生命活動をやめた。俺はそいつを屋敷に運ぶ。女は、人間の死骸ではなく魔獣の死骸集めを始めた。真意は謎だが従うしかない。


 俺は狼を運び終えると、清掃へと移った。いつもより時間が掛かってしまった。終わったのは次の日の明け方だ。昇ってくる太陽を見て確信した。


 第二のゾンビが女の呪縛から解放されたのだと。 





 俺が現在生命体であると仮定して、俺はあとどれくらい生きていられるのだろう。


 第二のゾンビが屋敷に消えてから、俺はそんなことを思うようになった。ゾンビに生まれるなんて最悪だが、それでも俺は生きる事を願っている。死体であっても、心があれば死ぬのは怖いのだ。


 狼狩りの日々。今まで死ななかったのは奇跡だ。九死に一生を得るような場面はたくさんあった。その度に心は戦慄した。精神はどんどん削られていった。


 最近なんとなく分かったのだが、心がすり減って無くなったときが俺の終わりだ。


 今日も狼を狩りに森へやって来ていた。単体で行動する狼を厳選するため、今日も森の獣道に目を光らせながら茂みに身を潜める。すると、想定外の事態に遭遇する。小さな影がそこを通った。


――子供?!


 迷子だろう。怯えた表情とキョロキョロと首を動かす姿から直ぐにそう理解した。なんでこうも、あの村の子供は危なっかしいのか。


――大丈夫。大丈夫だ。今回の目的は魔獣であり、人間ではない。


 ホッとため息はつけないが、心中安堵する。この獣道を真っ直ぐ行けば村に着くだろう。


――そう、それでいい。ゆっくり、急げ。


 少女は怯えながらも正しい判断をしていた。足音を立てず、息遣いにも気を回している。あとは恐怖のコントロールが出来れば一流の狩人だ。


 ドンドン遠ざかる少女の後ろ姿を見送っていると。


グルルル


 少女の側の茂みから狼が出現した。そいつらも俺と同じく獲物を待ち伏せていたらしく、計五匹の群れが少女を取り囲んだ。


 必死に体へ信号を送る。走れ。前へ出ろと。女の命令に逆らっている訳ではないため、体は動かない事は無かった。しかしそれは、あまりにも遅く。


 ジリジリと狼が少女との距離を縮める。少女は逃げれないと悟ったのか、腰を抜かして絶望に染まった表情で捕食者を眺めていた。


 その時だった。

 巨大な影がその場へと躍り出た。その乱入者は、現れると同時に狼を押さえつけ瞬時に鋭い爪で止めを刺した。


 そいつは熊の姿をした魔獣だった。


 即座に他の四匹の狼は散り散りに逃げ出した。熊がそれを追わなかったのは、逃げようとしない一つの獲物があったからだ。


「――っ――っ――っ」


 少女は涙を溢しながら、声になら無い叫び声を上げていた。


 その時、俺は――







 熊を見て、本能も理性も魂も満場一致で理解した。


 勝てないと。


 それは、明らかに格上に立つ生物だった。

 纏う赤黒い剛毛は一本一本が針金のようで、鉄の鎧よりも頑強に見えた。唾液を溢す口の端には、見たことの無い歪な牙が生えており、目にするだけで心は恐怖した。そして、何よりも、圧倒的な圧力があった。自分の数倍はある巨体から、世界をねじ曲げてしまいそうな覇気を垂れ流していた。


――ああ、


 感嘆するしかなかった。見上げて。こちらには来ないことを祈るしか……。


――ありがとうよ。


 恐怖と理性を置き去りにして。


――お前のお陰で、間に合った。 


 走り出した。


 勢いをそのままに飛び蹴りをかます。が、熊は身を引いてそれを避けた。いや、それは回避行動と言うよりも、ただ身を起こしただけの様だった。それだけ、熊は堂々としていて。


 俺は渾身の飛び蹴りを外すも体勢は崩さずに着地し、間を置くことなく次の動作を行った。


 拳を握りしめ熊との距離を一歩詰めると、腰を落とす。熊は、鬱陶しいハエでも叩くかのように横撃を繰り出した。なるほど俺は食料に群がるハエか。


 更に体勢を低くして横撃を交わすと、熊の懐に潜り込み、


「ガァァア”ア”ァアァアアア!」


 振りかぶった拳を熊の顎へと叩き込んだ。


 元氏 傑の、決死の戦いが始まった。





 無謀に思えるその挑戦だが、実は三つの事象が奇跡を起こす要因になっていた。


 一つ。傑が戦おうとしていたこと。まず熊から逃げる事は出来ない。元の世界の熊であれば、好戦的ではない事が多く、人間が威嚇すれば追い払ったという事例もある。しかし、魔獣は共通して人に対し好戦的である。車と同じ速さで走る熊に対し、逃げという選択は最も愚かだ。


 二つ。熊を殺そうとしていないこと。いや、まともに戦うことが出来ない事を理解していたこと。故に、傑は熊を撃退することだけに集中した。鋼の毛皮を持つ熊への唯一の弱点。ひたすら熊の鼻への攻撃に全てを掛けた。


 三つ。魔女の呪縛だ。この縛られた体は、恐怖に震える事もなく最善解を繰り出す。そして何より、魔獣を殺すという命令に怯えるのでも逆らうのでも憎むのでもなく。全身全霊で従った時。


 呪縛は祝福となる。





 たった一振りで頭は飛ぶ。

 接触するだけで腕はもげる。

 熊に接近する時は気を付けなければならない。あの重量に押し倒された時、もはや抵抗の余地は無くなる。往なすのも受け流すのもダメ。回避に回避を繰り返す。


「ア”ア”アアァアァア!」


 腐った声帯で雄叫びを上げる。熊の剥き出しの牙を避け、拳をその顔面へと叩き込む。が、効かない。


 咄嗟に宙で体を半回転させ、熊の反撃を避ける。俺の体は今、脳からの信号で動いていない。女の魔法によって条件反射で熊からの攻撃を避けさせられていた。


 それでも、熊の撃退は叶わない。

拳を何度か顔に打ち込む事は出来たが、結局どれも腰が入っておらず中途半端な拳になってしまうのだ。身長差をどうにかせねばならない。


 立ち位置は目まぐるしく入れ替わる。

俺は熊の攻撃を避けるのに精一杯で、気付けなかった。戦場は少しずつズレ、少女の側にまで来ていたことに。


 ハッとして背後を見ると、あと一歩の所にまで、俺と少女は接近していた。目に写る少女の瞳は、恐怖を写していた。それはきっと、熊に対しても俺に対しても向けられていて。


  その時、俺はかつて殺してしまった少女を、目の前の少女に幻視した。


――今度は、殺させねぇ。殺したくない!


  理性的に、熊の一撃を避けようとする体に抗って体の自由を一時的に取り返す。


 それはつまり、恐怖を無かったことにする精神と、奇跡的な回避を可能とした魔女の呪縛を手放すということ。


 だが、もう下がれない。もう、熊の攻撃を避けることも出来ない。背後で涙を流す名も知らぬ少女を殺させたくなかったから。

 

 熊の爪が――命を刈り取る、その爪が


「ヴオ”オ”オ”オオオ」


 振り切られるよりも先に――何よりも速く。いままでの立ち回りの中で、最も速い拳を熊の顔面へと見舞った。

 

 遅れてやって来た熊の一撃に、俺の左腕は吹き飛んだ。





 その場に呆然と立ち尽くしていた。

 熊はもうその場にいない。


 いるのは、一体のゾンビと一人の少女だけだった。


 俺の渾身の一撃を受け、熊は逃げ出した。

 左腕を失ってしまったが、一人の少女を救う代償だというのなら安いものだ。そもそも死骸の腕と一人の少女の命を天秤に掛けるなど、烏滸おこがましい。


 あの女ならくっ付けられるのではと思い、一応腕は拾っておくことにした。もし、くっ付くとして、命令は遂行しないと帰れないた。だから、片腕のない状態でこれから狼を狩にいかなければならない。今日最も修羅場となるのはそっちになりそうだ。


 少女をチラと見ると、未だに怯えているのが見えた。


 ――さっさと行った方がいいな。



 

 

 少女は、背を向けて歩きだすゾンビに呆気に取られるも、未だ混乱した頭でいつの間にかこう呟いていた。


「ありが、とう?」


 果たしてそれが動く死体の耳に届いたかどうか、少女は確認のしようが無かった。

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