厄介な記憶
ある月の隠れた夜のこと。村中が寝静まり静寂が世界を支配する時刻に、俺は庭の手入れをしていた。草むしりや植木の手入れ。やることは山積みだ。夜目の効くゾンビだからこその芸当である。
この時間は嫌いではない。
草木と向き合うと心が落ち着くし、この体に疲労はなく睡眠の必要もないから、労働も苦ではないのだ。
視覚と聴覚があって良かった。都会人だった俺にとっては村の景色は新鮮だったし、時折見える赤紫の夜空は眩しい位に美しかった。異世界にも虫はいるようで、村の夜景と彼らの鳴き声がマッチする事でほんの一時の間、嫌な記憶を忘れさせてくれる。
そんな快い気分でいられるのも束の間。
足元に転がる小さな靴が、一つの悪夢を呼び起こした。
*
夏の日の夜。この日も庭の手入れをしていた。その時は、塀の内側ではなく外側だった。壁沿いに生える雑草をまだ慣れない手付きで刈る俺は、どこかから小さな悲鳴が発せられた事に気付いた。
ハッとしてそちらを見てしまう。
見てしまった。
それは子供だった。まだ小さな――十歳弱で、赤い服を着た少女。手には何やら紙が握られていた。
――ああ、知ってるよ、この子。
俺は時折村での情報収集を行う事があった。女は注意深く、外部からの干渉が一切無いように様々な手を打っていた。そのうちの一つが情報収集だった。
少女の名をシルヴィと言う。至って普通の村娘だ。大人の手伝いをよくする良い子で、かけっこが速くて、可愛らしくて、村の大人からも子供からも人気のある女の子だ。
彼女は両親を失っていて、叔母の住むこの村へ小さい頃に預けられたそうだ。今持っている手紙は両親宛のもの。シルヴィは、両親が死んだことを知らされておらず、遠くに住んでいるのだと知らされているのだ。手紙は届く訳がない。そのため村人はそれを止めようとする。
村人の真意を知らぬ彼女は、他の村人に気付かれぬよう、こっそりと手紙を送るつもりなのだろう。
俺がこれを知っているのは、村人が深刻にこの事を話すものだから何か重要な話なのかと勘違いし、聞き耳を立ててしまったのだ。
聞いてしまっていたからこそ、これから起こることは非常に辛かった。ゾンビの姿を見てしまった村人の末路は、死だ。
シルヴィを視認してしまった俺の体は動き出す。
シルヴィは震える足で走った。本人は走っているつもりなのだろうが、恐怖に震える体では録に走る事も出来ていなかった。死の縁に立たされた少女が下した決断は――
「た、た――たす、たすけてぇ」
屋敷へと必死に声を送った。掠れる声で。俺にしか聞こえないような声量で、必死に叫び。
「たすけて、よぉ」
塀にしがみつく少女に、俺は一歩一歩近付いていく。
――やめろ、そうじゃない。走れ! 逃げろよ! そこに助けはねぇんだよォッ!
シルヴィは涙を流す。くしゃくしゃの顔で必死に屋敷へと声を送ろうともがいている。こちらに振り返った少女の顔は、まるで化け物でも見ているかの様で。
――嫌だッ! 嫌ッ! 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ……
心は狂ったように悲鳴を上げた。腐った手が少女へと伸びる。止まらない。一直線にその手は少女の首を掴んだ。
「う、うぐぅッ」
シルヴィを高く掲げる。ばたつく足が俺の腹を蹴飛ばした。必死になって女の支配に対抗するが、全く動じる気配はない。シルヴィの首を絞める手は微動もせずに、抜け目なく小さな命を消し去ろうとしていた。
少女が息絶えるまでの時を、絶望と共に過ごした。シルヴィの背後には満点の星が真っ黒な光を放っていた。辺りからは一切の音が消え、一切の光が失われた。未だ幼い少女は命を奪われた。
体は、少女の開ききった白目を閉ざすこともせず、口から垂れ流れた泡もそのままに、淡々とその骸を担ぐと女の元へと向かった。
俺の心が完全に砕けたのは、その日が初めてだったかもしれない。
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