第10話 天職

 ルビは居酒屋の店主との奇妙な経験したあと、なんだか少し活力のようなものを感じるようになった。

 薬はまた飲み始めたが、毎日よく歩くようになっていた。


 ルビは思った……。


(なんの権限で私に酒と薬を止めろだなんていったんだろう?親子でも友人でもないのに)


 ルビにとってあの店主は、これまでの人生で出会ったことがないタイプだったし、だいたい苦手なはずの人種だった。しかし、実際に言葉を交わしてみると嫌悪感を感じるどころか、どこか痛快で幸せな気分を持つことができることに気づいた。


 居酒屋の店主は、ルビの人生の一幕に降って湧いたように現れた”異物”であり、そして刺激だった。 

 ルビはルポライティングタイプの小説を書くのは苦手だから、あのキャラクターの濃い人物を題材に小説を組み立てようとは思わない。

 ただ、あの店主が持っている人間のエッセンスや、もっと深い部分の人間の本質に別角度からアプローチするような部分に、何らかのヒントのようなものを感じるのだった。


 とにかく、あの店主のことを思い出すだけで、思わず顔がほころび笑顔になるルビだった。


(薬は時間をかけてでも止めなきゃね……居酒屋にも行けないし)


 朝目覚めてからカフェオレを飲んでタバコを吸いながら体にエンジンをかけ、駅まで1時間くらいのウォーキングをしてパソコンに向かう。そして1~2時間小説の下調べをして執筆に入り、そこで1文も書けずに止まってしまう。


 これがここ数ヶ月のルビのルーティーンだった。

 そこからは、タバコとコーヒーをやる以外は、時折空腹を満たすために軽食を自炊する程度、そして夜になってしまうのだ。

1日がすごく短く感じるようになった。


 あの居酒屋の一件以来、禁酒することには成功している。


 理由など理解できなくても、自分が心地よく感じる人から「これはダメだ」と言われると、なんとかその努力をしようとするのがルビの若い頃からの癖だった。それを最後まで守れるかどうかは別として、尻を叩かれてもびくともしない不感症ではないし、ひねくれた解釈をする天邪鬼でもなかった。


***


 ルビはルビなりに、このマンネリ化した生活から抜け出そうと、生活習慣に多少の変化をもたらそうと工夫をした。その日からルビは、朝だけではなく夕方にも散歩をしようと考えマンションを出ることにした。


 夕方の6時の時間帯は、朝の通勤の列とは反対方向に足が向く。

 駅から逆流した人の列にある顔たちは、ルビと時々目を合わせながら後ろに流れていった。


 通勤の時よりも、みな表情は穏やかで、連れの者と談笑しながら歩く姿も見られる。また辛い明日の朝までの短い時間、なんとか自分自身を癒やすことができると、ほっとしているだろうとルビは思った。



 何個か交差点を曲がり、駅にぶち当たるとき、花屋のミサが目に入った。

向こうもルビに気がついたようだ。


「あら!ルビちゃん!」


 ミサと花屋以外で顔を合わせるのが初めてだったので、妙な新鮮味を感じる。


「もう、終わって帰るの?」


 エプロンを外して赤いかわいいリュックを背負っているミサの様子を確認してルビは言った。


「そうなの、ルビちゃんはウォーキング?」



――ルビは最初に花屋に入った時からミサが好きだった。

 ルビは職業柄か、他人を見て過去を想像したり性格や発した言葉を頭の中でこねくり回して思慮の世界に突入することが多かった。しかし、ミサに対しては「今見てる彼女がすべて」といろいろと考えることをしなかった。


 自分の趣味と合わない部分があっても、ミサの快活に話す言葉は心地よい以外の何ものでもなく、ただただ彼女の話を聞き、笑顔を見ているだけでも平穏な気分になれたのだ。


「ルビちゃん、今私に付き合える?この間オープンしたパン屋さんに行ってみたかったんだ!一緒に行かない?」


(大人になって他人をこうも簡単に誘える人は心に影がないのだろう……。私にはできない芸当だ)


 一瞬そんなことが頭に浮かんだルビだったが、ミサの言葉は純粋でそして強かった。


「行ってみたい!」


 ルビは意識的に大きな声で同意した。




 そのパン屋は駅から15分くらい歩いたブティックや雑貨屋が立ち並ぶエリアにあった。新規オープンした店らしく、まだ店頭には送られた花が飾ってある。朝やお昼には行列ができるらしいが、夕方の時間では店内のイートイン席には余裕が見られる。



 ミサとルビはそれぞれのトレーに2、3個パンを選び、コーヒーを注文して窓側の席を取る。

 真新しい店内はヨーロッパの農場風とでも言おうか、クリーム色の土壁のあちこちに麦わらがあしらってあり、間接照明で落ち着いた雰囲気だ。



「きれいな店ね」


 間が持てないルビは適当なことを言ったが、ミサはそれには答えず話をかぶせる。


「ルビちゃんと、一回落ち着いて話したかったんだ!すごい興味があって!」


 とパンを頬張りながらミサが言う。


「興味?怖いわね……特殊な人間に見える?」


「んん……匂いかな。ルビちゃんと何か匂いが一緒の感じがする。上手く言えないけど……」



 ルビはあの花屋に通い始めて2ヶ月位してから、ミサの「お仕事何されてるんですか?」の質問に”小説家です”と答えていた。


 一般の人にそれを言うと、妙に興味を持たれていろいろと詮索されるので、「出版社勤務」と答えることが多かったのだが、なぜかミサには正直に答えることができた。

 そして、ルビがミサに良い印象を持ったのも、自分の職業に対して深く聞き入ることをしなかったからだった。ミサは「寝不足しないようにね」とか言うくらいで、小説家という職業を必要以上に膨らませる会話を持ちかけて来ない。


「私は子供の頃から本ばっかり読んでて、それで大学中退して小説家になったから、ホントにシンプルなの。変わった体験もしてなくて。おもしろい話はないかな」


 と言うと、ミサが笑顔を作りながら反応する。


「じゃあ、天職なんだね。私なんか紆余曲折で……」


 ルビは自分が小説家であることを”天職”だと感じたことがなかったので、ミサの言葉が新鮮に感じた。



「紆余曲折?前はどんなことしてたの?」


 何気なく聞いたつもりだったが、ミサの顔が赤らんだので、何か悪いことを言ってしまったのではないかと、驚き背筋を緊張させる。


 ミサは照れくさそうな笑みを浮かべ、答えた。



「かなり恥ずかしいんだけど……私アイドルになりたくて東京に来たのよ」


 ルビは少し目を丸め、うなずきながら目で話の続きを求める。


「それが全然ダメでね。養成所に入ってたんだけど、見た目も歌も踊りもダメで、怒られっぱなしで……」


 ミサは別段美人というわけではないが、表情に影がなく魅力的だ。アイドルを目指していた過去があると告白されても納得することができた。彼女よりも容姿の悪いアイドルはいくらでもテレビに出ている。



「難しんだね、あの世界って」


テレビも持っていないルビが思いつく言葉はそれくらいだった。


「あそこも特殊な人種だけが生き残れる世界みたい。私はそこでコンプレックスしか感じられなくて」


 ルビはかじりそうになっていたパンをトレーに戻し、うなずきだけで同意する。


「親はアイドルなんてとんでもない!って大反対だったけど、3年って期限付きで仕送りしてくれてたんだ……でも3年なんてあっという間で。養成所も耐えられなくて辞めちゃって、一気に生活が苦しくなってね。実家には戻りたくなかったの」


 ルビは物語の世界に入り込むようにミサの話に没頭しはじめ、無意識にタバコを掴んだが、そこは「店内禁煙」だった。

 ルビの動きに気づいたミサが、「外行こうか!私も吸いたいし!」と、二人は残りのパンをテイクアウトして外に出て近くのシャッターの閉まった会社の前に座り込んで煙を吹きちらした。


「それで生活費を稼ぐために、あの花屋さんに?」


 ルビは他人とプライベートな話をするとき、あまり質問をしなかったが、その日は違った。


「それが、居酒屋さんとかコンビニとか、カフェとか、バイトしたんだけどね。私どんくさいみたいで、どこいっても”使えないヤツ”で怒られっぱなしで……どこも続かなかったんだ」


 いつ見てもテキパキを花屋を切り盛りしている今のミサからは、とうてい想像もつかない過去だった。

ただ、コンビニの店長に叱られているミサの姿は容易に想像することができた。そして誰にも怒られることがないルビはそれが少し羨ましく思える。善良で健康な人は簡単に人から怒られるし簡単に謝ることができる。か弱いルビは怒る方も気を使うのだろう。小学生の頃からいじめられることはあっても怒られた記憶はない。

だからこの間居酒屋の店主に怒られたときには少しうれしかった。


「それで行き着いたのが今の花屋さん、ってわけ」


 と、話のオチをつけたかのようにミサは区切りをつけたが、ルビはさらに詳細を聞きたくなった。


「花屋さんはうまくいったんだ?」



 ミサは目に光をためて答えた。


「そうなの!私、社会に出て初めてあそこで褒められたのよ!あの強面の社長に!」


 ミサの働く花屋に、50代後半くらいの女の社長がいることはルビも知っていた。


 昔テレビで放送していた「アルプスの少女ハイジ」に出てくる、クララの家庭教師『ロッテンマイヤーさん』のような厳格なイメージの人で、威厳がありすぎてルビは少し怖さを感じるほどだった。

 何度かその社長から花を買ったことがあり、言葉を交わしたこともあったが、到底従業員を褒めて育てる人とは思えなかった。


「ちょっと怖い感じでしょ?」


とミサが同意を求めると、2人で大きな声を上げて笑った。


 花屋の社長は、地元のカルチャースクールでブーケや挿し花を教える講師もしているそうだ。

そして社長はミサの持つ色彩感覚と花を組み合わせるセンスの良さを見抜いた。ミサが入る前に5年勤めていた従業員がいたが、社長がミサにばかりかまうので、ヘソを曲げて辞めてしまったほどだった。


「それでね、『私にはこれまで何百人という生徒がいたけど、あなたは特別よ。そのセンス伸ばしなさい』って褒めてくれて。手取り足取りフラワーアートのこととかも教えてくれて……」


 ミサはルビに昔話をしながら蘇った感動に、少し声を震わせている。


「私、小学生の頃からアイドルになることが夢で、花屋の面接に行ったときにもあきらめてなかったんだ。でも、初日に社長にほめられた瞬間、全部吹っ飛んじゃったの!」


 と、ミサは自虐をこめて笑った。



「それで、後悔はなかったの?」


 ルビは理解できずに、食い入るように質問する。


「うん、価値観が変わっちゃったのかな。自分でも信じられなかった。まったく未練も残らなかった……”認められる”って大きいよ!」



「認められる?」


 ルビがぼそりと、自分にも問いかけるように反芻する。


「そう、花になんか全然興味なくて、ほんとに生活費を稼ぐためだけに働き始めたんだけど、今じゃ逆にアイドルのどこに惹かれていたのか思い出せないのよ。ホント不思議!」



 自分はこれまで学校の国語の先生や父親、そして三浦に認められ、そして何より多くの読者に認められている。なのになぜ今のミサのように晴れやかな気持ちになれないのか分からなかった。ただ目の前で幸福感に包まれているミサに対して劣等感を感じることはなかった。


 2人はそこで3時間も話し続け、缶コーヒーをそれぞれ2本づつ飲んで、空き缶を吸い殻でいっぱいにした。






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