第9話 入れ墨

――大きな背中が見える。


 大きな背中は白い長袖のポロシャツを着ていて、もぞもぞと動いている。ただ、ときおりその動きは早くなったり、円を描くようだったり、急に静止したりした。


 なぜここに自分がいるのかが分からず、10分以上店主の背中を見つめながら考え、やっと店で倒れたことを思い出した。



 ルビは居酒屋の2階の住居部分に運ばれて寝かされていた。客たちは「救急車呼んだ方がいい」と口をそろえていったが、店主はそれを拒んで2階で休ませると言い張った。 


 ルビが少し寝返りを打とうと体を動かすと、全身がふわふわと宙に浮いている感じがした。手だけには力が入るが、足や腰、お腹の辺りは脱力感と浮遊感が強く力が入らない状態だ。



(ここ何処だろう?)


 考えたがまったく思い出せない。

 自分に今かけられている毛布から男性の匂いを感じたので、もしかしたら、この店主に犯されたのかも?などとも考えたが、体の感覚からそれも違うことが分かった。


 そこで大きな背中をルビに向けているのは、おそらくあの怖い顔の店主に違いない。何か作業をしているのだろう。

 ルビは力を振り絞ってなんとか起き上がろうとモゾモゾしていると、背中のまま店主が声を発した。


「起きたか?」


 それは図太く低く響く声だった。迫力があったし言葉遣いも悪いが、怖さはまったく感じなかった。


「は、はい。あの、わたし……?」

 

 ルビはか細い声で店主の背中に答え、体を起こして敷かれた布団の上に正座した。

 店主はゴソゴソと何かを触り、近くにおいてあるポットを傾ける。

 すると部屋中にコーヒーの香りが立ち込め、それを嗅いだルビは毛穴が開く感じがした。


 店主は何も言わず、マグカップのコーヒーをルビに差し出し、「あ、すみません」と言ってルビは口をつけた。たくさん砂糖の入ったインスタントコーヒーだったが、全身がほぐれて開放感が得られた。しばらくすると体に生気が戻ったようになり、さらに少しハイな状態になっている。

 アルコールとその前に飲んだ向精神薬とが混ざっているのだろう。口の粘膜に感じる苦味が残っていた。



「ドラッグはダメだ。やめろ」


 なんの予兆もなく店主は背中を見せたままルビに言った。


(ド、ドラッグ?)


 ルビはなんのことだか分からなかった。



「あれは人間をダメにしちまう。すぐやめろ」


 ルビは、店主が自分の異常な酔い方を見抜いたことを理解した。


「あの、ドラッグというよりも……治療薬なんですが……?」


「眠剤とか抗うつ剤だろ!あれもドラッグだ!そこの女の精神科通ってんのか?」



 店主は少し語気を強めて言う。


「あの医者はここにもたまに飲みに来るけど、エステの話とかブランドもんの話とか海外旅行の話とかばっかりしてるぞ!ろくな医者じゃねえだろ。あのアマ。とにかくドラッグはやめろ!」



 睡眠薬の効き目のせいか、今飲んだコーヒーのせいか、ルビの体はふわふわと心地よい状態で、少し楽しい気分だった。店主の吐き出す言葉の端々が面白く、こっそりと笑った。



「あ~起きたんだ~飲みすぎたのね!フフッ」


 と後ろから女性の声がしてルビが驚いて振り向くと、そこには小柄で可愛い自分より少し年上らしい人が立って笑っている。


「ゆっくり休んでいっていいからね!お腹減ったら、うちの人に何か作ってもらってね!じゃあ、ショウゴさん、私ダイキの幼稚園あるから、先に帰るね」



 ルビはその女性が店主の奥さんで、ダイキという幼稚園の子供がいて、店主はショウゴという名前で、ここが店の2階で、そろそろ朝だということがすべて飲み込めた。


 店主は一切返答もリアクションもしなかったが、女性は私に目配せしながらニコニコと部屋を出て階段をドンドン音を立てて下りて行ってしまった。


 店主の奥さんのドシドシッという階段を降りる音に、ルビは生活感を感じた。自分が他人の家庭のど真ん中で醜態を晒していることに、居心地の悪さを感じている。

 そして、ルビはその女性がとても美しいと感じた。

 

 生活臭を漂わせているが、可愛くて天真爛漫で、影がなく、そして幸せそうに見えた。


(私もあんな女性になってみたい……)


 と、うつむいて大きくため息をもらす。

 そろそろ帰らなければならないと思い、ルビは店主の方に向き直り、そして何かに気づき大きく叫んだ。



***


「うわ!キレイ!」


 さっきは店主の大きな背中で見えなかったが、ルビの座っている位置がずれたことで、店主の前に置いてあるものが視界に入った。 


 そこには大きな紙があり、水彩画とも日本画とも言える桜の木が描かれていて、どうやらそれはこのゴツゴツとした男が描いたものだった。

 木と花びらと葉には輪郭線がなく、すべて色の濃淡で描かれているが、発色が素晴らしくそして緻密だ。

 

 まるで桜の花が飛び出してくるような迫力があり、しかも洗練されて品が漂っている。それは明らかにプロフェッショナルの作品であり、大きな病院やギャラリー、デパートに額に入れて掛けられていても何の遜色もないほどの完成度だった。


 ルビはまだ薬と酒の酔いが残っていて、さっきのコーヒーと何時間かぶりに口にしたタバコの影響で気分が高ぶっている。そしてつい、なんの脈略もなく言葉を発してしまった。



「おじさん!なんでヤクザなのに絵なんて描いてるんですか!?」


 口を滑らせてすぐにルビは(マズイ!)と思い訂正した。


「あの、ヤクザというか……男らしいというか……強そうというか……すみません!」



 店主は微動だにせず、また筆を走らせながら答えた。


「ヤクザはやめたんだ、子供ができたからな。今はこの店やりながら絵を描いてる」


(やっぱりヤクザだったんだ……)



 ヤクザが子供ができればやめるものだと初めて知った(子供がいるヤクザもいたと思うけど)。

疑問はあったが、それを店主に聞き出す勇気はなかった。

 店では気づかなかったが白いポロシャツの繊維の隙間から、薄っすらと入れ墨が入っているのが見て取れる。

 それを見たルビは、ブンブンと頭を立てに振り、一人でいろんなことを納得した。


 店主はボトル型の細いノズルが付いた水差しで絵の上を水で濡らし、そこに絵の具の付いた筆をつけると、一気に淡い青色が広がり鮮やかな背景が出来上がった。


「キレイ!!」


 ルビは思わず叫んだ。

「これは”にじみ”って技だ。水で絵の具を広げるんだ。素人ほど、このにじみをコントロールしようとする。上手い奴は”偶然できたにじみを利用”するんだ」

 店主のこの発言に、ルビは哲学的な何かを感じたが、深い意味を読み取ることはできない。


「お前でもピカソって絵描きのおっさん知ってるだろ?あのメチャクチャな凄い絵を書くおっさんよ」


(ピカソは知っているが「絵かきのおっさん」とは……しかも”メチャクチャな凄い絵”って褒めてるんだか、けなしてるんだか……)


「はい、知ってます」


「あのおっさんは良いこと言うんだよ。『絵は自分よりも大きい。私は絵を創造するのではなくて”発見”するのだ』だそうだ。あいつはヤクザになっても成功しただろうな」

 多分ピカソはヤクザにはならないが、たしかにその言葉がピカソのものなら、考えさせられるものがある、とルビは胸に浸透させられた。


「ところでお前何で飯食ってんだ?」


 ルビは申し訳なさそうに答えた。


「し、小説家です……」


「そうか、凄えな!最初に店に来たときから普通の人間じゃねえって思ってたんだよ。今度本持って来い」


「はい…」


 古くから日本人はヤクザ映画を好み、鶴田浩二や高倉健、菅原文太などをアイドルにしてきた。ルビはそういう世界を嫌悪していた。しかし、今目の前で、本物の元アウトローの所作と言動に触れるうち、昔の庶民たちが反社会分子に対して、なぜ憧憬の念を抱いたのかが少し分かるような気がした。

 粗野で荒々しい彼の言葉の根底に純粋さと正義、愛情のようなものが張り付いている。


「それと、お前は体が弱すぎる。ドラッグもすぐやめて酒もやめろ。最低1年は体から毒を抜くんだ。今度店に現れたらぶっ飛ばすからな」


「は、はい・・・」


 ルビは何故か、もう一度あの奥さんがうらやましくなった。


 店主は筆を置き、立ち上がった。

 ルビも今が帰るタイミングだと悟り、膝をコキっと鳴らしながら立ち上がり、歩き出す店主に続いた。

 さっき運ばれるときに夢で見た階段や廊下は現実のものだった。そこを逆行すると一度店に出て、店主がドアを開けた。


――外は白々と夜が開け、繁華街独特の朝の静けさと寂しさのようなものが押し寄せた。

 

 この道は何度も通っているが、全く別の姿を隠し持っていたことを知ると変な気分になる。



 ドアから出て外に立ったルビに向かって、店主は振り返り仁王立ちで腕組みし、言った。


「お前、”一番最低なヤクザ”ってどんな奴か分かるか?」


 突然の禅問答の始まりにルビは呆気に取られた。


「え、えっと……お金に汚い人とか、裏切る人とか、根性のない人とか、鈍くさい人とか……ですか?」


「全部ハズレだ!」


 店主は部活のコーチのような威厳をもって、ルビに不正解を伝えた。


「最低なヤクザは”恩を忘れる奴”だ。良くしてもらっても助けてもらっても、それぞれ生活も事情もあるからすぐには恩返しはできん。だけど、いつか返さなくてはいけないと、いつまでも思い続けることが大切なんだ。それを忘れた奴はヤクザとしても男としても終わりだ。そういう奴を”忘却の人”といって、任侠の世界では最低の男として見られるんだ。覚えとけ!」


「は、はい!」


 ルビは反射的に姿勢を正し、普段出さないような大きな声で返事した。返事はしたが、この店主がいったい何を言っているのかは全く理解できていない。


「よし、じゃあもう行け」


 と店主はくるりとドアの方に向き返り、中に入ろうとした。


「あ、ありがとうございました!」


 ルビは頭を深々と下げ、店主が見えなくなるのを確認してから駅に歩き出した。



 ルビは駅に向かう途中、今日の不思議な出来事の数々を思い出した。水彩画のにじみのこと、ピカソのこと、そして最後に店主がいった”忘却の人”のこと……。


(恩を忘れるなって、もしかしたら、今日助けてもらったことのことじゃないよね?いや、あの人は絶対にそんなことを言う人じゃない。そんなケチな人ではないはずだ……だったらどういう意味なんだろう?大体ヤクザの哲学を、なんで一般人の女の私が覚えておかなくちゃならないんだ?それに私はトラウマだらけで苦しんでるのよ!ちょっとくらい”忘却”したいわ!)


 店主のメッセージの意図するとことはまったく理解できないルビだったが、店主の何かを伝えようとする善意のようなものだけは何となく知ることができた。

 そして、それだけで十分な気がした。


 うだうだと同じことを考えている間に駅に到着し、ルビは電車に揺られた。


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