第8話 混乱2

 1週間経つと、ルビの身体に歪みとズレが現れた。


 眠りが極端に浅くなり、10分おきに目覚めてしまう。眠った実感がなく、日中神経が研ぎ澄まされたり突然落ち込んだりした。


不安感が常にあり、それは恐怖へと成長する……。


玄関の向こうの廊下を歩く足音が「部屋に入ってくるんじゃないか?」と妄想したり、7階の部屋の窓の向こうにいないはずの人の気配を感じたりした。


 全身の皮膚と筋肉の間に擦り傷があり、そこに塩をすり込まれたような痛みを感じる。食欲のまま食べ続け、酒も飲んでいないのに、それをトイレで吐いてしまうこともあった。開きっぱなしのノートパソコンには何日も触れていない。


 なんとか着替えてジョギングしようとするのだが、走る気力もなく、だらだら歩くようになった。

最初は花屋のミサとジョギング中に会うと「がんばれ!」と声をかけてくれていたが、ここ数日はコースを無意識に変えて花屋の前を通らなくなっていた。


 過去の母親や真美や家族の画像は日に日に鮮明になり、白昼夢に変化した。

そしてその白昼夢は一日のほとんどの時間ルビの視神経の中に住みつくようになる。


 最初は中学生の母親や真美を思い浮かべるとそれがエネルギーになったが、今では母と真美に懺悔することしかできなくなった。


「ごめん、私ダメかもしれない……」


 すでにルビはジョギングの爽快感を感じなくなり、部屋の外にいることに強い恐怖を感じてしまうようになった。ジョギングを中止して部屋に戻ると、1/3残っていたジンをコーヒーを飲んだ後の汚れたマグカップになみなみと入れて一気に飲み干す。


一瞬、体の辛さが吹き飛んだように思える……。


 ルビは買い込んである新しいジンを開け、グラスになみなみと入れて一気に飲み干した。アルコール独特の麻痺感がルビを救い、ベッドに倒れ込むと目を開けたまま夢を見た。



――夢には現実と妄想が入り混じり時間感覚が消失した。 


 真美との思い出の場面で、真美が母親に入れ替わっていたり、ルビがグラウンドで倒れている母を助けるソフトボール部の仲間だったり、父親が三浦だったり、山本と真美が実は姉妹だったり……。自分が砂漠を旅しているかと思うと、瞬きすると自分の部屋に戻っていたり、なぜかニューヨークでバスで売られているサンドイッチを買っていると、店員が居酒屋のプロレスラー店主で「ぶっ殺すぞ」と言われたりと支離滅裂が極まる。


 ルビは自分が笑っていることに気づいた……。



***


 その日から風呂にも入らず、ジンをひたすら飲み続けた。


 部屋中のあちこちで嘔吐し、それが乾いて異臭を発する。目が覚めるとトイレの便器に巻き付くように寝ていたこともある。いつ寝たか分からず、そしていつ起きたかも分からない。白昼夢なのか夢なのか、現実なのか幻覚なのかもはっきりしない。


 それでもたまに正気に戻る瞬間があった。


 頭がクリアなときには、テーブルに置きっぱなしになったセントジョーンズワートの箱を見ては「ごめんなさい」と母に詫びながら涙を流す。

 最後のジンが空になると、外に酒を買いに行くこともできなかった。外には殺し屋がいると妄想するときと、今は戦争中で敵兵が列をなしてパトロールし、市民を撃ち殺している光景が浮かぶときがあった。



――背中にこれまでにない強い悪寒を感じ、ルビは大声で叫んだ――!


「いやぁあぁあぁあぁ!!!!」


 しばらくの沈黙の後、壁に立てかけられた鏡に目をやると、髪が逆立ち頬に吐瀉物のあとをつけた湿疹だらけの青い顔の女が映し出されてた。


自分のものである鏡の中の顔はまるで他人のようで、妖怪やら地縛霊やら、そんなものに思えた。


 ルビは鏡を足で蹴って倒し、立ち上がって窓を開けた。


 久しぶりに触れた外気は生暖かく、そして空は青かったがルビには色は感じられなかった。

ルビは空調の室外機の上に足をかけ、ベランダの手すりを掴んだ。7階から国道を見ると、ぐにゃぐにゃと歪んで柔らかそうだった。



 室外機に乗せた足を片方手すりにかけると、なんだか時間が止まった気がし、音がすべて消え失せる――。





――ルビ、ごめんね――


 そのとき、あの母が言った謝罪の声が聞こえたような気がした……。


 その瞬間ルビは”こっちの世界”に生還した。


無音だった外の世界に車や風や室外機の回る音などが一気に鳴り始める。



 手すりからベランダの床に下りた。


 何も考えられない……。


 じっと立って国道を見ていたが、突然振り返って部屋に入り身支度を始める。




 エレベーターを下りマンションを出る。

タバコの自販機に小銭を入れて購入すると、箱を開けてタバコを咥え、火をつけて肺いっぱいに煙を吸い込んだ。


 そして、目の前を走るタクシーを止め精神科の住所を告げた。




 ルビは背中を丸めて膝のあたりまで顔を落とし、前後に揺れている。それを見たタクシー運転手は「大丈夫ですか?」と聞いてきた。


「はい……すみません、大丈夫です」


 運転手は「病院行きましょうか?」と続け、ルビが「その住所が病院です」と伝えると納得してまたルームミラーで後部座席をチラリと覗いた。


 運転手は何か世間話みたいなことを始めたが、ルビには宇宙人が喋っているようにしか聞こえなかった。


「●※△×◎"■▲※○……」


 甲高い宇宙人の声は病院に到着するまで鳴り響いていた。




――心療クリニックの待合室は暖房が強すぎて、少しめまいがする。


 診察室ではメガネの美人医師が「あれ?今回少し早いわね?何かありましたか?」と不思議そうに聞きながら聴診器を用意し、ルビは「来週は出張があるので…」とできるだけ平静を装い答える。


「お酒飲んでないですよね?ダメですよ。できればタバコも……」



 ルビははいはいと答えていたが、さっきの宇宙語と同様に何も聞いてはいなかった。

 病院で薬をもらい、エレベーターに乗り込むと、そのまま薬のシートをプチプチと押して数も数えずに抗不安薬と睡眠導入剤・抗うつ剤を大量に口に入れた。そのままガリガリ噛み砕き、エレベーターが止まるとビルの玄関にある自販機で缶コーヒーを買って飲み込み、胃袋に押し流した。



 精神科のあるビルを出て駅に向かって歩き、10分もすれば「薬の酔い」が腕と太もも辺りに感じられた。ゾワゾワとする。

 ルビは大きくため息をつき、道路の植え込みのレンガに座り込んでタバコを吸った。1分おきに薬の成分は全身に行き渡り、血管内を睡眠薬が流れていることが実感できる。


 立ち上がり駅に向かう途中いつもの居酒屋の前に差し掛かると、入るかどうか思案する。

 徐々に全身の筋肉がハイな状態になりだしたことと、苦痛から開放されたことで気が大きくなると、強くアルコールが欲求された。




――居酒屋は入ってまず奥のカウンターに行き、店主に注文する。

 あの体の大きい髭面の店主に芋焼酎のストレートと焼鳥、冷奴と浅漬を頼んだ。冷奴と浅漬、ビールだけそこでもらって、開いているスタンドテーブルに運び、まず焼酎に口をつける。


 久しぶりに口にするアルコールの喉越しと、冷奴の冷たさ、浅漬の味が染みるほど美味しく感じられる。あとから店主が持ってきた焼き鳥はさらにうまく、一口食べるたびに止まって味を深々と楽しんだ。

 店内には人はまばらで、数人のオジサンが飲んでいる。


 ここ数日飲み食いをしていないので、ルビは頼んだものだけでは足りず、次々と酒と料理を追加した。

 アルコールもしばらく開けるだけで酔い方がずいぶんと違う。いつになく、顔が火照って額に強い熱を感じる。店の中の各テーブルから聞こえる食器やグラスの音が遠くに聞こえるようだった。


(……?)


 ルビは、ふと何かに気づいた。


 さっき火を付けたタバコが冷奴の中に入っている???


 慌てて取り出そうとしたが、タバコを掴もうとするのが、あと数センチのところで手が止まってしまうのである。

 仕方なく焼き鳥の串を手にとって、タバコのフィルター部分に突き刺して取り出そうとしたが、やはり手前までしか行かない……。


 ルビの視界の中にはタバコの入った冷奴の皿しか存在しなくなった――。



 冷奴は大きく膨らみ始め呼吸をするように収縮を始め、タバコの吸い殻は緑色に光を放ち、芋虫のようにグニグニと動き始めた。

 それと同時に大きなプールの排水口が蓋を開け、そこに水が吸い寄せられて渦ができる。

 ルビはその渦の真ん中にいて、強く穴の中に吸い込まれる感じがした……。


『――!!』




***



「おお!おやじ!娘さん倒れてんぞ!早く!」

 店内のおじさん達が大騒ぎし、店主を呼んだ。


 ルビは膝から崩れ、その場に倒れ込んでいたのだった。

 ルビは頬にひんやりと冷たいものを感じたが、それが居酒屋の床だと気づかなかった。目の前に長靴やら革靴やら汚れたスニーカやらが右往左往している。ルビはその靴の集団を見たときに、安堵のため息をついて眠ってしまった。


 夢の中では酸っぱい臭いのする廊下や、急な階段や、硬い素材の白い衣服の感触などを感じた。

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