第11話 選択肢

 ルビはチャイムのなる音が聞こえてようやく、いつも以上に自分が寝てしまっていることに気づいたのだった。

 ドアを開けると宅配便の男性が小包をもってサインを求めてきた。少し頭痛もしたし、寝間着のジャージ姿だったので、サインをして荷物を受け取るとさっさとドアを閉めた。


――小包は三浦からのものだった。


中を開けると、見たことのある女性週刊誌で、赤い付箋が1枚挟んであった。付箋のページを開くと、そこには「連載小説」のブロックがある。一部分に青いマジックで「☆」マークがしてあった。


「……」


 ルビは目を疑い、少し気持ち悪くなった。


 そこには見覚えのある文章が掲載されている。

 それはあの日、三浦とコーヒーショップでテーブルペーパーの裏に書いた即興の文章だった。


「三浦さん……」


 ルビはあっけにとられ、しばらく思考が停止してしまった。

三浦はルビに断りもなく、あの落書きを”連載小説”として大手の人気週刊誌でスタートさせてしまったのだ。


『美しいNovel(ノーベル)/今田ルビ』


あの日三浦が口にしていた独り言のような言葉が、そのまま小説のタイトルになっていた。


『♪♪♪――♪♪♪!!』


 その瞬間、スマホの着信音が鳴り、それは三浦からのコールだった。


「あ~ルビちゃん!本見てくれた!不定期連載なんだけど、だいたい一月ペースでお願いね!!」


 電話の向こうはやたらと騒がしく、三浦以外の声も聞こえる。駅か喫茶店か、とにかく人の多いところからかけていることが分かる。


「三浦さ~ん!急すぎるわよ!」


「大丈夫だって!あの文章、ポテンシャル秘めてるよ!スランプから脱出したんじゃない?」


「……」



 ルビは怒りのために咄嗟に電話を切ってしまった。さらにスマホの電源を落とし、ソファーに放り投げた。


 ルビは三浦が憎らしく、もし今、目の前に彼がいたら怒鳴っていたかもしれない。


 ルビは三浦の自由気ままで、場の空気を読まない振る舞いは嫌いではなかったが、今回は「実害」を感じた。ルビは書けなくなっている自分に気づき、焦燥と不安と恐怖に取り憑かれた状態を1年も続けている。

 小説家にとって”書けない”ということは、ある意味”死”を意味することだった。読書と文章を書くこと以外何もなかった自分にとって、自分のアイデンティティの中から「作家」を差っ引いた状態を想像できないのだ。

そんな生死の境に、他人が介在してくると鬱陶しくてたまらない。


 ルビは小説家デビューしてから、いく度かこう想像したことがある。


(もし、小説家になれていなかったとしたら……)


 その想像は死を超越した「存在の消滅」を意味していた。


ルビはそのままイスに座り込み、何時間も動くことができなかった。三浦への腹立たしさは消え、何も考えられないようになった。



***


 ルビは、花屋の社長に認められ、人生をシフトチェンジさせたミサを羨ましく思った。そして、自分がなぜミサのようになれないのかが理解できなかった。

 時間を失ったルビは、部屋に差し込む陽の光がずいぶんと減り、部屋全体が影に包まれていることにも気づかない。


 力の入らない身体はだらんとうなだれ、目線は一点を見つめ凍ってしまった思考とともに固まってしまった。

 流れている時間に正確な認識ができず、何時間も経っているのか、あるいは5分くらいしか経っていないのかがはっきりしない……。


『♪~♪♪~~!!』


 ルビはすでに何に悩んでいたかも忘れ、なぜそこに座っているか理由すらはっきりしなかった。硬直した室内に響き渡るチャイムの音は、まるで身内の死を知らせる電報を受け取ったときのような不吉な予兆を感じた。


「三浦さんだわ」


 ぼそっとつぶやきながらルビは立ち上がり、玄関に向かう。鍵のレバーをひねりドアを押し出すと、半身を見ただけでそれが三浦だと確認できた。


「やあ、ルビちゃん。電話の電源切れてるよ」


 靴を脱ぎながら三浦はそう言った。


 三浦は部屋に上がると窓まで行き、そのまま窓を開けた。冷たい風が入ってきて肌を刺す。

三浦が開けた窓の向こうのベランダにある空調の室外機に、あの日そこから飛び降りようとした自分が映し出され、ルビは裸を見られたような恥ずかしさを感じる。生死の境を演じたベランダは穢れているようにも聖域のようにも思えたが、ズケズケとためらいもなくその窓を三浦が開けたことで洗浄されたようにも思えた。

うっすら狂気の笑みをたたえて身を乗り出し、柵から国道を見つめている自分自身の幻影が目に入り、背筋が冷たくなる。


ルビはキッチンに行き、三浦にコーヒーを入れるためにお湯を沸かしながら、もう一度彼の背中を振り返った。


(お母さんみたい)


 ルビがテーブルにコーヒーを置くと、外を感慨深げに見つめていた三浦が気づき、椅子に座る。そのタイミングを見計らってルビが口を開いた。その言葉は刺々しく鋭利で、唇からレーザー光線が出るように音声の粒子が走る。


「三浦さん、なんであんなことしたんですか?あの続きなんて書けないですよ。あんなの作品じゃない!」


 三浦はコーヒカップを口に付けたまま、ルビの言葉を最後まで聞いて、コーヒーをすすって立ち上がり、また窓のところまで歩いた。


「そうだ……ルビちゃんに前から言おうとしていたことがあったんだ。今、それを言っておくよ」


 三浦の会話にならない話の進め方にルビは少しイラつきを感じたが、それよりも三浦が言った”言いたかったこと”というのが気になった。

 三浦はまたテーブルに戻って座り、コーヒーを置いて両肘を立て指を組み合わせた。



***


「ルビちゃん……君のデビュー作、あれは”駄作”だよ」


 うつむき気味だったルビは驚いて首をもたげ、三浦の目を見た。三浦はいつになく真剣な眼差しで、その光の中には決意のようなものが浮かんでいる。

 批判をしない三浦が言った今の言葉は特別な価値を持ち、興奮気味のルビをおとなしくさせる効果は十分にあった。ルビはいたずらをして怒られる犬や猫のように小さく縮こまった。


 ”聞く姿勢”に変わったルビを確認し、三浦はゆったりと話し始める。


「新人賞に応募してきたルビちゃんの作品を推挙したのは、僕以外の選考員なんだ。僕は正直ピンとこなかった。あの作品はあの時に流行っているものを寄せ集めただけの模造品のような作品だと僕は感じたんだ。あの作品が3万部も売れた理由は、時代の潮流に乗れたからだ。というより意識的にルビちゃんがそうしたんだしね?あの処女作はあと3年もすれば古本屋のワゴンセールで叩き売りされるくらいの価値しかないと僕は思っている。ルビちゃんは小説を書いたと言うより、小説家の門をくくり抜けるために”テスト”を解答したんだ」


 自分では分かっているものの、それを他人の口から聞くことに耐え難い恥ずかしさを感じる。一気に体温が上がり、脇の下に冷たい汗が流れた。


「で、でも。三浦さんが私を気にいってくれて自ら担当になってくれたって……」


 まるでお母さんに問い詰められた子供が、もじもじと言い訳をするようにルビがつぶやく。


 三浦が続ける。


「ルビちゃんはあのとき、小説家になりたかったんだよ。だから模範解答として、売れる小説の要素をリサーチしてあの作品を作り込んだ。でも、そこには”ミス”をいくつか残している、筆が走ったんだろうね。ルビちゃんの”本質”が何個かフレーズとして書き込まれていた。僕が希望を持ったのはそこだよ。前に言ったことがあるよね?僕は音楽はライブバージョンが好きで、雑多な音の中に光るスペシャルプレイに感動するんだよ。ルビちゃんのポロッと出てしまった手癖に僕は希望を見出したんだ」


 ルビは確かに小説家になるために小説を書いた。それはまったく三浦が言ったままだった。ルビは高校時代に真美と決別してから自分の殻に閉じこもり、すべての問題を小説家になることで解決しようとしていた。自分の才能を悪用したのだ。だから出版社というフィルターをかいくぐるため、傾向と対策をリサーチしてまんまと小説家になることができたのだった。


「ルビちゃんが2作目を書いたとき、会社のみんなはがっかりしていたよ。あれは決して売れるタイプの小説じゃなかったからね。でも僕は2作目で自分の予想が正しいことが分かった。そして3作目で確信に変わったんだ。本物の作家が持つ凄みを感じたんだよ。まだまだ荒削りだけど、あの2つの作品こそルビちゃんそのものだ」


 三浦が明かす自分への思いは、ルビ自身が考えていたものよりも深く緻密だった。

 そして、世間にも出版社にもまったく認められなかった2作目と3作目を、三浦がそんなふうに思っていたことに驚かされた。


 三浦がさらに付け加えた。


「さっき駄作といったけど、あれはあれで必要だったんだろう……。作品を読んでないけど、多分君と亡くなったお父さんの違いはそこにある。お父さんは自分の”本質”だけを書き続けて出版社のハードルを超えられなかったけど、ルビちゃんはハードルを先に超えたんだ」


 ルビは自分の中の根源的などこかに刺激を受けたが、どうすることもできずにただ呆然とした。三浦はまたテーブルから立ち上がり、そしてまた窓の方に行ってから言葉を続けた。


「残念ながら……ルビちゃんは小説家にしかなれないよ。他の選択肢はない。人間そんなもんなんだよ。それぞれの天職以外を目指すとろくなことはない。努力次第でなんにでもなれるというのは幻想だよ。君は残念ながら小説家にしかなれない。君は努力をして作家になったんじゃないんだ……。ここに追いやられたんだよ」



 人が死ぬ前には、過去の記憶がスライドショーとなって蘇るというが、ルビの脳は今そのシステムを起動させている。ルビは多くの選択肢の中から今の生活を手にしたと思っていたが、三浦の言うとおり、自分が現在の場所に”漂着”したのであれば、すべてが納得がいく。この間の夜、ミサが言った”天職”という言葉がまたここでも現れた。もし仮に自分にとって作家という仕事が天職だとしたら、プロになるために穢してしまったような気もした。父は貧乏にも周囲の悪評にもめげずその道をまっとうしたが、自分は逃げてしまったんじゃないだろうか、とも考えた。父が生きていて自分のデビュー作を読んだら、きっと三浦のように『駄作だ』と言ったに違いない。失われた”純粋”は取り返すことができるのだろうか?ルビは自問自答をしたが、子供の頃に文章を書いていたときの感覚が取り戻せない。頑張らなくても、書こうとしなくても昔は書けた。ご飯を食べていても、歩いていてもテレビを見ていても他人と会話をしているときでも頭の中に文章が自動的に並べられ物語が夢のようにあふれていた。どうやってそんな離れ業ができたのか、今では思いつかない。昔観たジブリ映画の『魔女の宅急便』で主人公の魔女が、ある日突然ほうきで空を飛べなくなったシーンを思い出した。自分も飛ぶ感覚を失ってしまったのだろうか?何度も子供の頃の感覚の記憶を呼び起こそうとしたが、甦らせることはできなかった。


 ルビは放心状態のまま、三浦の背中に向かって弱々しい声を投げかけた。



「三浦さん……小説ってどうやって書くの?私、忘れちゃったみたい……」


 三浦は一瞬言葉を失ったが、何かを思い立ち椅子に座ったルビの方にやって来て言った。


「行こう、ルビちゃん、外に出る用意して!」


「え?どこに行くんですか?」


「いいから、早く!」


 ルビは言われるがままに身支度を整える。三浦には先に車に戻ってもらい、急いでシャワーをして目についた服をひっつかんで着て、小走りで玄関に向かいルームキーを手に取った。



 外はすっかり日が落ちていた。



***


――三浦は無言で車を走らせた。

周囲のどの車も明かりを灯し、夜の道路はテールライトだらけでまぶしかった。後部座席に座ったルビは救出された遭難した人の気分で、自分の大切なものをすべて他人に託す決意があった。ハイブリッドカーの滑るような加速から伝わる心地よい振動と、エアコンで暖められた車内の空気は、研ぎ澄まされて痛みすら感じるルビの体の感覚をやんわりと包んだ。どちらも口を開くことはなかったが、無言の空間に居心地の良さを感じるルビだった。


車は駅前デパートのそばにあるいつも2人が合うコーヒーショップの近くのコインパーキングに到着し、2人は車を降りて歩き出した。それぞれにコーヒーを頼み喫煙できる外の席についた。三浦は持っていたカバンからA4のコピー用紙を数枚テーブルの上に置くと、ペンを取り出してルビに差し向ける。


「さあ、ルビちゃん、続きを……」


「またここで書くんですか?パソコン無いし調べ物もしづらいですよ、ここじゃ……」



 ルビの言葉を遮るように三浦が言う。


「ルビちゃん、何も調べる必要はないよ。頭の中にあるものを自動的に書くんだ。”不純物”が入らないようにね」


 ルビは少し戸惑ったが、言われるままにペン先を紙に置いてみた。すると、この間ここで書いた続きが嘘のように文字になり、一行また一行と加速した。

 意識できる思考回路は働いていないように感じる。ルビはただただ自動的にペンを走らせた。

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