【6号車】虚構の国(その1)~「完璧世界への意志」

【10】

 未来を素朴に夢見ていた少年はいつしか大人となり、現実を冷めた目で見るような大人になった。――そして、ありふれた虚しさの果てに――彼は「自分がそのために生き、そのために死ねるような真理」を探し求める求道者となったのだった。


「ニヒリズム研究」から「イデアと実存」の探求へと進んでいる間に、すでに10年の歳月が経過していた。この10年の間ですっかり浮世離れしてしまった、もやし君。彼は真理の探求者となって、そんなことをしているうちに、彼は今や「金にも女にも縁のない哀れな中年男」に成り果ててしまったのだった。

 もし彼の精神が今もなお「世俗的な価値観」に支配されたままであったなら、おそらく彼は、今の己の境遇を大変に惨めなものだと考えていただろう。しかし彼は啓蒙と覚醒の過程を経て今や「世俗的な価値観」を相対化し、それとは距離を置ける立場の人間となり、そしてそれが彼のスタンス、彼の哲学、彼の美学となった。


 一方、「世俗的な価値観」を絶対的な価値基準だと盲信・盲従し、を振りかざしては自主的な少数者の迫害にいそしむような、凡庸にして愚鈍な大衆人というのも世の中にはいるものだ。なお、ここで注意しておきたいのは、ここで言う「大衆」とは「一般大衆」や「大衆文化」などのいわゆる「庶民」を意味するものではなく、社会学や政治学の文脈で定義されている狭義のそれである。  

 この意味で使われる「大衆」については「匿名的で没個性的、感情的で理性に欠け、煽動されやすく、歴史的・政治的に見れば、かつて全体主義の温床ともなった」といった、かなりネガティブなイメージであり、この「大衆」の定義は同じく社会学や政治学で定義されている(危機管理の対象としての)「群衆」のニュアンスを含み、理性や合理的判断力を備えた「公衆」や「市民」とは対義的な立場となる。さらに付言すれば、この手の人間類型に内在している本当の恐ろしさというのは、弱者のルサンチマン(怨念)が、やがては市民社会の自由と平和に対する脅威へと悪魔化してしまうことにある。また、このような事態は、われわれにとって大変に身近な黒魔術であるとも言えるだろう。


 ここに示した「大衆人」の主張というのは反内省的で、内容は平板で何の含蓄もなく、陰湿にして至って攻撃的であり、それはもはや、単に自己満足を得るためだけの暴力装置に過ぎなかった。彼らはヒトの姿をしてはいるが、中身は未だ畜群にとどまったままで、未だ人間には成りきれていないのであった。さらに付け加えると、強者に対してはドMであるにもかかわらず弱者に対してはドSな態度をとりがちなのも、彼らの特徴をよく表していると言える。

 もちろん世の中の人間のすべてがそうだというわけではなくて、これはあくまでも人間の性格類型の一側面に対して言えることであり、むしろ通常において人々の多くは人情を解することのできる良心的で常識的な人たちだ。しかしながら、もやし君の身の回りでも「畜群的大衆人」に該当しそうな事例がいくつか観察されるようなことがあった。これもまた紛れもない事実であった。それは、ある時は家庭内に、あるいは職場内に、彼の日常の生活空間において点々と分布していた。


 もやし君は人生を遍歴していく中で、いつしか自由と平和をたっとぶ身となり、人と争うことを好まなくなった。無知で粗暴な畜群に対しては鞭を用いて調教するのはかえって逆効果で、――なぜなら力技で相手を屈服させたとしても、それは新たな暴力の萌芽となるだけで、そういった負のスパイラルへと誘導する無限ループは常に新たな疲弊を生じさせるだけで、それはもはや生命の自然や真理に適っているとは言えない――そうした野蛮な連中に対しては、もやし君は次の標語を適用するよう努めるのだった。

   

         「愛せない場合は通り過ぎよ。」(ニーチェ)


 ところで、ここで言及した「大衆人」について歴史的に見ると、大衆社会が台頭することになったのは1920年頃とされている。ドイツの実存哲学の第一人者であったカール・ヤスパース(1883~1969)は、このような時代の現象に対して大変に危機感を抱いていたという。彼は著書の中で、(ネガティブな意味での)「大衆人」の姿を次のように描いた。


 ……私は、何らか一般的であるような人間の像を思い描く。その人間像は、これを容認しようとしまいと、とにかく私に、社会的現存在という一般的なものを媒介として、私がかれと交渉する仕方に対する理由を、与えてくれる。すなわち、その人間像によれば、人間は、子供から大人になり、労働する。だがそれも笞とパンによって駆り立てられてである。そして、自由に放任されると、怠惰で享楽的である。そうした人間の現存在は、食うこと、交合すること、眠ることであり、これらのものが不十分な程度にしかできないときには、その現存在はみじめなものとなる。


 ……かれは、機械的な、習い覚えられる労働以外のことをする能がない。かれは習慣に支配され、さらにはかれの仲間の間で共通の意見と認められるものに支配される。かつまた、かれを支配するものは、かれの不足した自己意識の埋め合わせを求める権勢欲である。かれの意志と行動の偶然性において、運命に対するかれの無能力が顕わになる。過去のものは、迅速に、どうでもいいものとして、かれから逃げ去る。かれの予想は、最も手近なものと極めて大ざっぱなものにしか及ばない。かれは自分の生活を深く知らず、心得ているのは在り来たりの日常事だけである。かれの魂をすみずみまで霊気あるようにする信仰は何もなく、かれにとっては、盲目的な現存在欲と幸福を求める空虚な衝動との他には、何ひとつとして無条件的なものはない。


 ……かれが機械労働をしているにせよ、あるいは科学的作業に協働しているにせよ、またかれが命令するにせよ、あるいは服従するにせよ、またかれがどこまで食いつないでゆけるか分からずに不安がっているにせよ、あるいはかれの生活が安定しているように見えるにせよ、とにかく依然としてかれの本質は同じである。諸々の状況や偶然的な傾向によってあちこちとゆすぶられて、絶えずかれは、自分と同様な者たちの近くにいようとする衝動に駆られているにすぎない。共同体の内に基礎をおいた持続性ももたず、人間同士の間の信義も欠いて、かれは、実体的な存在に重心をおく生活の進路がないその日暮らし的な人間としてとどまる。

  

  ――ヤスパース 草薙正夫 , 信太正三 訳『実存開明 哲学Ⅱ』(創文社)より――


 ヤスパースの実存哲学では、人間とは「現存在」から「可能的実存」の過程を経て「実存」へと覚醒していく存在なのだと言う。そうして本来の自己を取り戻すことによって、他人と取り換えることのできない、かけがえのない唯一性・一回性の自己、学術的な一般論の学説へと簡単に還元されてしまうことができないような、本来あるべき人間の存在へと人々は目覚めていかなければならない。――実存哲学の立場からある種の覚醒教とも言えるような思索を世に問うた。ヤスパースはこうしたスタンスで以って、彼独自の深遠にして濃厚な哲学の体系を展開したのだった。


    「人間であることは人間となることであります。」(ヤスパース)


 しかし当時の大衆社会の状況は、ヤスパースの抱いた危機感をさらに通り越して、不幸にも弱者のルサンチマンと悪の天才が結託する機会を提供するといった甚だしく深刻な事態にまで発展してしまい、人類史上 類稀たぐいまれなる巨大な悪が誕生する機会すら与えてしまったのだった。そして狂信者の独裁の下、歴史上かつて例を見ないような大規模な殺戮と破壊活動が官僚的命令によって冷酷に淡々と実行された。

 ナチスの政権下では、ヤスパースは大変に辛い苦難に遭遇することとなった。次の記述は、白取春彦の『この一冊で「哲学」がわかる!』(三笠書房)からヤスパースに関する人物紹介の一部を引用したものである。


 ……ドイツのオルデンブルクに生まれる。ハイデルベルク大学で精神病理学と心理学を講義し、やがて哲学教授に転じるが、ナチスによって教壇から追われる。戦後はスイスのバーゼル大学で教授を務める。ヤスパースはプロテスタントであったが、カトリックの影響を多く受けている。


 ……主な著書に『哲学』『世界観の心理学』『現代の精神的状況』など多数。    

        

 ……ハイデッガーはナチスに「加担」したが、ヤスパースはナチスに対しては鈍感だった。鈍感だったから無思慮に加担したのではなく、彼はドイツ国民を信用していたし、ナチスは一過性の嵐のようなものであると看過していたのだ。

 やがて1935年春までに、ナチスはほぼ全大学に浸透し、多くの学者が解雇されていった。そして、ナチスの手はヤスパースにも迫り、1937年夏にハイデルベルク大学の教授職を罷免されることになる。理由は妻がユダヤ人だったからである。


 ……その頃、時世に敏感な学者や芸術家らはとっくにアメリカなどに亡命していた。ヤスパースは対処が遅かったのである。ヤスパース夫妻を救おうと各国から招聘しょうへいの努力が行なわれるが、どれもうまくいかない。

                (中略)

 ……ナチスから非国民とハンコを押されることは、確実な死の脅威にさらされることだった。しかし、ヤスパースは妻と離婚すれば、この脅威から逃れられるのである。同様のことは、ヤスパース夫妻だけでなく、当時の多くのドイツ人夫妻にも起こっていた。


 ……この頃の逼迫ひっぱくした状況でのヤスパースの日記は痛ましく、かつ彼の品性の高さに満ちている。


 ……恐怖に震えながら自殺を考え、内なる声を待ち望み、なお哲学的真理に触れることを望んでいるのである。そして、枕許には青酸カリが置いてあった。


 ……世界に死が満ちている中で、ヤスパースは震えているだけではなかった。研究を続行したのである。60歳の誕生日には思いがけなく日本の教授らから祝電が寄せられた。これはことのほか嬉しかったと彼は述懐している。


 ……1945年、夫妻の収容所送りが決定された。だが、その予定日の約2週間前に米軍がハイデルベルクを占領し、ヤスパース夫妻は危機を逃れることができたのだった。

                 (中略)

 人の命は意味を持たなければならない。ヤスパースは友人への手紙にそう書いた。

      

      ――白取春彦『この一冊で「哲学」がわかる!』(三笠書房)より――

 

 もやし君は物心のついた頃から、いわゆる「普通の人」とか「まともな人」と呼ばれている人たちとは少しばかり感覚がズレていて、集団行動にも積極的には馴染めなかった類の人種で、そのためなのか、個人を一人の個人として尊重すべきであるとする「個人主義」の概念については割合に早い時期から目覚めていた。とはいえ、結局は「普通の人」にもなれなかったような彼ではあったが。

 さて、ヤスパースの実存哲学についての深い理解は、もやし君の頭脳では到底無理な話ではあったものの、この(日本ではそれほど知られていないようではあるが、)20世紀におけるドイツの偉大な哲学者が行った主張の基本的な内容や彼の生涯などについては大いに共感し尊敬するものがあった。ヤスパースは、もやし君にとって「人生の偉大な教師」たちの中の一人となった。

 こうして、「ニヒリズム研究」を通じてヤスパースの著作にも親しむようになっていったもやし君であったものの、ヤスパースがそこで描いた「大衆人」の一般像は、もやし君にとっても決して他人事であるとは言えず、それはあたかも鏡に映った自分自身の姿を見ているようでもあった。これは人間観察と自己理解のための良質なテキストになったと言ってもよいだろう。


 凡庸な大衆人、卑小で利己的な俗物、結局は「普通の人々」の仲間入りすら果たせなかったただの愚か者。――もやし君は、そうした自分自身の姿ついてよく自覚していた。しかしそれに居直ってしまうことに対しては、なぜだか本能的に心がとがめるのだった。かといって、それを自らの意志の力、すなわち自力のみに頼って克服していくのは、彼にはとうてい不可能なことのようにも思われた。

 やはり自分も一介の凡夫にすぎない――そういった自己が徹底的に自覚された時、それは同時に「自力」の限界性を示すものでもあるが、自らの内面的な限界について悟るまでに至ったこのような自己に対しては、ここで「。――果たして、このことがすべての人にも当てはまることなのかどうか、一般化されうる性質のものなのかどうか、それは分からない。それは個々人の実存に関わる問題である。ただ、もやし君の場合は結局のところ、そういうことになってしまった。(なお、この話題については、章を変えて延々と語ることになるだろう。)


 そういうわけで、彼の内面では「世俗的な幸福主義」と「イデアと実存」の探求の両者が絶えず葛藤している。彼は自分が常にそうした状況に置かれていることをヒリヒリと、そしてひしひしと実感するのだった。そんなもやし君は『老子』第二十章の記述を大変に好んだ。


        「と相い去ること幾何いくばくぞ」(孤独の歌)

 【書き下し文】

 ……(学を絶てば憂い無し。)と相い去ること幾何いくばくぞ。美と悪と相い去ること何若いかんぞ。人のおそるるところ、畏れざるべからざるも、こう(芒)として其れ未だ(尽)きざるかな。


 衆人は熙熙ききとして、大牢たいろうくるが如く、春にうてなに登るが如し。我れは独りはくとして其れ未だきざさず、嬰児の未だわら(咳)わざるが如し。纝纝るいるいとして帰する所なきが若し。衆人は皆余り有るに、しかるに我れは独りうしなえるが若し。我れは愚人の心なるかな、沌沌とんとんたり。


 俗人は昭昭しょうしょうたり、我れは昏昏こんこんたり。俗人は察察さつさつたり、我れは独り悶悶もんもんたり。たんとして其れ海の若く、りゅうとしてとどまるなきが若し。衆人は皆以もち(用)うる有り、而るに我れは独り頑固がんにしてなり。我れは独り人に異なり、而して母にやしな(養)わるるをたっとぶ。


 【現代語訳】

 ……学ぶことをすっかりやめたなら、思いわずらうこともなくなるのだ。―「はい」というのと「ああ」と答えるのと、どれほどのへだたりがあるだろう。美しいといったり醜いといったり、それもまたどれほどのへだたりがあるだろう。人びとの慎むところは、こちらも慎まないわけにはいかないが、さても茫漠ぼんやりとしたひろがりで、どこまで慎んだらよいのか果てしもないことだ。


 多くの人はうきうきと楽しそうにして、まるで大ごちそうを受けているようだ、まるで春の日に高台から見はらしているようだ。わたしだけはひとり、ひっそりと静まりかえってなんの動く気配もみせず、まだ笑うこともできない赤ん坊のようだ。ぐったりとしおれてまるで身のおきどころもないようだ。多くの人はだれもがあり余るほどもっているのに、わたしだけはひとり、何もかも失ってしまったかのようだ。さてもわたしは愚かものの心だよ、にぶくてはっきりしないのだ。


 世俗の人びとはきらきらと輝いているが、わたしだけはひとりぼんやりと暗い。世俗の人びとは利口ではっきりしているが、わたしだけはひとりもやもやしている。ゆらゆらとまるで海原のようにたゆたい、ひゅうひゅうとまるで止まない風のようにそよぐ。多くの人びとはだれもがそれぞれ何かの役にたつのに、わたしだけはひとり融通のきかない能なしだ。わたしだけはひとり、他人とは違っている、そして、母なる根本の「道」に養われることをたいせつにしているのだ。


               ――『老子』金谷 治(講談社学術文庫)より――


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 2010年あたりに不慮の出来事から、もやし君はY市の実家に戻ることとなった。そして、それからさらに10年ほどの歳月が流れた。実家には年老いた母と兄とその息子とが同居していた。父親は数年前にすでに他界していた。兄の嫁は、子供がまだ幼い頃に、他の男に浮気して蒸発してしまった。両親の援助で開店した兄の居酒屋は10年も続かずに廃業した。もやし君の実家は、Y市でも最も古い昔ながらの商店街の中にあって、そこで自営業を営んでいた。父亡き後は兄がその店を継いだものの、時代の趨勢と兄自身の才覚のためか、商売の方はさっぱりだった。


 兄は家で商売をするよりは、外に出てアルバイトでもしていた方が、そっちの方がよほど稼ぎにはなるのだが、それはどうも頑なに拒んでいるようであった。この兄は偏差値50に届かない公立の工業高校のスベり止めに受験するような私立の工業高校を卒業した後、実家を離れたり戻ったりして職を転々としながら、やがて現在へと至るのだった。兄は決して悪人というわけではなかったが、見栄っ張りでずる賢く、人間としての誠実さに欠けるようなところが多々あった。その長い人生の中で心無い、あるいは悪意を持った他者によって軽く見られたり、邪険に扱われたり、騙されたりしたことも少なからずあったのだろう。社会に出ることを積極的に拒むのはそのためなのだろうか? もやし君はそのように推測した。

 そして兄の息子(もやし君から見れば甥っ子となるのだが)、この甥もそれほど頭の良い方ではなく、では性格的にどうかと言えば、感情の沸点が低く、些細なことで逆ギレしやすい気性の持ち主で、また一人暮らしの経験もなく独立不羈の気概に欠けていた。

「頭の方が多少悪かろうが、せめて人並みの優しさや思いやりの心くらいは持っていてほしい」と、もやし君はすでに成人して大人になった甥っ子に対して、そのように願うのであるが、少なくとも家庭内における彼の振舞いを見ている限りでは、そのへんもどうも怪しいように思われた。彼の職歴は非正規雇用の工場労働者のみで、すでに30歳になっていた。 

 もやし君は、かつては甥とは仲が良かったのだが、しかし彼は25歳を過ぎたあたりになると、もやし君に対していろいろと生意気な態度を取ってくるようになった。それで二人は今となっては口をきくこともほとんどなく、同居しながら互いに疎遠な関係となっていた。


 さて、もやし君と兄と甥と3人で協力して、年老いた母親を扶養しつつ家計を維持していかなければならないのだが、兄は先に述べたとおりなのであった。

 もやし君はこの時には、派遣従業員として地元の工場で労働者をやっていた。手取りにして月14~15万円ほどの給料を稼いで、そのうち6万円ほどを家に入れていた。その残りからケータイ代や税金を支払って、さらにその残りを食費や自分の小遣いに充てていた。なお、銀行のカードローンに30~40万円ほどの借金はあったが貯金はなかった。

 甥の方は、給料についてはもやし君とはそれほど大きく変わらないはずなのだが、家に入れるのはわずか1万2千円だけだった。もやし君は、家計の運営にさほど協力的ではない、甲斐性なしの甥に対して業を煮やしていた。「社会人になって一人前の自立した大人で、しかも実家暮らしの身分ときた。だったら、せめて月に3~4万円は家に入れてやるべきだろう」というのがもやし君の考えであったが、もやし君自身の過去について思い返すと、甥にはあまりきつくは言えないのだった。しかし、もしこの家がいよいよダメになってしまった場合は、その時は、このバカ親子のせいだと思った。


 もやし君の家族には、どうも「人間的な愛情」というものが概して希薄なようであった。言い換えれば愛する能力が不全であるように思われた。特に母親については、女性らしい優しさはそれなり持ち合わせていたのかも知れないが、その一方でかなりエゴイズムのきつい人であった。兄も甥も共に「下心や打算のない思いやり」などとは疎遠な人種なのかもしれない。それはまた、もやし君自身にも言えることでもあったが、彼は少なくとも己のエゴイズムに対する自覚だけはあった。自らが凡夫であることの自覚はあった。

 そうは言っても、なるほど母親はエゴイズムのきつい人ではあったが、それでも今は亡き父とともに彼らの子供たちを、そして孫までも育て上げてきたのだった。あの当時、両親が子どもたちに対して安全で安心できる環境を作りだすためにどれほど尽力していたのか。――今、自分がそのような立場になってみて、そのことをつくづくと痛感させられた。

 

 金にも女にも縁のない、まったく冴えない、ただの哀れな中年男になり果ててしまった現在のもやし君は、先にも述べたとおり家に毎月最低でも6万円は入れているのだが、水光熱費や通信費など、この家の生活の基本を維持するための毎月の支払にかかる大部分については、結局のところ、もやし君が引き受けているのであった。甥が家に毎月入れている1万2千円は母親(甥から見れば祖母)の生活費に充てられた。 

 また兄の商売については、もやし君は詳しい事情は分からないとしても、慢性的に苦境に立たされているのであろうことは見た目にも明らかなことであった。兄は家計の援助者としてはほとんど期待できそうな状態ではなかったが、しかし家屋の簡単な修繕や洗濯機の修理など、そういった場面では少しは頼りになるところはあった。


 父はすでに他界し、母はかなりの高齢者で、兄もそろそろ還暦を迎えるくらいの齢となって、もやし君も今や中高年のおっさんとなってしまった。甥は家に毎月入れる金額からして、30になってもこの家の世話になっている方の立場だ。彼が本格的に自立しようと努力している様子は今のところ見受けられない。

 家族への依存から離れて自力で日常生活の全般を運営してみて、一人暮らしがどういうものなのか、せめて1度はそういった人生経験を積んでみるべきだと、もやし君は甥に対して常々そのように思うのであるが、その一方で「彼が家を出て行く気がないのなら、だったら自分の方が出て行きたい」――実を言えば、もやし君自身の本音としては、むしろこっちの気持ちの方が優勢にあるようだ。


 もやし君は睡眠中に同じ夢を繰り返し見る。その内容は一人暮らしを再開するというもので、新生活再開の舞台となるのはいつも――かつての実存的空虚や放蕩、多重債務者、「ニヒリズム」研究、零落などの諸々の体験によって彼にとっては愛憎の念が複雑に入り混じった街――関西の大都市・K市であった。

 その夢はどちらかというと楽しいものではなくて、いつも全体に孤独と不安の調子を帯びていた。それでいて暗い感じでもなかった。ただ単にすべてが虚ろだった。

 それに関してまた不思議に思われるのは、その昔、関西の大都市・K市に住んでいた頃は、地元であるY市の自宅からほど近いアーケードの商店街が舞台になることが度々あった。夢の中に現れたアーケード通りは、もやし君が少年だった時からすると順調に右肩上がりの発展を遂げていて、ずいぶんと繁華な商店街に成長した姿となっていたが、現実世界に実在しているその商店街というのは、実際には衰退の一途をたどって、何とも寂れたシャッター通りと化していたのだった。

――彼の心象風景はいつも〈今・ここ〉ではない何処どこかを映し出していた。


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    「三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。」


 もやし君は、遥か昔の高校生だった頃の漢文の時間ではなく、すでに社会人となってから、とあるブログ記事によって、孔子『論語』の「為政」という篇にこのような記述があることを知った。この文章は解釈次第では、もやし君の人生にも心当たりがあるように思われた。

 30歳あたりで「世俗的な幸福主義」に対して神経症に罹ってしまうほどの病的な懐疑を抱くこととなって、そこから「ニヒリズム研究」を開始した。40代に入ってから「イデアと実存」の探求者という人生のスタンスを確立しつつも、その一方で、普通にまともな社会人を続けていくことは自分にはもはや無理だと悟るようになった。

 才能の有無やその道で食っていけるかどうか、そこはひとまず措いとくとしよう。それで人為的な思惑をできる限り排除して自然の必然に素直に従うのであれば、そういった人種は、哲学者や宗教家、あるいは芸術家にでもなるのが、それが無為自然な在り方であり、天命というものだ。もやし君は己の半生を顧みて、そこにあった思いを煮詰めていったその果てに、そのような確信に至ったのだった。

 人生の残された時間を「自分がそのために生き、そのために死ねるような真理」の探求に捧げる。――「世俗的な幸福主義」の立場からすれば、これは人生を棒に振ってしまうにも等しい愚かな行為だと言えるかもしれない。しかし「イデアと実存」の立場にとっては、これこそが彼の生きる意味や価値の源泉となり得るものなのだ。


 ところで「ニヒリズム研究」の途上においては、もやし君は「人生の偉大な教師」と呼ぶに相応しいさまざまな尊敬すべき人物に出会った。特にキルケゴール(1813~1855)とニーチェ(1844~1900)は、もやし君の人生観の変革にとって多大なる影響を与えたのだった。

 キルケゴールはキリスト教の宗教家で、哲学的な思索を著作に遺した。ニーチェは学者(歴史学)くずれの在野の哲学者で、両者とも西洋哲学史の分野では欠かすことのできない存在である。現在ではどちらも後世に偉大な業績を遺してくれた人生の偉大な教師たちではあるものの、生前の当時の彼らは、彼らの著作では食って行けなかったのだった。彼らの思想は時代精神の半世紀ほど先の地点に立っていた。

 ちなみに、キルケゴールは彼の人生の最期になるまで父の莫大な遺産に寄食していたという。一方、ニーチェには重度の眼病があって、それで障害年金を受給することができた。つまり年金で生計を立てる年金生活者なのであった。

 さて、もやし君が尊敬する「人生の偉大な教師たち」の中にはフランツ・カフカ(1883~1924)も入っていた。カフカは、現在では20世紀の文学を代表する作家の一人とも言える存在となっているが、彼の功績が世界中で認知されるようになったのは彼の死後になってからのことだった。生前の彼は作家としてデビューはしていたものの、サラリーマン勤めの傍ら執筆活動にいそしむというスタイルだった。そのような生活を続けていたために体に無理がたたって、ついには結核を患ってしまい、41歳になる1か月前に病死してしまった。

 おそらくカフカは「世俗的な幸福主義」とは縁の薄い人で「イデアと実存」探求の人生を全うした人、すなわちキルケゴールの言う「自分がそのために生き、そのために死ねるような真理」を生涯かけて探求し続けた人物だったのではないか。もやし君はそのように解釈するのだった。また、もやし君がカフカに対して大変に親しみを覚えるようになったのは、とあるカフカの名言集&解説本にあった次の記述によるものだった。これはまるで他人事とは思えなくて、ただただ共鳴するばかりであった。


 ……彼は何事にも成功しません。失敗から何も学ばず、つねに失敗し続けます。

   彼は生きている間、作家としては認められず、普通のサラリーマンでした。

  そのサラリーマンとしての仕事がイヤで仕方ありませんでした。でも生活のため 

  に辞められませんでした。

  

     ――カフカ 頭木弘樹 編訳『絶望名人カフカの人生論』(新潮文庫)――


 この名言集&解説本によれば、カフカは日記にこんなことを書いていたそうだ。


 ……ぼくの仕事が長くかかること、

   またその特別の性質からして、

   文学では食べてゆけないでしょう。


 さて、もやし君は「哲学者と宗教家と芸術家を兼業するような仕事」を自らの天職と本気で考えるようになって、その具体的な事業として、彼は某ブログの投稿サイトに自らのアカウントを立ち上げ、記事を作って投稿・発信するようになった。ここでの記事は、これまでの「ニヒリズム研究」で得た知識を述べる機会となった。また、年月の経過とともに投稿した記事の本数も徐々に増えていき、次に新規の事業として小説らしき作品の執筆に着手する段階になると、それらの過去記事は今度はネタ帳として利用できた。

 これは持論なのだが、関心・観察・記録の3Kがしっかりしていれば、それなりに内容のある文章は書けるはずだ。しかし、それが果たして人々に読まれるに値するものなのかどうかは、それはまた別の話なのだと思う。文筆で生計を立てられるような人は、やはりどこかスゴいのだと思う。

 もやし君は人生に何か思うところがあって、それが動機となって文学の世界に突入していったわけであるが、文章の才能や売文の才覚などはてんで持ち合わせていないので、それゆえに彼は、まずは書くための環境を整えるために、そして生活のために労働しなければならなかった。とりあえず彼は派遣で工場の労働者をしながら生活費と活動のための資金を工面した。


 工場の労働に対して、もやし君は「平素は私どもの文化芸術事業に多大なるご協力を賜り、厚くお礼申し上げます」みたいな調子なので、正直なところ残業はできる限り避けたい。しかし彼の職場には「残業がデフォルト」みたいな、あまり有り難くない空気がすっかり定着していた。平日は生活のための労働に従事して、あとは飲食して寝るだけ。ここで、さらに休出するような事態が発生するに至った場合には、彼が彼の使命だと感じている事業にはいよいよ不十分にしか従事できなくなってしまう。そうなると、もやし君には自己疎外らしき症状が発症して、あたかも魂を抜かれてしまったかのごとく、へなへなと元気を喪失してしまうのだった。

 

 もやし君の「終わりなき日常」――出勤前。彼はまだ自宅に居る段階で「仕事に行きたくない」思いと少なくとも1時間は格闘するのが常である。そのため職場に着いたところで彼はすでに疲れていた。


 彼が労働する工場では電子機器を製造している。職場の従業員はおおむね正社員と契約社員と派遣社員とで構成されている。


 派遣社員でこの会社に入ってきた従業員の中には、ここでの作業がよほど性に合っているのか、この職場を自己実現の場として見据えているのか、そのためだろうか、自ら多能工になることを熱く希望する者もいるようだ。殊勝なことだと思う。

 それに対して、もやし君は自らをアルバイト工員とみなしていた。これまでの記述を見れば、その事情は察せられるだろう。しかしアルバイト風情といえども別に怠け者というわけでもなく、かえってアルバイトゆえに(要は本業のための気力と体力は保持しておきたいので)、作業中はとにかく無難に事が運ぶように、その点に神経を集中させるよう努めた。有能ではないが真面目ではあった。持論ではあるが、野球やサッカーと同じように工場の作業においても、チームを勝利に導くためには、攻めと守りとの両者のバランスが大事なのではないかと思う。


 さて、もやし君は職場の方とはあまり積極的に関わろうとはしない人間であった。人見知りの方も激しかったが、これは別に彼がすね者だからというわけではなくて、年齢的なこともあるだろうが、慢性的に疲れているので、休憩時間はたいていの場合は電池が切れたようにぐったりとしていた。作業中はやむを得ないとしても、休憩中も人と話すとなると、これは彼にとってはなかなかしんどいことである。元気な人たちがうらやましい。職場ではほとんど省エネ人間と化していたので、四面楚歌とまではいかなくとも、やはり周囲からはかなり浮いていた。もやし君はこの工場での作業はあまり性に合わなかったのか、仕事も人間関係もどちらかと言えばダメな方だったようで、そのためだろう、職場には彼に対して友好的でない態度をとる者たちも存在した。当然といえば当然なことだが、とはいえ、みんなから好かれよう、ということ自体が無理な話であるとも言えるだろう。それでも面倒な事態は極力避けたい。事は穏便に済ませたいものだ。


 それよりも、職場の様子を傍観していて彼なりに思うのは、問題にしなければならないのは、むしろこっちの方ではないか? 

 これは何も製造業に限った話ではないのだろうが、組織でチームを組んで作業に当たっていれば、「オレはできる、お前はできない」みたいな態度をとりたがる連中も中にはいるものだ。非正規雇用の派遣社員や契約社員だったらまだしも、もし正社員の中にもそのような者が存在していれば、それは人望のない社員だろう。現場の従業員を差配する立場にある人間がこのような態度に出てしまうと、もはやチームが正常に機能しなくなってしまう。

 ところで「オレはできる、お前はできない」といった態度は、前にも述べた「畜群的大衆人」の発想である。彼らの心理というのは、ヤスパースが提示した「大衆人」の記述にもあったこの箇所に当てはまりそうだ。――「かれを支配するものは、かれの不足した自己意識の埋め合わせを求める権勢欲である。」

 端的に言ってしまえば、彼らの人生は実存的欲求不満の状態にあって、その無害なガス抜きの方法が分からない。だから有害な振る舞いしかできない。これは憎たらしいというよりも可哀想なことである。というのも、これはもやし君自身が過去に通ってきた道でもあるので、実を言うと、彼らのことはよくわかる気がする。


 もやし君は、このタイプの人種の踏み台にされるようなことが度々あったが、彼らとはそもそも土俵が違うので相手にする気も起らない。彼らのやっていることを冷静に観察してみれば、これは結局のところ自ら墓穴を掘っているようなもので、また、こちらから何かをするのも疲れるので、ここは彼らのやりたいままにさせておいた。調子に乗ればそれだけ自分で掘った穴が深くなるだけのことだ。自分で勝手に掘った落とし穴に自らまってくれたら愉快な寓話になるだろう。因果応報の法則。 

 また、ここで述べた性格類型についての社会心理学的解釈として、もやし君は次のようにも考えてみるのだった。


 ――3人以上で構成される人間関係においては、自分が一番下っ端になりたくなくて、或いはグループの中で自分の存在感を出そうとしたりして、グループの中で自分よりも下位になる人間を作ろうと、そういうことを無意識的・衝動的にやってしまう事態が発生してしまうことがある。これには加害者・被害者といった立場の別を問わず、誰にでも心当たりがあるだろう。

 ――世の中には「こいつは自分より上、こいつは自分より下」といった人間関係を垂直的に捉えるような人種が存在する。これは畜群的大衆人の間ではしばしば観察されることだ。その一方で、人格の磨かれた真人間になってくると、他者に対して上下関係を設定せずに人間関係を水平的に捉えるように努めようと心掛けたりもする。「友愛と平和の精神に則った社会」の実現は、後者の努力が不可欠だろう。


 それはさておき、職場ではかなり浮いた存在のもやし君ではあったが、そんな彼に対しても友好的な態度で接してくれる人たちはそれなりにいた。

 特に正社員のOさんと派遣の中でも最古参であるRさんは、昼食の休憩時間に会社の近くにあるコンビニまで行って一緒に買い食いするような、俗にいう昼メシ仲間(ランチメイト)であった。二人はもやし君よりも5歳以上は年下ではあったが職場では大先輩で、その他の方面でもいろいろと親しくしてくれた。


 正社員のOさんは職場をまとめるリーダー的な立場にあった。この職場での帝王学らしきものをわきまえていて、アメとムチの使い分けにけていた。立場的な事情もあるだろうが、職場のどの従業員にも分け隔てなく平等に接するので現場からの人望は厚かった。職場では存在感の稀薄なもやし君に対しても、何かにつけ気さくに話しかけてくるような人だった。また、作業者が担当の作業で上手くできずに困っているようなことがあれば、作業者と同じ目線に立って一緒に原因を突きとめては解決案を提示してくれるような、そうした親切な熱意も持っていた。だからだろう、正社員の中でも特に人間味のある人物のように思われた。

 そしてもう一つ付け加えておくと、もやし君が己の本業と見なしている創作活動についてであるが、これが職場のメンバーから認知されるということはまず期待できなかった。しかしそんな中で、Oさんはまともな関心と理解を示してくれた、ほとんど唯一の存在なのだった。


 派遣社員では最古参であるRさんは、人と話すのが好きな明るい性格らしく、誰とでもすぐに仲良しになれるという、ものすごい特技を持っていた。もやし君と彼とでは陰キャと陽キャがなぜ一緒にいるのか?――それくらい対照的なのだが、世の中には太極図というものが存在していて、もしかするとそれで説明がつくかもしれない。過去、大阪に長いこと住んでいて、その頃はキャバクラの雇われ店長もやっていたという。もやし君との共感ポイントは多分この点にあるのだろう。浮世の裏道の世界も遍歴してきた、言わば、同じしるしを持つ者なのだ。たぶん。

 Rさんは見た目はチャラ男な風貌をしていたが、職場ではまるで「イワンのばか」みたいになって働くような生真面目さに好感が持てた。それでいて要領もよさそうなところがあった。この職場の派遣従業員の中では在籍期間が最も長く、派遣の中ではナンバーワン的な存在で、最も仕事のデキる多能工でもあった。

 この職場に来てほどなくして彼と親しくなれたのは、もやし君には有益であった。


 それでまた話を戻すと、もやし君はやはり工場の労働者としての仕事がイヤで仕方なかった。でも生活のために辞められなかった。終わりなき日常はキツい。「オレはできる、お前はできない」といった態度をとってくる歪んだ意味で意識の高い連中。上の者に対してはドMで、下の者に対してはドSな態度をとりたがるSM人間。人の足をわざと引っ張っては相対的優位を誇示したがる卑劣な生存戦略、相手の人のよさにつけこんで人を小馬鹿にしたような悪態をついてくる腐った連中。これらの要素をすべて網羅した凡庸の大悪魔。――職場で突然変異体のように出現してくる、そうした弱者のルサンチマンを表出させた弱者の王様みたいな連中と今日も顔を合わせなければならない。彼らによって今日も今日とで不愉快な思いをさせられることになるかもしれない。仏教にある四苦八苦の一つに数えられる怨憎会苦おんぞうえくというやつだ。「僕を不愉快な気分にさせることで楽しんでいる君たちは仏の道にでも目覚めるか、そうでなければ直ちに成仏してほしい」 そんなことを考えていると、ますます暗澹あんたんたる憂うつな気分になってくる。

 しかし世の中は、そういっただけで構成されているわけではない。真性のネガティブから比較的自由な身にある人たち、あるいはそれを克服した人たちも存在している。真っ直ぐな心を持った人たち、義侠心に厚い人たち、心根の優しい人たちも職場には存在する。それも事実だ。狭い世界ながら、そうした真人間も現に存在しているというのが、それがせめてもの救いだろう。

 下を見て安心するのはクズのやることだ。不安だからといって下を向いてばかりもいられない。前を見て、上を向いて歩こう。

 

 * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 それにしても、もやし君の「今、ここ」に横たわっている現実というのは、そのほとんどはそれほど楽しいものでもなく、それは得てして悩ましいものであって、彼の人生はやはり相変わらず、あまりパッとしないものであった。今思えば、彼の人生は押しなべて「孤独と不安」とともにあった。かつて彼は、一度はそんな何ともパッとしない彼自身の人生に立ち向かってみたりもしたのだが、結局は人生の側と和解する形(?)となって、現在に至るのであった。


 彼の内面にある種の「覚醒」が起こって、彼の精神が「世俗的な価値観」からいくらか自由になると、孤独と不安は以前ほど彼を苦しめなくなった。さらに言えば、彼の「孤独と不安」は、時と場合によっては、むしろ「創造を促す力」の源泉となるような場合すら有り得たのだった。

 また、もやし君は、世の中には、次のような問題解決の方法もあることを知った。これは外界の変化よりも「人生に対する態度の変化」によってもたらされるような解決の仕方で、問題の性質によっては、こういう方法も有効性があることを彼は自らの経験を通じて知ることとなった。


  「今まで問題となっていたことが、もはや問題だとは思わなくなった。」

 

  「問題自体はなくならないが、それがもはや問題とはならなくなる。」


 もやし君の人生は昔も今も相変わらず灰色の調子を帯びている感じではあったが、今の彼にとっては、そんなことはもはやどうでもいいことだった。世の中には晴れた空よりも、どういうわけか曇り空の方が似合いそうな土地というのも存在しているように思う。そういった地域に住む人々はその土地の気候に適応するために生活の中に様々な知恵や工夫を取り入れるだろう。また、そうした人々の綿々たる日々の生活の一コマを垣間見ることによって、ある種の「情緒」を見出すことも有り得るかもしれない。これを端的に示すと「をかし」というよりも「もののあはれ」の美感。そしてそれと似たようなことが、ある一人の人生についても言えるのではないだろうか? 


 凡庸な子どもから凡庸な大人へと成長し、若かりし日の幾許いくばくかの成功体験も今は昔の話で、今となってはただ失敗と挫折の経験のみに富む何とも情けないおっさんと成り果ててしまったもやし君は、時折そんなことを考えてみるのだった。

 即物的で刹那的な快楽に耽溺することによって得られる「輝き」というのは結局は「カタストロフ(破滅)の幻惑」なのであって、これは結局のところ人生を暗黒なものにしてしまう。これまで数々の辛酸をめてきた彼は、あの暗黒の状態に再び陥ってしまうことに対してのみ警戒していた。


 今になって振り返ってみると、彼にとっては「世俗的な幸福主義」はすでに相対化されてしまった価値観ではあったが、彼の人生はやはり押しなべて小心者で愚か者のそれであり、彼なりに恥ずかしい生涯を送ってきたのだった。また、そんな中で思うのは、何と言っても、彼の人生には「恋愛」の要素が著しく不足していた。何とも色気に乏しい華のない人生であった。しかしそれは今さら嘆いてみたところで仕方のないことだった。

 あの頃に戻って、もう一度やり直してみたいという思いが、彼の心の中のどこかにある。今の精神に若い頃の肉体が伴っていたなら、自分はかつての無知むち蒙昧もうまいな畜群の一匹にすぎなかった自分なんかよりももっと多くの望みを叶えることができて、もっと幸福な人生を送れたかもしれない。そんなふうに思うこともある。しかし過ぎ去りし日々は「覆水盆に返らず」なのであって、それは単に愚かな妄想でしかなかった。――そうして彼は、「郷愁ノスタルジー」の意味するところについて、わが身を以って知るのだった。それは叶わぬ夢、果たせぬ想い、理想郷ユートピアなのであった。

 かくして、一人もの思いに打ち沈むもやし君なのであったが、この彼のやるせない想いを救済してやる方法というのが、この世界にはまったく無いわけではなかった。このことについて、われわれは「昇華」という芸術的手段を用いて対処することが、なおも可能なのであった。すなわち「形而上学けいじじょうがくを遂行する」のである。

 なるほど、人間存在に対して客観的・物理学的世界、感覚的世界はほとんど絶対的と言っていいくらいに支配的であるために、それゆえに、この事実はわれわれに対して大変に雄弁なものとなっている。しかし、だからといって、われわれはここで思考停止してしまうわけにはいかないのだ。パスカルも「よく考えることに努めよう」と言っていたのだった。何ものだ。


 ……人間は、自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない。しかしそれは考える葦である。これをおしつぶすのに宇宙全体が武装する必要はない。一つの蒸気、一つの水滴もこれを殺すのに十分である。しかし宇宙がこれをおしつぶすとしても、そのとき人間は、人間を殺すこのものよりも、崇高であろう。なぜなら人間は、自分の死ぬことを、それから宇宙の自分よりずっとたちまさっていることを知っているからである。宇宙は何も知らない。だから我々のあらゆる尊厳は考えるということにある。我々が立ち上がらなければいけないのはそこからであって、われわれの満たすことのできない空間や時間からではない。だからよく考えることを努めよう。ここに道徳の原理がある。

                  ――パスカル『パンセ』(津田穣 訳)――


 家庭にも職場にも、しまいには自分自身の身体においてでさえも、結局は現実世界において、さらに言えば客観的・物理的世界、感覚的世界において「自分の居場所」というものを実感することができずにいるもやし君であった。「今、ここ」を異邦人のように漂泊している彼は常に「ここではないどこか、未来」を見つめていた。仮に「今、ここ」の状況が彼にとって望ましい状態になったとしても、しかし得てしてそれは「月に叢雲むらくも、花に風」なのであって、結局のところ、もやし君はその度ごとに己の内面、さらに言えば「彼が〈存在の根源〉と呼んでいるところのものから自ずと湧き起こってくる必然性」に素直に従わなければならなくなるのだった。そうして、彼の「心の旅」は依然として続いていた。

 しかしそれと同時に「ニヒリズム研究」と「イデアと実存」探求の活動によって、もやし君は形而上学けいじじょうがくについてそれなりに精通するようになり、虚構の世界に対する理解を深めていった。このことはまた、彼にとっては「芸術の目で世界を観る」ための修業となり、同時に「新しい価値」の創造に向けての方針と内容、そのために必要とされるスキルなども彼に授けたのだった。


 今となっては、すっかり「イデアと実存」の探求者となってしまったもやし君にとっては「芸術の目で人生を観る修業」に精進することのみが彼の人生における最大の関心事であり、ほとんどライフワークだと言ってもよかった。彼の情熱はその一点にすっかり傾注してしまったので、実際、正直なところ、それ以外のことについては、ほとんど興味も関心も持つことが出来なくなってしまった。

 世間の常識からすれば、すでに立派な変人として完成されたもやし君であったが、それはそれとして、彼の標榜する「真実在イデア」の探求者は、まずは「真理」の探求者であって、同時にそれは「善」の探求者であり、それは結果として「美」の探求者でもある。

 ところで、素朴な疑問として、なぜ「イデア」といえば「真・善・美」なのか?

「イデア論」とは、そもそも古代ギリシャ時代にプラトンと彼の師匠であったソクラテスとの対話から始まったのを起源としている。そういうことらしい。そして、ここで参考までに紹介すると、ウィリアム・デイヴィッド・ロス著 田島 孝/新海邦治 訳『プラトンのイデア論』によれば、次のようなことが書かれてあった。


 ……プラトンがソクラテスの影響によって完全に支配されていた間に書かれた初期対話篇の場合には、超越論の形跡が存しないのは当然である。というのは、アリストテレスの言うように、ソクラテスが関心を持っていたのは専ら、全ての正しい行為、全ての美しいもの等々に共通するそれぞれの本質をつきとめることだったからである。だがプラトンの心が成熟するにつれ、自立して存在し感覚的事物や人間の行為には不完全にしか反映しない実在という、イデアについての超越的な見方の方へ彼は次第に移って行った。


 ソクラテスが関心を抱いたのは、全ての善いものと全ての美しいもの等々に共通する本質の探究であり、プラトンは「真実在イデア」が現実界では不完全にしか反映されないので、それを超越的な実在とする見方を支持した。つまりはそういうことらしいのだが、そういうわけで「イデア」の探求者とは、畢竟ひっきょう「真・善・美」の探求者なのであり、そしてそれを本気で実践してみようという強い意志を持っているのだったら、現実世界を、客観的物理学的世界を、そして感覚的事物を、――「超越せよ。」


        ……完璧で純粋なセカイが欲しい

           綺麗なものしかない場所

            ありえない? ありえます! きっとある


        ……幻想と現実の区別くらいついてる

           疑ってるのですね

            ありえない? ありえます! 絶対あるんです

        

        ――黒澤ダイヤ(CV.小宮有紗) from Aqours「Perfect SEKAI」―― 

            作詞:畑 亜貴 作曲:杉山勝彦 , ulala 編曲:ulala




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