【5号車】付録

【3号車】「ありふれた虚しさの果てに」の章では、もやし君が職場を休職している間に、職場の産業医と面談を受ける場面があった。そこで、この産業医はもやし君に「あなたのうつ病は薬で治せる病気なのか、それとも人生観にまつわるものなのか」という質問を投げかけたのだった。もやし君のうつ病はどちらかと言えば後者に該当しそうだということだった。


 もやし君は「ニヒリズム研究」に従事している途上で、アンソニー・ストー:著 三上晋之助:訳『孤独』(創元社)という書物と出会った。この本は孤独の持つ生産的な側面について分析した画期的・独創的な内容となっており、本の帯には「天才の学校」とさえ記されてあった。本書の第12章「完全性願望とその追求」に、もやし君のうつ病に対して効果が見込めそうな心理療法プログラムが記述されてあったので、ここではその部分について紹介しておこうと思う。


 本文からの引用としてはずいぶんと長いものになってしまったが、少しでも内容が読み易くなるよう便宜を図るつもりで、引用文を3つのセクションに区切ってみた。


 念のために前もって言っておくと、【セクション1】の記述は、金にも女にも縁のない哀れな中年男のもやし君に対して示唆するところが大いにあるように思われる。

 続いて【セクション2】では、主にC.G.ユング(1875~1961)が開発した心理療法プログラム「個性化の過程」についての説明がなされている。この内容を読んだからといって、直ちに神経症が快癒に向かうという訳にはいかないだろうが、しかし快癒への方向性については明確に示してくれている。この点が非常に参考になる。また、ここは一見すると実存的空虚に由来する神経症とは縁のなさそうな人たちに対しても自己理解の助けとなりそうな記述が豊富にあるように思われる。

 最後の【セクション3】は本書の結びにあたるような記述がなされている。


【セクション1】

 ……プラトンの『饗宴』において、アリストパネスは、差し出がましくも友人たちに愛の力の秘密を伝授する。…(中略)…「愛とは」とアリストパネスは言う、「完全体願望とその追求につけられた名称にほかならない。」


 プラトンの神話は今日でも影響力がある。その後二十数世紀にもわたって、他人と性的に関係することによって完全性に到達し、自分を完成するのだという考えは、ロマンティックな文学の源としての主要な霊感になり、何千という小説の見せ場となってきたのである。今もなお、私たちのほとんどの者が強い影響を受けるほどの真実が、この神話の中にはある。特に青年期においては、愛する相手との性的結合は、いかにつかの間のものとは言え、他の経験がほとんど太刀打ちできないほどの達成感をもたらすことは確かである。しかし性は統合に到達するさまざまな方法のうちの一つにすぎない。


 宇宙との完全な調和の感覚、他人との完全な調和の感覚、そして自我との完全な調和の感覚は密接に関連している。実際、私はそれらが本質的に同じ現象だと信じている。こういう経験の引き金となるものは多種多様である。マルガニタ・ラスキは、「自然、芸術、宗教、性的な愛、出産、知識、創造的な仕事、ある種の身体運動」を、最も一般的な例として挙げている。

                (中略)

 この種の経験はまた、外界からの刺激によって助けられなくても、孤独であれば自然に起こることもありうる。そういう超越的経験は、創造の過程のいくつかの側面、例えば以前には不可解だったものの意味が、突然分かるようになることや、それまではまったく別個のものに思われていた観念を結びつけることによって、新しい統合をつくり出すことなどと、密接に関連している。


 プラトンの神話は、人間を、完全性や統合を絶えず求めている不完全な生物として描いているという点では、人間の条件を正確に説明している。しかし、統合を性的な関係という観点から述べるだけにとどまっている。実は、物事が突然一つにまとまる、あるいは、人生の意味を理解する、という超越的経験は、数学のような非人間的なものによって引き起こされることさえある。バートランド・ラッセルはそのような瞬間をこう描いている。


 11歳の時、私は兄を師としてユークリッド幾何学を始めた。これは、私の人生の大きな出来事に一つで、初恋のように目くるめくものだった。私は、この世にこんなに面白くて快いものがあろうとは、夢にも思っていなかった。



【セクション2】

 精神分析が初めて一つの治療方法の段階に発展した頃、フロイトは、五十代以上の患者は引き受けないように、と忠告した。その年代の人は、たいていの場合、変化に必要な精神作用の柔軟性が欠けているという根拠に基づいていたのだ。精神分析の技法が念入りな過去の再現を要求する以上、フロイトはまた、これだけの長さの人生で蓄積された多量の診断データが、治療を果てしなく長引かせると感じたのである。


 現代のフロイト学派の精神分析家たちは、しばしば中年以上の患者も取り扱うけれども、精神分析の主流が今までに常に目指してきたのは、幼少年期・青年期の理解と、親との感情的きずなからの個人の解放であった。この時期はまた、一生のうちで性的衝動が最もしつこく人間を駆り立てる時期であり、性的問題の解決が最も報われる時期でもある。


 中年期の人々の問題に注意を向けるという仕事がユングと彼の後継者たちに残されていたのである。


 心理学と精神療法へのユングの主な貢献は成人の発達の分野におけるものである。ユングは幼児期に対しては比較的わずかな注意を向けただけであった。その理由は、子どもが神経症の悩みを示す場合、通常、子ども自身の心理状態よりはむしろ、その子の親の心理状態を研究することにおいて、その問題の答えを求めるべきだと信じていたからである。


 成人の発達の諸問題に対するユングの興味は、彼自身が1913年から第一次世界大戦の終結時にかけて経験した危機に由来している。

               (中略)

 1913年7月に、ユングは38歳になった。この時までに彼は結婚し、父親となり、世界的に著名な精神医学者としての地位を得ていた。彼の望みは、フロイトとともに新しい精神科学を発展させることであった。しかし、彼の内なる、ある力が、彼自身の望みに逆らい、独自の見解を発展させることを強要したのである。


 ユングは、現在では一般に「中年期の危機」と呼ばれる事象に最初に注目した精神療法家である。彼の悩みが、彼に長期間の自己分析を強制したのであり、その中で彼は自分の幻覚や夢を記録していった。その多くは、驚くほどの恐怖感を抱かせるものであった。しかし、この危険な時期を素材にして、ユングは独自の個人的見解をつくり上げた。彼はこう書いている。


 私が自分の心に中に現れる諸像を追いかけていた年月は、私の人生で最も重要な時期だった。その時にすべての肝要なことが決定されたのである。


                (中略)

 ユングの自己分析が彼に与えた確信は、若い人の課題は、自分の生まれ育った家庭から自己を解放し、世間で身を立て、今度は自分の新しい家庭をつくり上げることであるのに対して、中年の人の課題は、個人としての独自性を発見し、それを表現することだ、というものであった。ユングは人格を「一個の生物が有する生得的特質の最高度の実現」と定義している。


 このような追求は本来独善的に行われるものではない。なぜなら、ユングの見解によれば、精神の内にあって、当人が自分でつくり出したものではない力の命令を当人が承認する場合にのみ、個性の本質が表現されるからである。人は、ある意味では自分自身に対して不誠実であり、創造主が人間にたどらせようと意図した道からあまりにも遠くさまよってきたため、人生半ばになって神経症にかかる。夢、空想、その他の無意識から派生するものの形で表れる精神の内なる声に細心の注意を向けることによって、さまよえる魂は、ユング自身がそれに成功したように、その本来の道を再発見できるのである。


 自分好みの神を信仰することや、世間に認められた宗教的信条を支持することは治療の中に含まれてはいないが、患者に求められる態度、すなわち「心構え」は、実際に宗教的なものである。


 ユングはスイス改革派教会の牧師であった父親によって養育されたが、その養育の基礎をなしていた正統派新教の教義に、子ども心に、もはや同意できないことに気付いていた。ユングの後の仕事全体が、自分が失った教義の代替物を見つけようという努力の表れだと断言してよいかもしれない。なるほどそういう推測は興味深いが、結局は大して重要ではない。ユングの考えが個人的な葛藤に由来するか否かが、その考えの正しさを立証するものでもなければ、それを否定するものでもないからである。最もよく知られた記述の中で彼が述べているように、


 私の患者のうち、人生の下半期、つまり35歳以上の人のなかに、その最後に行き着く問題が宗教的な人生観を見出すというものではない人は、一人もいなかった。

 …(中略)…もちろん、これは、ある教会の特定の教義や入信問題とは、何の関係もない。

                (中略)


 ユングは中年の人の治療を専門とするようになった。


 私の手元にある診療記録は特異な構成を示している。初めて発症した例は、疑いもなくわずかである。ほとんどの患者は、すでになんらかの形の精神療法を受けているが、ある程度の成果が見られるか、あるいはまったく成果が見られないかのどちらかである。患者の三分の一は、臨床的にはっきりと診断できる神経症にかかっているのではなくて、自分の人生の意味の無さや目的の無さに苦しんでいる。これを現代の一般的神経症と呼ぶにしても、私には異議はない。患者のまるまる三分の二は、人生下半期の年齢である。特にこの患者層は、合理的な治療の方法に格別の抵抗を示す。おそらく、私の患者の大部分が、社会的によく適応している人たちであり、しばしば優れた能力の持ち主なので、その人たちにとって正常生活療法(ノーマリゼイション)は何の意味もないからであろう。


 そういう個人が、ユングの先導で歩み始めた自己発達の道は、ユングによって「個性化の過程」と名づけられた。この過程は、「完全性」、または、「統合」と呼ばれる目標、すなわち、意識と無意識の両域における精神のさまざまな要素がまとめられて、一つの新しい統一体になった状態を目指すのである。


 ユングは自分の患者に、後に、「能動的想像」と呼ばれるようになる活動のために、一日のうち何時間かを空けておくように勧めた。これは一種の夢想状態で、その中では判断は保留されるが、意識は保持される。患者は、どのような空想が頭に浮かんだかを心に留め、それから、それらの空想が意識の干渉を受けることなく独自の道をたどることができるようにすることを求められる。このようにすることによって、患者は自分が開始した心理的旅行について描写するだけでなく、自分の心の隠された部分を再発見することができるかも知れないのである。


 私が精神療法医を開業していた時、うつ病に悩む中年の患者の治療に、この手法を応用した治療法を採用することが時々あった。そういう患者は、若い頃に人生の情熱や意味を与えてくれていた気晴らしや興味を、職業や家族の要請に負けて、無視したり捨ててしまった人たちであることが多い。もし患者が、思春期の頃人生の意味付けをしてくれていたものを思い出すよう促されたならば、自分自身の忘れられていた側面を再発見し、そして、おそらく、音楽、絵画、その他の文化的・知的な楽しみに、再び心を向けるであろう。これらはいずれも、かつては熱中していたのに、生業の忙しさに屈して捨ててしまったものなのである。


 能動的想像を粘り強く続けることは、人格の忘れられていた面を再発見することにつながるだけでなく、態度の変化にもつながる。それによって患者は、自分の自我や意志はもはや至高のものではない、自分は、自らの手で作りだしたものではない統合要因に依存していることを認めなければならない、と認識することになる。ユングはこう書いている。


 もし私たちが無意識は意識と並ぶ共同決定要因であると認識することができたならば、そして意識的要求と無意識的要求がともにできるかぎり考慮されるような生き方ができたならば、人格全体の重心はその位置を変えることになる。そうなると、重心は、意識の中心にすぎない自我のなかにはもはや位置せず、意識と無意識間の仮想中点に位置する。この新しい中心を「自己」と呼んでもいいであろう。


 ユングはこの仮想中点への到達を、長く実りのない苦闘であったかもしれない過程の後に、心の平穏を達成することであると述べている。彼は次のように書いた。


 人々が自分の経験について語ることをまとめたならば、次のように系統立てて説明することができる。「人々は落ち着きを取り戻した、自分自身を受け入れることができた、自分自身と和解することができるようになった、それゆえ自分にとって不利な環境や出来事とも和解した。」これは、「人が神と和解した、自分自身の意志を犠牲にした、神の意志に身をゆだねた」という言い方で、昔よく表現されていた事柄とほとんど同じである。


 これは、洞察や、他人と新しいよりよい関係をつくることによる治癒ではなく、ましてや、目下の問題を解決することによる治癒でもない。これは、内的な態度の変化による治癒なのである。


 ユングは、昔の患者からの手紙を引用しているが、それは、彼がいま言及している変化を説明している。


 災いが転じて多くの福が私に訪れました。平静を保ち、何も抑制せず、常に注意を払い、現実を受け入れる――物事を、私が望む姿ではなく、あるがままの姿で受け入れる――こういうことをすべて実行することによって、普通では分からないことが分かるようになったのです。普通ではできないことができるようになったのです。


 こんなことは、いままで想像もできなかったことです。私はいったん物事を受け入れてしまえば、自分はなんらかの形でそれに押しつぶされてしまうだろうと考えていました。この考えは、まったく真実ではないとわかったのです。人が物事に向かう一つの態度を決めることができるのは、物事を受け入れることによってだけなのです。


 だから私は今、善と悪、永遠に交替する太陽と影を含めて、私に訪れるものは何でも受け入れて、人生を誠実公平に生きるつもりです。そうすることによって、すべてのものが私にとってより生き生きとした姿になるのです。


 私はなんと馬鹿だったのでしょう! すべてのものに、私が理想とする進み方を押し付けようとして、なんと無理な努力をしていたのでしょう!


 これにとてもよく似たことが、ウィリアム・ジェイムズによって述べられている。


 緊張・自己責任・不安から、平静・受容性・平穏への変化は、私がこれまでに何度も分析してきた内的平衡の変化、自己の活力中心の移動のなかでも、最も驚くべき変化である。そしてその最も驚くべき点は、その変化が、何かを行うことではなく、ただくつろいで重荷を降ろすことによって起こることが多いということである。


 この三人の著述家が記述している心の状態は、突然引き起こされ、普通は短時間しか続かない恍惚状態の激しさと同一ではないけれども、明らかに建設的なあきらめ以上に価値あるものである。ウィリアム・ジェイムズはこう書いている。


 神秘的な状態が長く続くことはありえない。まれな例を除いては、半時間か、せいぜい1、2時間がその限界であり、それを越えるとありきたりの日常生活の光の中に徐々と消えていくように思われる。いったん消えてしまうと、その特質は記憶の中できわめて不完全な形でしか再生されないことが多い。


 しかし、その状態が再現すると、今度はその特質が認識される。そして、繰り返し再現するうちに、その特質は内面的な豊かさや価値として感じられるものになって、持続的に発達していくことができる。


 個性化の最終段階は、ユングが意識と無意識の新しい相互作用と述べている、新たな内的統合の経験を伴うが、この点は恍惚状態と共通である。平穏の感覚、人生と和解したという感覚、より大きな全体の一部であるという感覚は、恍惚状態にきわめて似ている。患者は、自分の内部にありながら自我ではない統合要素に依存していることを認めるようになる、というユングの考えは、宗教的神秘主義者の体験談の中でしばしば語られる「神に仕える」というさらに受動的な態度と、同列である。


 こういう統合経験が突然起こるにせよ、徐々に起こるにせよ、通常は心のなかに永続的な影響を残すと思われるほど印象が強い。しかし、このような平穏の状態に達した人は、中断することなく、あるいは永久に、それを保持するであろうと推測したとすれば、それは単純すぎるというものである。

                 (中略)

 自分は完全であるという恍惚感は、必然的につかの間のものである。なぜなら、そのようなものは、私たち人間という種に特有の「不適応による適応」という生存形態全体において、何らの役も果たさないからである。ボエオティア人の凡俗な至福は発明発見に通じない。想像力の飢餓、完全体願望とその追求は、何かが欠けているという認識から、不完全の自覚から、生じるのである。

                 (中略)

 ユングの統合の概念は、時々誤って解釈されることがあるけれども、実は、静的な精神状態を意味しているのではない。ユングの見方では、統合と精神的健康に向かう人格の発達とは、決して完全に到達されることのない理想、あるいは、たとえ一時的に達成されることがあっても、その後必ず別のものに取って代わられてしまう理想なのである。ユングは、人格の理想的発達の達成は決して完成することのない、生涯続く課題であり、決して到達することのない目的地に向かって希望にあふれて出で立つ旅であると考えた。


 精神分析の過程で得られる新しい態度は、遅かれ早かれ、なんらかの点で不適当になる傾向がある。人生の流れが、繰り返し新しい適応を要求するので、必然的にそうなってしまうのである。適応が最終的に達成されることは決してない。

 …(中略)…結局、あらゆる障害を取り除く治療法が存在し得ることなど、およそありそうにない。人間は障害を必要とする。それは健康に必要なのである。今、私たちに関係があるのは、障害が過度の量に達した状態だけである。


 個性化の道と、その過程で起こる態度の変化は、天賦の才を授かった男女が語る自分の創造過程についての説明と、ぴったり一致することがある。まず第一に、新しい着想が生まれたり、霊感がひらめいたりする時の心の状態はまさに、ユングが患者に勧め、そして「能動的想像」と名付けた心の状態である。たまには新しい創作や仮説の芽生えが夢の中で起こることがあっても、覚醒と睡眠の中間にある夢想状態において、新しい着想が心に浮かぶことのほうがはるかに多い。


 イェーツやワーズワースのような詩人は、こういう状態を、眠りながら覚めている状態であると説明することもある。それは着想や心像が姿を現し、勝手にその道がたどることが許されている状態であるが、当人がその進行過程を観察し記録できる程度には目覚めて意識のある状態である。「能動的想像」にいそしむ患者も、霊感を求める創作家も、共に受動的になり、心の中で物事が起こるがままにしておくことができなければならない。


 多くの作家が、自分の作り出した登場人物たちが、作者から独立して独り歩きの生活を始めるように思われること、そして、時々、作家自身の意志というよりは、何か命令を下す力のようなものに自分のペンが導かれているように思われること、について述べている。たとえば、サッカレーは次のように記録した。


 私は、自分の創り出す登場人物たちの何人かが行う監察に、かねがね驚いている。まるで目に見えない「力」がペンを動かしているかのようである。登場人物が何かやり、何か言う、そして私は、一体全体どうしてそんなことを考えついたのか、と尋ねる。


 ジョージ・エリオットは、J・W・クロスにこう語った。


 自分の最良の作品と考えているものには、すべて、私に取りついた「自分自身ではないもの」が入っています。私自身の個性は、この、言わば、精霊が動き回るのに使われる道具にすぎない、と私は感じています。

               (中略)


 ニーチェは『ツァラトストラはかく語りき』について次のように書いた。


 19世紀の終わりに生きている人のうちの誰か、想像力の活発な年代の詩人たちが霊感と呼んだものについて明確な概念をもっているのだろうか。もし誰ももっていないのならば、私が今それを述べよう――もし人が内に迷信の残滓をほんのわずかでも持っているならば、自分は圧倒的な力の単なる化身・単なる代弁者・単なる媒体にすぎないという考えを捨て去ることは、ほとんどできないであろう。

               

【セクション3】

 この本の出発点は、高度に創造的な人々の多くは著しく孤独だ、しかし、それゆえに彼らが必然的に不幸だ、あるいは神経症だ、と推測することは無意味である。という所見であった。


 人間は社会的生物であり、確かに他者との相互作用を必要としているけれども、個人がお互いにつくり合う関係の深さには大きな差異がある。すべての人間が対人関係だけでなく、興味も必要とする。人間はみんな、人間的なものだけでなく、非人間的なものにも向かうようにつくられている。


 幼年期の出来事、親から受け継いだ才能や能力、気質的な相違、その他多くの要因が、人生の意味付けをするために個人が主に他者に向かうのか、それとも孤独に向かうのか、という選択に影響を与えるかもしれない。

 

 孤独になる能力は貴重な資質であり、学習、思索、改革、変化への順応、そして内なる想像の世界との接触の維持を促進するものである、ということが概略的に示された。


 親密な関係をつくる能力が損なわれてしまった人の内部においても、創造的想像力の発達が治癒の機能を果たすことができることが分かった。


 創造的な個人の例をいくつか挙げておいたが、その人たちの主要な関心事は他人との関係よりも、人生の意味付けをし、人生の秩序をつくり上げることであった。それは、つまり、非人間的なものに対する関心であり、これは年齢とともに深くなっていく傾向があることも示しておいた。


 世界に対する人間の適応は、主として、想像力の発達と、必然的に外的世界と対立する内的精神世界の発達によって、支配されている。完全な幸福、内的世界と外的世界が完全に調和した大洋感情が実現するとしても、それはほんのつかの間のことである。人間は絶えず幸福を求めている。しかし、それは、ほかでもなく人間の本性の所業である。


 対人関係においても、創造的な努力においても、最終的に、あるいは、永久的に幸福を実現することは、阻止されている。


 この本全体を通して注目してきたことは、個人が出会う最も深くて治癒力のある心理的経験のうちのいくつかは、内なる世界で起こるものであり、人間同士の相互作用との関係は、たとえあったとしても、きわめて遠い関係にすぎない、ということであった。


 最も幸福な人生とは、たぶん、対人関係と非人間的なものへの興味のうち、どちらも救済への唯一の道として理想化されていない人生であろう。完全性願望とその追求は、人間の本性が備えているこの両面を含むものでなければならない。


   ――出典:アンソニー・ストー 著 三上晋之助 訳『孤独』(創元社) 

                  第12章「完全性願望とその追求」より――

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