【7号車】虚構の国(その2)~「リリーホワイト」

【11】

    男は女を創り出した――が、何から? 

         自分の神の――自分の「理想」のあばら骨から。……


          ――ニーチェ 西尾幹二 訳『偶像の黄昏』(白水社)より――


 現実世界での生活に齷齪あくせくして煩悩に囚われの身となりながらも、もやし君は、飄々ひょうひょうとした態度で彼の人生を送っていた。またその一方で、彼の「心の旅」は今も根気よく続けられた。

 それは、彼の現実世界における「終わりなき日常」に対する異議申し立てとして、彼の自覚的な意志から起こした行動ではあったが、さらに言えば、それと同時に彼の内面の奥底の方にある、彼の中に在りながらも彼自身のものではない、得体の知れない何者かがそれを求めていた(もやし君は、その「何者か」について「存在の根源」と呼ぶことにしていた)。そんなふうにも感じられた。

 かくして、彼の「イデアと実存」探求の旅は、依然として続いていた。


――旅を続けているうちに、もやし君は、とある「国」に辿り着いた。


 ここは「国」と言っても、日本のどこかに存在していそうな街で、市街地の景観は人口30~40万の中規模な都市を思わせるような街並みであった。

 しかしこの街(国)は、もやし君の「心の旅」の途上で現実世界を越境してやって来た場所で、それは一つの独立した世界観であって、言い換えるとそれは形而上けいじじょうの街であり、言うなれば――「虚構の国」なのであった。


 この国は性善説的な世界で、この国に住む人々は皆、温雅にして柔和であった。

 

 もやし君はこの「国」で、「自分が自分自身になる」ことを成就した人たちが協力し合うことで素晴らしい何かが生まれる、そのような物語を見てきた。この国には、ある一つのキャッチフレーズがうたわれていた。

 ――「みんなで叶える物語。私を叶える物語。」


 現実社会では「自分が自分自身になれなかった」人たちが「ルサンチマン人間」と化して、彼らが何やら怪しげな団体や結社などを組織しては不穏な活動を企てたりするのに対して、この国は、それとはまったく真逆の世界であった。

 この国では、お互いに切磋琢磨し合う「好敵手ライバル」は存在しても、互いに叩き合い、潰し合う「エネミー」というものは存在しない。もやし君は「イデア」に向かって今を「いのち」しているの姿というものを、ここで幾度となく目の当たりにしたのだった。

 「イデアと実存」を探求する身にとっては、この「国」は学ぶことが多く、刺激的でもあり、それとともに癒し・慰め・励ましなど、もやし君にいろいろと元気を与えてくれた。

 現実世界には、たしかに素晴らしい、美しい人たちや物事も数多く存在しているのだが、その一方で、臆病で冷淡で救いようのないものも少なくない。それに対して、この「国」という世界は、理想の姿、あるべき姿、われわれが目指すべき姿などを教えてくれるのであった。


 もやし君は、この街(国)を大変に気に入った。そういうわけで、ここには思いのほか長く滞在することとなった。また、彼はこの国で見聞したこと、発見したことなどを記事にしてネットで公開しては、広く世に向けて発信していた。

 しかし、彼が発信した記事をまともに見てくれる人というのは一体どれだけいるのだろうか? そして、もしいるとするなら、いったいどのような人たちが見てくれているのだろう? ――それは、彼には全く見当もつかなかった。


 * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 もやし君は、週末にはこの街(国)の図書館に訪れることが多かった。図書館は、この街の中心部に位置する大きな公園の中にあって、建物の裏側は緑地の広場となっている。そこは大小の樹木が適度に間配られて市街地に在りながら小さな林を形成していて、隅の方には遊具などもあった。それぞれの樹木にはプラスチック製の名札が付けられてあって、けやきくすのき銀杏いちょう、桜、楓、イチイガシ(ドングリの木)、ユリノキ、チャンチン(香椿)などの種類があった。

 これらの緑地や図書館などを含めた公園一帯は「虹ヶ丘公園」との名称で呼ばれ、どうやら、この街(国)の市民に最もよく知られ、親しまれている公園の一つとなっているようである。なお、言い遅れてしまったが、この街(国)にも地名があって、「ゆいヶ咲」と呼ばれていた。

 ちなみに、結ヶ咲の歴史によると、今は市民の公園となっているこの一帯の土地は元々は城郭となっていた場所だという。それから明治維新となり文明開化となって、大日本帝国だった時代には国家で有数の規模を誇る軍需工場にもなっていたという。


 図書館の施設の正面方向には両側合わせて4車線の車道と広めの歩道を有する幹線道路が面していて、道路を渡った場所にある対面のエリアはかつて城の本丸となっていた所で、そこには今もお濠を巡らせた高い石垣の上にそれなりに立派な見映えのする天守閣がそびえている。しかしこの本丸の建築物は、高度成長期の時代に「お城ブーム」みたいなのがあって、その頃に再建されたものらしい。

 幹線道路に沿って、城の本丸エリアの隣は市役所と市議会の庁舎が立地する行政機能のエリアとなっている。この市役所の建築物は15階建、全面ガラス張りの外観を呈した見事なまでに無骨な立方体で、1972年に竣工されたのだそうだ。なお、お城の天守閣は市庁舎のビルディングの6~7階あたりの高さに相当していた。


 虹ヶ丘公園の敷地全体は、ちょうど建物の1階から2階あるいは3階くらいに相当する高低差があって、図書館の建物は、そうした非平坦な地形に立地していた。またこの図書館の建築は世界的に著名な建築家による設計だそうで、外観にしても内装にしても、ただのハコものとはひと味もふた味も違っていた。この建築物の外観について出来るだけ精確に描写しようとすれば、その記述もくどくどとした説明っぽいものとなってしまうだろう。そういった意味でも、この建物はかなり個性的な外観・構造となっていた。


 図書館を正面から眺めると、まず横方向に長い建物があって、これは図書館の施設となっている。またその左側には縦方向に長い建物があって、ここは郷土にゆかりのある文士たちを偲ぶ文化施設(文学館)となっている。ちなみにこっちの方は入館の際に入場料を徴収される有料の施設である。この2棟の建物を大まかに見ると「L」の文字を上下逆さまにしたような形態で立地している。図書館の施設の正面に面した幹線道路から図書館の棟まで到達するには、文学館の棟を左手に見ながら、緩い傾斜の坂道にわざわざ段差を設けたような、幅の広い棚を連ねたような、そうした感じのする冗長な階段を進んで行くことになる。この階段のゾーンは、階段とはいえ広場としても利用できそうな構造をしているようにも見える。ここでフリマを開催したり、チームを組んでダンスのパフォーマンスをしたり、ホットドッグや焼きとうもろこしの屋台を出したりしたら楽しい場所になりそうだ。それとは別の趣向で政治的な集会の場などにも使えそうである。

 さて、この図書館と文学館の建築物の最大の特徴というのが屋根の形状にあって、それは半円筒状のアーチ型の構造をしている。上空写真で見ると、あたかもチューブを曲げたり切断したかのような眺めである。そしてチューブの切断面は横方向から見るとカマボコの端面にも似た形となる。このような建築様式は専門用語で「ヴォールト」と呼ばれるのだそうだ。屋根の素材は、天満宮の社に見られるような色褪せた感じのする緑色の銅板から成っている。このヴォールト屋根の様子は、地図の上空写真で見ると、図書館の建物では「J」の文字を反時計回りに90度回転させたような形となって、文学館の建物では「U」の文字、さらにくどく言えば「P」の文字の縦棒の下半分がなくなって、それから時計回りに90度回転させたような形をしている。

 そういうわけで、幹線道路から文学館の建物を眺めた時と、図書館の建物を右側面の方向から眺めた時は、この建物の全体像を把握していなければ、ドーム型の建築物と見間違えてしまうかもしれない。

 また先述のとおり、これらの建物は非平坦な地形に立地しており、図書館の建物の左半分は4階のフロアに分かれているのであるが、右半分ではそれが3階に分かれているのであった。図書館の施設に掲示してあるフロア案内ではエントランス(正面玄関)のある階が1Fとなって、左半分は「1F、2F」、右半分は「B1F 、1F、2F」という具合に表示されている。図書館のエントランス(1F)は建物の左半分の方の3階の場所に位置している。1階と2階のフロアは市民には一般的には開放されていない事務室や会議室となっているのだろう。

 図書館と文学館の双方の建物は、2Fのフロアはヴォールト屋根によって繋がっていたが、正面玄関の位置する1Fの方は広い通路によって分割されていた。双方の正面玄関は2Fのフロアが天井になって出来たトンネルのようになった通路で向き合う設計となっていた。

 

 この図書館及び文学館は1975年の竣工となっている。今から40年以上も昔に建設された建物だ。完成した当時は斬新で奇抜、近代的・未来的なデザインであったのかもしれない。しかし今となっては、昭和のポストモダンを偲ぶ歴史的建造物の趣すら感じ取られる。

 現代の公共施設の建物といえば、バリアフリーにも十全に対応できる、防災対策上の理由から複雑な構造は差し控える、そういった観点から結局は無難な建築になってしまう傾向にあると言えるかもしれない。そんな中で、遊び心と冒険心をくすぐるような、ここの図書館の建築物は極めて特異で貴重な存在であると言えるそうだ。

 ところで、今の少子高齢化の時代と比べると、この建築物が完成した当時というのは、とにかく子どもの多い時代であった。そういう意味では、活気のあった時代と言うこともできるかもしれない。やがて時は流れ、あの頃に男の子や女の子だったみんなは今やオジサン・オバサンとなってしまい、オジサン・オバサンだった人たちは、おじいさん・おばあさんとなってしまった。そして、彼らの子孫は今どきの若者となって、この建物は、そうした幾星霜の時の流れの中で街や人々の様子をこの場所からずっと見守り続けてきたのだった。

 なお余談ではあるが、話によれば、この建物は過去に近未来SFものの映画のロケ地にもなったことがあるそうだ。このエピソードは、この建築物の特徴をよく表していると言ってよいかもしれない。


 図書館の後方には、建物の2~3階部分に相当する標高の緑地が広がっているのは先に述べたとおりである。他方、図書館の正面玄関がある建物3階(図書館1F)の左端側からは短い歩道橋が渡されていて、それはまた別の緑地へと連絡していた。

 その緑地も標高2~3階の高さにあって、先述した図書館のカマボコの端面の外観は、実はこの地点から眺めた様子を語ったものである。この緑地の真下には車道用の短いトンネルが通り抜ける構造となっている。また、こちらの緑地は樹木や遊具などの姿は全く見受けられず、一見したところ特に何もない芝生の広場のようであるが、しかし、その一隅いちぐうには良く手入れされた花壇があり、そこには季節の花々が植えられてあった。なお、この場所は、城の二の丸跡ということになっている。

 図書館の左端側と二の丸跡の緑地をつなぐ歩道橋からは図書館の背後に位置する緑地の端っこの部分を見渡すことが出来る。歩道橋の下には広めの歩道が通っていて、これはトンネルを抜ける車道から分離された歩行者用道路とも言えそうだ。

 またこの歩道橋からは、二の丸跡の広場と図書館の背後にある緑地が広い遊歩道の橋でつながって、さらにその付近では標高2~3階の緑地の崖がそれぞれ石垣になっている様子などを眺めることもできた。この公園の非平坦な地形は、その前身がもともと城郭であったことに由来しているのだろう。


 二の丸跡の標高2~3階部分の緑地と1階部分にある広い緑地とは階段や芝生の傾斜などで緩やかに連なっており、1階部分の緑地には授乳室を完備した公設休憩所の平屋建ての建造物があって、またこの広めの緑地の一方は、この街の中心部を流れるやや大きめの河川に沿って、その河岸となっていた。その川は「のぞみ川」と呼ばれていた。そして公園の対岸は、この街の中心街となる繁華街を形成していた。

 こうして、天守閣を有する城や図書館などの建築物をはじめ、ここで見てきた諸々の要素によって、この公園一帯はなかなか変化に富んだ景観を形成しており、それは訪れる者にとって、いくばくかの感興を催させるくらいには印象的であった。


 * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 気候の良い晴れた日には、緑 したたる樹木の木陰にレジャーシートを広げてピクニックを楽しむ家族連れ、芝生の上でフリスビー投げやキャッチボールをしている親子、サッカーボールでパスゲームに興じている少年たちの姿などが見られた。また、緑地の広場を囲んでいる歩道とサイクリングロードを兼ねたような広めの遊歩道には、犬を連れて散歩する年配の人、ジョギング中の中年の男女、幼子を乗せたベビーカーを押して歩く若い夫婦、遊歩道の端の方では3~4人のグループを編成してダンスの練習に励むトレーニングウエアで軽装した少女たちの姿なども見られた。――この公園の随所に見られるそうした光景は、あたかも市民社会における「自由と平和」を象徴しているかのようであった。そして、平和とはまったく尊いものだとしみじみと思わせる、そんな光景であった。


 図書館の建物の裏側と緑地の間には遊歩道が通っていて、その建物側の方にはまた大小の樹木が遊歩道に沿って植えられている。ここの樹木たちにも名札が付けられていて、くすのきかえで銀杏いちょうの木などが立っていた。 

 遊歩道に沿った樹木の傍らには2人が掛けられるくらいの長さのベンチが、いくつか配置されてあった。もやし君は、ここのベンチに腰掛けてはスマホをいじったり、読書したり、飲食したり、ぼんやりと考え事をしたり、昼寝したりして、そうやって週末の午後のひと時を過ごすことがよくあった。


 この場所には、もやし君と同じようにしながら週末の午後の時間を過ごしている者が他にも一名いて、それは小柄で物静かな少女であった。小柄な子なので中学生なのか高校生なのかは不明であったが、清楚でおっとりとした感じのする可愛らしい女の子だった。学校の帰りなのだろうか、週末ではあったが、いつも制服姿だった。

 それはクリーム色をした生地のセーラー服で、襟と袖口とスカートはねずみ色で、それぞれには2本の白い帯が入っていた。スカーフの色は青緑だった。上衣の前面には金色のボタンが8つダブルで付いており、彼女が着用しているのは、上衣の側面にあるジッパーを開閉して脱着する古典的なタイプのセーラー服ではなく、前開きでボタン留めタイプのものとなっていた。肩まである黒髪は後ろ髪が大きく二つに分けられていて、それぞれの先端が束ねられていた。たぶん黒のゴムひもか何かで留めてあるのだろう。それから黒灰色のスクールバッグを肩に掛けていた。バッグはいつもペシャンコで中身は軽そうだった。


 雨の日や夏の暑い時期、冬の寒い時期などは、もやし君は公園のベンチの方には行かず、図書館の館内の方で過ごしていたが、そこでも彼女の姿を度々目にすることがあった。また、もやし君はこの図書館に付属しているカフェに好んで訪れていたが、そこでもまた然りであった。――このようにして、この公園あるいは図書館で彼女の存在を認めるようになってから、すでに1年半の歳月が過ぎていた。


 もやし君と類似した行動パターンを取るこの少女は見た目も可愛らしく、それに、これまでその姿を何度となく目撃してきたので、彼女が親子くらいに齢が離れている娘のような存在であるとはいえ、彼にとっては、やはり気になる存在ではあった。

 彼女が、もやし君の存在を認知しているかどうかは分からない。一方、もやし君は彼女のことについて、このように思うのだった。 

「二度とは帰らない青春の日々を、こんな場所で一人で無為に過ごしているなんて、

こんなに可愛らしいのに。……この子は、もしかすると生粋の文学少女なのか、そうでなければ陰キャの非リア充で、いわゆる”残念な子”に分類されるようなタイプの子なのだろうか?」 


 * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 そろそろ季節が晩春から初夏へと移ろうとする頃、今日は4月第四週目の土曜日。好時節の晴天に恵まれた昼下がりのことだった。


 もやし君は、この日は公園のベンチに座っていて、アンデルセンの『絵のない絵本』という薄い文庫本を読んでいた。読書のかたわら、ふと周囲の景色を見回した。遠くに例の少女がいつもの姿で歩いているのが見えた。

 彼女は遠くからベンチにもやし君の姿を確認すると、おそらくそのへんにあるどれかのベンチに座ることになるだろう。もやし君は、そう予測した。

 しかし、今日の彼女に限っては、なぜかいつものような気配はなく、彼女はもやし君の方へとつかつかと歩み寄ってきた。


「あの、いつもこっちの方、ジロジロ見ないでくれます? キモいんですけど。」


 ――今日はついに、彼女の方からこういった心が折れてしまいそうな苦情が寄せられることにでもなるのではないか? 彼女による「あなたは私にとって迷惑な存在なのです」みたいなセリフが一瞬、もやし君の脳裏によぎった。

 しかし、彼女の口から発せられた第一句は、物静かで至って謙虚な調子であった。

 

「あの。……」

「あっ、はい。何でしょうか?」 

「あなたは、もしかして、もやし君ですか?」


 彼女から出た言葉があまりにも意外なことだったので、もやし君はすっかり呆気あっけにとられてしまった。

「えっ! なんで知ってるの!?」

 彼女はもう一度、訊き直した。

「もしかして、そうなんですか?」

 もやし君は我を取り戻すと、彼女の質問に対して冷静な素振りで応答した。

「はい。お見込みの通りなんですが、……だけど、どうして僕のことを!?」

「それは、……わたし、以前に学校の授業の課題でこの公園の歴史について調べることになって、その時に、もやし君の記事を参考にさせてもらったんです。」

「そう言えば、過去にこの公園の歴史とかを題材にした記事を投稿したこともあったかな。……そうですか。とりあえず僕の記事が誰かの役に立てたのなら、大変に光栄です。」

「あの時は、ありがとうございました。」

「特に何をしたというわけでもないですが、とりあえず、どういたしまして。それにしても、……どうして僕のことが、もやし君だって分かったんですか? もしかしてあなたは、……僕のアカウントは匿名垢とくめいあかなんで、僕の正体や素性とかをネットで晒したりしないでくださいよ。お願いしますよ。」


 彼女は微笑しながら、やや打ち解けたような表情になって返答した。

「心配しないで。それはありません。もやし君のあの記事を見た時に、もしかして、ここでよく見かけるあの人なのかな?って思ってたんだけど、あたしの推理が当たってよかったわ。」


 彼女の、おっとりとした穏やかな表情を見ていると、もやし君の方も何やらご機嫌な気分になって、ややくだけた調子になってきた。

「ハハハ、それはよかったね。おめでとう。だけど何も出てこなくて、すみませんねえ。」

「ううん、それはいいの。あたし、もやし君の記事には実は学校の勉強の方で何度かお世話になっていて、だから、一度面と向かってお礼を言っておきたかったの。」

「それはどうも、ご丁寧に。今どき律義な子だねえ。感心だよ。僕の記事のコメント欄にコメとか書いてくれる人がいなくなってからしばらくになるけど、君のような可愛らしい読者がいてくれることが分かって、これまでの努力が何だか報われたような気がして嬉しいよ。僕の方こそありがとう。」


 これまで彼女は、ベンチに座っているもやし君の前に立った状態で会話していたのであるが、彼女はここで、もやし君の隣にちょこんと腰掛けた。そして一旦、ややかしこまった調子になって、横の方から彼に向かって話しかけた。

「あの、……そう言えば、あたしの自己紹介がまだだったわね。あたしは、白川ゆり子。坂ノ浦トラピスチヌ女学院に通っていて、みんなからは”しらゆり”とか”ゆりっぺ”とか呼ばれてるわ。今さらだけど、はじめまして。よろしくね。」

「こちらこそ、よろしくお願いします。で、白川ゆり子さん、……しらゆりさんですか。これはまたずいぶんと清らかでお美しいお名前ですね。」

「あら、そうかしら。」

 彼女はそう言いながら、もやし君に向かってやや照れた様子で微笑みを返した。


「この土地については、実は僕はまだ不案内なところが多いんだけど、このへんには坂ノ浦トラ……えー、何だっけ? まあ、とにかくそういう学校があるんだね。それはそうと、しらゆりちゃんは中学生なの? 高校生なの?」

「あたし、背ちっちゃいから。……だけど、一応これでも高校3年生で、最近、18になったばかりなの。」

「へえー、見た目よりも意外とお姉さんだったんだねえ。僕がこの公園に訪れるようになったのは一昨年の秋くらいからで、その時にはすでに君の姿を見かけてはいたけど、あの時は中学生の子だとばかり思ってたけど、もう高校生になってたんだ。」


 しらゆりちゃんは、一瞬やや寂しそうな表情を浮かべたように見えたが、そこからすぐに微笑した表情を取り戻して、このように答えた。

「そうね。あたしは高1の2学期になってからこの公園に来るようになったの。何だか学校の生活に馴染めそうな気がしなくて、それで。……」

「これは何だか聞いてはいけないことを聞いてしまったのかな? ……ああ、ごめんなさい。申し訳ないです。」


 もやし君は、ここで何か気の利いたことでも言えないものかと迷いながら、脳裏で適切な文句を探すように努めた。

「あっ、そうだ! この図書館のカフェにでも今からちょっと行ってみないかい? しらゆりちゃん、最近18になったばかりだって言うし、そのお祝いも兼ねて何か甘い物でもおごらせてよ。」


 もやし君の苦し紛れの提案に対して、しらゆりちゃんはクスクスと微笑しながらも、やや申し訳なさそうな表情をして返した。

「気持ちは嬉しいけど、……あたし、今日はもう帰らなくちゃいけないわ。もやし君とは、また次も会えるでしょ? 甘い物はその時にいただこうかな。今日はもやし君とお話ができてよかったわ。思ってたよりも気さくな人でよかったわ。じゃあ、またここで会おうね! バイバイ。」


 しらゆりちゃんはそう言って、もやし君に向かって一度手を振ると、おもむろにベンチから立ち上がって、ゆっくりと歩きだした。彼女は数メートルほど歩いたのちに、もやし君の方に振り向くと、もう一度、今度は両手を大きく振った。そして去っていった。

 

 もやし君はこの日、”しらゆりちゃん”こと白川ゆり子という少女の知己を得ることになった。


 彼女と別れた後になってから、もやし君もまたこの公園を後にした。4月も終わりになると、日もそれなりに長い。公園の花壇のある緑地を通りかかると突如として、青、白や黄色といった鮮烈な色彩の塊が彼の視界に入り込んできた。可憐な花たちは今が花盛りなのか、とても美しかった。


 ここの花壇は歩道から眺めると、奥行きのある長方形をなしていて、その区画は、ちょうどトランプの5のカードのような感じで、前方のエリアに左右2区画、中央のエリアには真ん中に1区画、後方のエリアにまた左右2区画のパターンで1面を構成する形態となっている。花壇は芝生の中で前後斜めに距離をとった場所に2面が造園されていた。

 1面の広さはおよそ4m×12mくらいだろうか、また区画と区画の間は人が一人が歩けるくらいの幅の通路をなしていた。

 1面の前方のエリアに位置する右側の区画には、ネモフィラが清澄にして清楚な青一色に、また左側の区画には、ノースポールとムルチコーレが左右半々に白と黄色のコントラストをなして、それぞれ咲き誇っていて、これらが織りなす明るく鮮やかな光景が、彼の注意を惹いたのだった。

 そこから花壇の奥の方へと足を踏み入れて行くと、中央のエリアに位置する真ん中の区画にはスミレが黄色や紫色の花を咲かせている。また、中央エリアの左右にある縁側には、長細い小さな花壇も作られてあって、そこではピンクのデージーが無邪気で陽気そうに咲いていた。

 さらに奥の後方エリアは、手前エリアの左右の区画を入れ替えた形になっていて、左の区画にはネモフィラ、右側がノースポールとムルチコーレの区画となっていた。

 

 花壇に色鮮やかに咲きあふれる可憐な花たちを鑑賞して回っているうちに、突如として、もやし君は体の底の方から何だか不思議と力強い喜びが湧き上がってくるのを感じた。このことは彼には思いもよらぬ出来事であったが、しかしそれは大変に長い間にわたって、彼の中からはすっかり忘れ去られていた感情のようであった。


 少し後日になってから、あの日に見た花たちの花言葉が何となく気になってネットで調べてみたところ、ネモフィラは「どこでも成功、可憐、あなたを許す」、ノースポールは「誠実、冬の足音、高潔」、ムルチコーレは「高潔、誠実、誠実なあなたでいて」、そしてスミレは「謙虚、誠実、慎ましい喜び」、デージーは「純潔、平和、希望、無邪気、無意識」などであった。

 ただし、同じ花でも花の色によって花言葉も変わってくることもあるという。

 もやし君は、ここでいったい何を思ったのか、ついでに白いユリの花言葉ついても調べてみた。それには「純潔」「威厳」などの意味が記されてあった。それからある記事には、キリスト教文化圏では白いユリの花(マドンナリリー)に聖母マリア様をイメージするのだという、そういったことが書かれてあった。


 さて、これらの花言葉が果たして彼に対して何らかの暗示や啓示を与え得るものなのかどうなのか、それは分からない。どうやら、もやし君は「しらゆりちゃんとの出会いには、きっと何か意味がある!」という確信を得たい、そういった気持ちにあるのだろう。しかし、それは彼の解釈の仕方次第でどうにでもなりそうな、どうでもいい話に過ぎないと言ってしまえば、結局はそれだけの他愛ない話ではある。

 しかし、それにしても、――あの日が彼にとっては、何だか大変に良い日であったことには間違いなかった。

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