【3号車】煩悩の子(その3)~「ありふれた虚しさの果てに」

【4】

 ……実存的不満、つまり「生きがいのある人生の意味を求めての持って生まれた努力に関する幻滅」

               V.E.フランクル 訳:山田邦男、松田美佳

                  『それでも人生にイエスと言う』(春秋社)


 何やらこなれていない日本語で、悪文めいた文章ではあるものの、これが言わんとしていることは、人生の途上において、それまで経験したことのなかった激しい空虚感に陥って囚われの身となってしまった、もやし君の状況をよく言い当てていた。


 あの大きな書店では、もやし君はまず、ふと手に取ってから立ち読みするや否や、彼の魂に、震えとともに微かな光明をもたらしたV.E.フランクルの『<生きる意味>を求めて』を購入した。それと同時に、大学を卒業した直後に就職浪人をやっていた頃からタイトルと概要だけはそれとなく覚えていたE.フロムの『自由からの逃走』やD.リースマンの『孤独な群衆』などの書籍も、これを機に併せて購入した。


 V.E.フランクル(1905~1997)は、『夜と霧』の著者として世界的に知られているらしい。フランクルは第二次世界大戦の時代を生きた人で、ユダヤ人だった。オーストリアの首都ウィーンに生まれ育ち、社会に出ると精神科医の仕事に就いた。そして、彼はナチスの強制収容所から奇跡的に生還することができた人たちの一人だった。 

 『夜と霧』は、彼の強制収容所での体験を心理学者の視点から冷静に語られた記録であり、その書では強制収容所の凄まじい悲惨な状況よりも、むしろ想像を絶する極限状態の中においてでさえも、なおも苦悩を超越して神性を顕現させた人たちの方に光を当てて描かれていた。


 もやし君は、この本を30歳になってから初めて読んだのであったが、本書は平和や人権、人間や人生などについて真面目に考えるうえで大変に有意義で奥の深い内容となっているので、まだ読まれていないという人がいれば、是非とも早く読まれた方がよいだろう。


 『夜と霧』の本文中には、ニーチェの次のようなアフォリズムが引用されていた。


    「何故生きるかを知っている者は、

              殆どあらゆる如何に生きるか、に耐えるのだ。」

             

 もやし君は、この言葉を鵜呑みにした。そうして、それ以来、彼は「生きる意味」を探求する者となった。――というよりは、むしろ「生きる意味」の問いに捕まってしまった。――その方が実情であろう。


 * * * * * * * * * * * * * * * * * * 


 彼をさいなんで止まない激しい虚しさ――いわゆる彼の「実存的空虚」について、彼が十分に納得できるような答えを提示してくれる者は、当時の彼の周囲にいる人たちの中には誰一人としていなかった。それゆえに、彼は自分自身の手によってこの問題に取り組まざるを得なくなった。


 この努力は大学受験や就職活動、さらには社会に出てからの実務の時とは違って、誰からも歓迎されるようなことはなかった。しかし彼は、おそらくこれは単なる趣味や道楽を超えて、生命のレベルから求めていることだったのだろう。彼は、あたかも自らの生命を求めるかの如く、実存哲学、社会心理学、宗教などの諸々の分野に関連する書籍について、次々と貪るように読み漁った。

 彼はここに希望の光を見ていたのであるが、この哲学病・読書病の過程において、彼はこれらの書物に触れていないと彼自身、もしかすると精神的に崩壊しかねないような危うさの中にあった。この行動の実情について言えば、ほとんど健全さを欠いたもので、ややもすれば病的なものであった。


 それまで本と言えば、マンガとエロ本くらいしか積極的に関わってこなくて、活字ばかりの書物ついては試験や実務のために仕方なく手に取っていた。それまでそんな調子の彼なのであったが、この期に及んで、いざ「生きる意味」への問いに捕まってしまうと、今度は、にわかに凄まじいほどの読書家へと豹変した。 


 当時の彼は、哲学や社会学などの書籍を躍起になって読書していくことによって、いわば「人生の偉大な教師」たちから、これまで彼が受けてきた教育の中では教わるようなことのなかった様々な教えを授かった。それによって、彼は「虚しさ」に対抗すべく理論武装に努めていた。この頃の彼の活動について一言にまとめるとすれば、それは「ニヒリズム研究」と呼んでも差し支えないだろう。


【5】

 もやし君が「ニヒリズム研究」によって自らの魂を救済しようと努め、魂の平安を切望しているその一方で、彼の内から湧き上がってくる幸福を求める空虚な衝動は、

彼を頽廃と破滅の道へと絶えず誘惑した。中毒患者のための更生施設にでも収容されることがない限り、彼が野放しの状態にあって、意志の力によって全くの独力で夜の遊びから足を洗うようなことは、その時の彼には到底不可能なことだった。


 長い孤独の生活によって、すっかり精神がやられてしまって以来、彼の内面では、天使と悪魔が十年戦争の真っ最中であった。彼の精神は激戦地となっていた。絶えることのない砲撃や銃撃、悲鳴や金切り声の中にいて、すべては荒廃して、疲弊していた。ほとんど暗黒の時代だった。相変わらず彼の魂はさまよい続けた。

 彼が遊興で散財する度に消費者金融などから借り入れた金額は、数年間で1千万円近くにまで膨れ上がり、返済も自転車操業の状態に陥っていた。そのことがまた彼の精神を滅入らせた。

 目の前が真っ暗になるような体験を何度かした。過度のストレスから偏頭痛に苦しめられることも何度かあった。これは頭痛・生理痛用の市販の鎮痛薬を服用することで辛うじて対処することができた。この経験から「生理中にバファリンがないと生きていけない」という女性の苦しみの訴えが分かったような気がした。

 そう言えば、2000年の新春の頃に購入したパソコンは、遊興費の捻出のために、すなわち遊ぶ金欲しさに2002年の春には売却してしまい、それ以降は再びネット環境なしの生活に戻った。


 いわゆる「実存的空虚」、そしてそれに起因する麻薬的な悪循環によって膨張した借金の問題によって、そのうち彼は、うつ病になってしまい、療養のため仕事を休職するまでになった。

 借金の件については、結局、後になって都道府県の弁護士会が主催する法律相談に足を運んで、そこで弁護士に泣きついて自己破産することで解決することができた。

その時には、過度の重圧となっていたストレスから突然に解放されて、一時的に「離人症」と呼ばれるような精神状態に陥ったりもした。彼はやはり病気であった。

 借金の問題は彼の精神状態に対してかなりの重荷になっていたのは確かであって、それが自己破産という形で解決されたことは確かに一つの希望ではあったが、しかしそのことによって、彼の「虚しさ」の問題までを解決するには至らなかった。


 数年が経っても症状が回復する見込みはなかった。この間における彼の精神状態についてざっと述べてみると、365日のうち300日くらいは、日常の生活は精彩を欠いてしまってリアリティーを喪失し、世界はただぼんやりと虚ろとしていて、ほとんど死んでいるようになって生きていた。「ニヒリズム研究」がなければ、この時点で彼は自殺していたか、そうでなければ犯罪者になっていたかもしれない。


 * * * * * * * * * * * * * * * * * * 


 休職中は、関西の都会から遠く離れて、福岡県の片田舎のY市にある実家に何度か帰省する機会もあったが、それはあくまでも一時的なものでしかなかった。

 帰省した時は、昔からの友人たちに久しぶりに会うことが一番の楽しみで、そしてそれが一番の療養にもなったが、その一方で、もやし君の両親は、彼の病気については受け入れ難い様子であった。彼の病状よりも復職のことばかり気にしていた。


 また、もやし君には齢の離れた兄がいた。その当時、兄は定職に就いているような様子はなく、その上、それなりの借金を抱えていたのだろう。もやし君に近くの銀行に行って口座を作って100万円の融資を受けるようにしつこく迫ってくるのだった。

 兄は、要領を得ない支離滅裂な説明を試みては説得に努めている様子であったが、要は、弟に借金の肩代わりをさせたいらしい。この兄が企んでいることについては、よく伝わってきた。もっとも、もやし君が自己破産してからは、この問題は解消されたわけであるが。

 

 何はともあれ、もやし君の実家で暮らしている家族たちがこんな状態だったので、彼は実家で長期間にわたって療養することには、もはや無理があるものと判断した。彼は、関西の都会に戻って、市街地の片隅にあるワンルームマンションの自室にこもって一人きりになって、療養に努めざるを得なかった。

 とはいえ、彼のこのような状態は、精神衛生上の見地からすれば、どう考えても好ましいものだとは言えない。もしできることなら、彼は、病院に入院して療養するのが一番の正解だっただろう。


 * * * * * * * * * * * * * * * * * * 


 もやし君の休職中の帰省に係る話について、もう一つ挙げておきたいと思うのは、そう言えば、彼はこの機会に一度、寝台特急「彗星」に乗車したことがあった。


 2004年11月のことだった。当時、関西~九州を結ぶJR路線の区間では、GWや盆休み、年末年始などの繁忙期に当たる期間を除いた通常期や閑散期の時期に、新幹線の普通車指定席か寝台特急のB寝台車のどちらかを利用できる往復割引切符が発売されていた。もやし君は、この切符を使って帰省した。

 往路は新幹線を利用した。そして復路で小倉から新大阪へと向かう際に、寝台特急「彗星」を利用した。この時にこの列車に乗車したのは、彼なりに何か思うところがあってのことだったのだろう。

 客車寝台特急、いわゆる「ブルートレイン」に乗車したのは、今回が初めてというわけではなかったが、それでもかなり久しぶりのことだった。この時以前に鉄道の寝台車に乗車したのは、たしか社会人となって関西の都会で新しい生活を始める以前のことだったので、もやし君にとっては本当に久しぶりのことだった。

 

 上り方面の寝台特急「彗星」(南宮崎発・京都行き)が小倉駅のホームへとやって来たのは、23時を過ぎた頃だった。なお、この列車は次の門司駅で長崎発・京都行きの寝台特急「あかつき」と併結運転となる。

 久々となるブルートレインの乗車に、もやし君の胸中には多少のワクワクした感情が伴った。まだ彼が少年だった頃に抱いたような新鮮にして強烈な印象には到底及ばないにしろ、この時、人生にすっかり倦み疲れきっていた彼が求めていたのは、まさにこの感情なのだった! 

 この頃の「彗星」「あかつき」の編成には14系15形の2段ベッドの寝台客車が使用されていた。この車両は1970年代の終わり頃に登場したらしいが、それからすでに四半世紀の歳月が経過しており、それなりに老朽化が進んでいた。1980年の新車が2004年になっても使われ続けているわけで、当時の「斬新さ」や「華々しさ」というイメージは、幾星霜の月日を経た頃には「郷愁」へと移ろい変わっていた。


 もやし君の席(2段ベッドの下段)の向かいの席にはすでに先客がいて、紙パックの900ml入りの焼酎を湯吞みに注いでは、ひとりベッドの上で、ささやかにして野趣あふれる酒宴を催していた。ずんぐりとした体型の角刈り頭の中年男で、各寝台に備え付けの浴衣は着ておらず、くすんだ緑色をしたTシャツと黒の短パン姿で胡坐あぐらをかいていた。”西郷どん”みたいな濃い目の九州男児を絵に描いたような風貌だった。年齢は40代くらいだろうか。

「このおっさんは、出稼ぎや再就職の人なんかな?」 すでに鼻の先と頬っぺたを赤くさせては酔っ払っている様子で、また下品そうにも見えるこの中年男に対しては、あまり好い印象を抱くことができなかった。もっとも、この中年男がこのような姿に映ったのは、この時におけるもやし君自体が「」に取り憑かれていたせいもあっただろう。結局、もやし君が大阪駅で下車するまで、この中年男とは特に会釈をしたり、会話を交わすようなこともなかった。 

 しかしながら、この男が、そこはかとなくうらぶれた哀愁を漂わせているようにも見えたことについては、同情と親しみの念を禁じ得なかった。


 もやし君は、通路の窓側に装備されている折り畳み式の簡易椅子を引き出しては、そこに腰掛けた。そして煙草に火をつけ、車窓から外の方を眺めた。すでに深夜なので景色のほとんどは暗闇なのだが、それにしても、窓ガラスの汚れ具合が尋常ではなかった。泥水で雑巾がけをして、そのまま放置したような跡がガラス一面にへばり付いていた。夜が明けて、朝の車窓から見える景色は、濃い黄砂で視界が遮られたようにぼんやりとしていた。

「まともに洗車してねえな、コレ。」 彼はつぶやいた。

 

 この時に乗車したブルートレイン「彗星」号は、もはや少年だった頃の夢や憧れを乗せてはいなかった。ただ、空虚で殺伐とした現実だけが、そこに横たわっていた。

 列車が大阪の方へとだんだん近付くにつれ、彼の「終わりなき日常」――孤独と退屈、不安と苛立ちの、心が絶えずヒリヒリするような生活に再び戻ることになるのだ。――に対して戦慄し、身震いするような感情が次第に募っていった。


 彼は、この機会に人生に対する活力をかき立てるようなきっかけを見つけ出そうと努めてみたが、その試みはうまくはいかなかった。結局は幻滅の体験が、またひとつ増えたに過ぎなかった。


 寝台特急「あかつき」「彗星」は2005年10月1日をもって廃止された。かつては、関西と九州方面を結ぶ花形夜行列車には、「明星」「あかつき」「なは」「彗星」、それに「金星」(これは名古屋発着)などが存在していたが、それも次々と姿を消し、「あかつき」と「彗星」を最後に、ついには全廃されてしまった。


 * * * * * * * * * * * * * * * * * * 


 他者あるいは社会との交渉がほとんど無くなったような生活が、数か月間の長期間にわたって続くと、ついには「楽しい」と思える感情が麻痺したような心理に陥ってしまう。――もやし君は、逼塞ひっそくした療養生活の中で、そのようなことを体験した。


 少し大きな怪我をして数針縫うくらいの軽い手術を受ける時などに局所麻酔の注射を打たれた。そのような経験をした人たちは少なからずいるだろう。麻酔が効いて患部が無感覚になった時の腫れぼったいようなブヨブヨとした、なのに何も感じない、あの何とも言えない不気味な心地悪さ――精神的な症状においても、感情が麻痺してしまったような時には、心もそれに似た状態になるように思えた。

 彼は、無気力感と激しい退屈の気分に慢性的に苛まれ続けていた。空虚感と苛立ちで心がひりつくような気分を、ほとんど毎日のように味わった。それは地獄の苦しみに通じるような味わいだった。

 そうして、もやし君は「暇」と「退屈」とが、質的には全く異なるものであることを、この頃の生活において身をもって痛感することとなった。「退屈」は十分に社会病理の温床たり得ることを実感したのだった。


 人生に生きがいに値するものを何も見出せずに、それで生きるのが全く嫌になってしまって自殺してしまうようなケースにおいては、これまでに述べてきたような条件を満たしておけば、自殺する動機としては十分なのかもしれない。中には発狂してしまう人や、犯罪に走ったりする人もいるだろう。

 このような経緯からして、彼の休職中における療養生活は、ほとんど苦行を伴った勤行ごんぎょうのようなものになっていた。それは「孤独の修行」に他ならなかった。


 この時期の生活において、彼は、彼の日常に活力をもたらしてくれそうな手掛かりを見つけ出すことが、なかなかできなかった。どうしてもできなかった。

 もしかすると、これには実は、神様に何らかの意図があって、わざとそれを隠しておいたのかもしれない。


 彼のうつ病と休職の期間は予想以上に長引いた。いずれにしても、そのうち何らかの形で処分されて免職となることは、もはや時間の問題でしかなかった。また、彼のことを問題社員として見ている上司からの勧告などもあって、そんな中で彼は、自らの態度を決めなければならなかった。決心しなければならなかった。


【6】

 休職中は、会社の産業医と面談する機会が何度かあった。もやし君が面談した産業医は、見た目は初老あたりの年齢かと思われた。ボサボサな白髪頭の恰幅の良い男性で、ざっくばらんな話し口に好感が持てた。

 産業医との面談では、健康状態や生活状況などについて、小一時間ほどいろいろと話すのであったが、面談が終了する頃になって、この産業医は、もやし君にその日の内容を総括するような質問をするのが常であった。産業医によるこの「ファイナル・クエスチョン」は、その時に面談した内容を踏まえてのものなのだろうが、休職期間を初期・中期・後期の各段階に区分すると、それは「世俗的な幸福」から「心理学的な問題」、そして「宗教的な問題」へと次第に深化していったのだった。このことはまた、もやし君のその時々の関心事の変化を示していたと言えるかもしれない。

 

[初期]

――「あなたの虚しさは彼女ができたくらいで解決するようなものなのですか?」


 この質問については、短期的に見れば「イエス」とも言えそうだが、長期的に見た場合は、答えは「ノー」だろう。もし仮に、彼に恋人ができたり、結婚したりするようなことがあっても、彼は人生のどこかで「実存的不満」の問題に直面することに、きっとなったことだろう。


[中期]

――「あなたのうつ病は、薬で治せる病気なのですか? それとも人生観にまつわる問題なのですか?」


 この質問は、もやし君の場合については、当然、後者の方に該当するだろう。

「人生観の問題」に起因する神経症については、神経症患者の中においては少数派となるらしく、世間からの認知も今一つ普及していないように思われる。それが患者を余計に苦しめることになったりする場合もあるのだが、このようなケースでは、投薬治療によって完治に至ることはまずないだろう。これについては「」が「絶望に効くクスリ」として最も作用するケースであるとも言える。

 なお、社会の認知と普及を促すための試みとして、このタイプの患者に対する心理療法プログラムの一例について、その詳細を【5号車】「付録」で紹介しておいた。興味を持たれた方は目を通されるとよいだろう。


[後期]

――「あなたが、虚しい虚しいと言っている、それはつまり『空(くう)』なのではないですか?」


 もやし君の「実存的空虚」と仏教の「くう」が繋がっているとは、これまで彼の全く思いもつかないことだった。この考え方は、彼には大変に新鮮なものとして感じられた。この日の面談が終わって帰宅すると、すぐに辞書を開いて、「くう」の意味について調べてみた。


「もろもろの事物は縁起によって成り立っており、永遠不変の固定的実体がないということ。特に般若経典や中観派によって主張され、大乗仏教の根本真理とされる。」

                            『広辞苑』より


 これをきっかけに、もやし君は仏教思想にも興味を持つようになった。また彼は、今の「虚しさ」をどうにかするためには、彼自身が一度「空(くう)」になってみる、すなわち今の自分の人生をゼロから再びやり直す必要があるものと考えた。現状維持によってはもはやどうにもできなくなってしまったような問題については、いったん原点に復帰してみて、そして、そこから人生を再びやり直す。――そうするのだ!


 このことについて、仏教の言葉を借りて言い表すならば、「色即是空、空即是色」を自らの人生の中で実践する。――そういった解釈もできるかもしれない。


 この先、いつかは死ぬこと以外には自分の人生がどのようになるのか全く見当もつかない。しかし、この時のもやし君にとっては、今の生活と環境から脱出することが最高の希望であり、最善の対処法であるように思われたのだった。

 結局、彼は10年あまり勤めていたその会社を「一身上の都合」により、すなわち自己都合退職することにしたのだった。


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