3-11.
「あなたは珈琲ってどんなふうに育てるか、知っているかしら」
マスターが珈琲を淹れてくれると言うので、ムーウはブレンド珈琲を、ヴァーラはカフェオレを注文する。掛け時計の音が静かに鳴っているおだやかな時間に二人はカウンターチェアーへ隣りあって座り珈琲を待っていた。
「いえ……考えたこともありませんでした」
「現代ってそうよね。自分が口に入れているものがもともとどんなかたちをしていて、どうやって作られたのか、知らないのよね。珈琲豆が木になるものだとは知っていた?」
「はい」
「うふふ」
この美女がアナログアンブレラの美味しい珈琲豆を作っているとマスターから聞かされた途端にムーウが態度を変えたのでヴァーラは面白がっているようだった。でも仕方ないとムーウはおもう。出会いがしら身長をからかわれたりいきなりキスしてきたりしたら誰でも無礼だと感じてしまう。ほんとうはこんなに素晴らしい学者さんだったとしてもだ。
「珈琲はね、高地でとれるものが良質とされているの。あたしは標高約二千メートルの高原でつくってるわ」
「高原……」
確かコーヒーノキは熱帯性植物ではなかったか。ムーウは自分の記憶に自信がなくなってきた。熱帯性植物を高地で育てると寒いのではないだろうか。山のうえは寒い。基本的なことだ。
「うふふ。そうね、珈琲は熱帯性植物だからもちろん限度はあるわ。霜とかにも弱いわね。特に、アラビカ種は味と風味に優れているんだけど、木がひ弱なのよね。高温多湿がだめ、直射日光もだめ、低温もだめ。困っちゃうわよね。だから原則は熱帯の高原で作るのだけれど、加えて、夜に寒くなる場所がいいのよ」
「寒く」
専門的な話になってくると口調が変わって学者らしく見える。
「こういった、育てるための条件や生育環境のことを『テロワール』というの。気温が十五度から二十五度くらいで、日中雲や霧がいい感じに日射しを遮ってくれて、日中と夜間に寒暖差があるところだわね。美味しい珈琲になるのよ。寒暖差がね、香りを育てる。あたたかさと寒さを往復して、時間をかけて、香り高く上質な油脂分をためこむ」
ムーウは興味深くヴァーラの話に聞き入った。
「美味しい紅茶の栽培もちょっと似てるわね。標高が高く一日の寒暖差がおおきいところがいいとされているわ。ねえ?」
はらりとまたこぼれ落ちた髪を背中のほうへ放って、ヴァーラはムーウの目をのぞきこんだ。
「ムーウちゃん? 人間だってそうじゃないかしら?」
「え……」
「幸と不幸を何度も往復し、長時間なぶられて、本人の意思とは無関係に両極端へ揺さぶられ続けて、こころに質のいい油脂分を蓄積させていく。人生の豊かさを知っていく。寒暖差が人間の感情を育てるのよ。片一方だけではいけないわ」
「寒暖差……」
「そうよ。画一的な人間はつまらないものだわね。いいかしら? 両方、必要なのよ……。暑いも、寒いも、楽しいも、苦しいも、綺麗も、醜いも、両方あってこその豊かさだわ。あなたは苦しみと引き換えに『深く思考できる人間』っていう資格を得たの。それは価値のひとつだわ。……あなたのなかにある質問の一部に答えられたかしら?」
息をのんでムーウが顔をあげると美女は妖艶に笑って言う。
「あーら、あなた、なにか悩んでいますって顔しているわよ? ごちゃごちゃと小難しいことを理論立てて苦悩していそうだわ」
「そんな、ことは……」
「こんなに目を腫らして」
細く長い指先がムーウの瞼を撫でた。
「ムーウちゃん、小説を書いているそうね。なにごとも壊れかけくらいが頃合だと言っておくわ。例えばね、コーヒーノキは湿度に弱いからさっき説明したようなテロワールは過酷なのよ。けれどもそれが美味しいの……。例えば、過酷な高原で熟した実を収穫する、その『熟す』とは、腐る直前という意味なのよ……。分かるかしら? 壊れる一歩手前が人間に一番好まれる。あなたも小説を書くなら今がいっとう食べ頃なのだとあたしなんかはおもうわ……」
「――ほうらお前さんら、珈琲できたぞ」
マスターがほがらかにいつもの白いソーサーと珈琲カップを二人の前へ置いてくれた。ヴァーラのほうにだけ砂糖とスプーンも添える。掛け時計がおだやかな時間を静かに刻み続けていた。
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