3-10.
◆
巨乳だった。
ものすごい巨乳が目の前でたぷんと揺れた。
これはずいぶんと肩が凝るだろうなあと悠長にそんなことをおもっていると、
「ふぅん……」
色っぽい吐息が顔にかかって同性なのにどきりとしてしまう。と、やっと視界いっぱいの巨乳が離れてくれてムーウは心底ほっとした。
「実物は国営チャンネルで見るよりもずぅっと可愛いのねぇ、ちっちゃくて」
「……ちい、さく、ありません」
「あらぁ、ちいさいわよ。百三十センチ?」
「百四十二センチです!」
「ほぅら、ちいさいじゃない」
「う」
「可愛いわぁ。食べちゃいたい」
なんと失礼な女だと内心憤慨していると突然唇にやわらかい感触がしてそれがあまりに唐突だったしそれに、
「……あっ、んっ、んんん!?」
吸いつくされるような、とろけるような、なにもかもかきまわされるような、
息がうまくできなくて、
「んっ……っあ……ん……」
ちょ、ちょっと待って――!
からだ中のちからが抜けそうになるのを女に支えられ、
なんでこんな、
――ごすっと鈍い音がした。唇が離れ、ムーウはぽわんと紅潮してしばし思考が停止した。
「なぁにすんのよ、ナモ。女の頭にげんこつを落とすなんてひどい男だわ。もしかして嫉妬かしら。心配しなくてもあなたがあたしの、い・ち・ば・ん・よ?」
「なあにが嫉妬だこら。うちの客にセクハラすんな。通報すんぞ」
「セクハラだなんて失礼はどちらさんかしら。挨拶よ、挨拶。ねえムーウちゃん?」
こんな挨拶があってたまるかっ……!
女は厚みのある唇を真っ赤な舌で緩慢に舐めると妖艶な微笑を浮かべた。おおきく波打つゴージャスな金髪がこぼれ落ちて顔にかかっているのを荒々しい動作で搔きあげ、邪魔そうに背中のほうへ放った。
美しい女だった。同性のムーウも惚れ惚れするほどの圧倒的な美だ。大胆に胸を見せるタンクトップにジーンズのパンツをはいて、そのうえから白衣を羽織っている。白衣は何故か土や泥でところどころ汚れていた。
メイクもしていないようだし髪も流れるまま任せていてずいぶんとラフな格好だったが、街を歩けば誰もが振り向くだろう。年齢は三十代前半ほどか。若く見えているに違いないから三十代後半かもしれない。
マスターと親しげに話しているのを見ると古い友人という印象だった。
「ど、どちらさまでしょうか……?」
キスの余韻がまだ抜けきらない。一言しぼりだすので精一杯だ。そんなムーウの様子を見てまた女が鷹揚な笑みを浮かべるので癪だった。
店内はマスターが気に入っているあのジャズのCDが流れていて、サックスの高音が震えるように響いてくる。
珈琲の茶褐色の香りが隅々にまでしみこんだカウンターテーブルのなめらかな木目が、天井からぶらさげられた暖色の照明に照らされていて、洗ったばかりの濡れた珈琲カップがかごに干してあり、細かく切られた小松菜にちいさな口を顔ごと突っこんでいるリクガメがいて、先ほどマスターが軽く水をあげたばかりの観葉植物がいくつかあって、小洒落たレンガの壁にかけられた数枚のモノクロ写真、壁一面の古書と、十本ほどのほんとうの傘、いつもの安定的なアンティークの店内だった。
だが地下だから分からないだけでいつもよりだいぶ時間帯が早く、外にでればまだ太陽は高いところにあった。学園は講義中だ。ムーウは今日学園をサボってこの珈琲店へ来てしまっていたのだった。
美女が笑いながらマスターのほうを一瞥した。
「あたしが誰なのかですって? それはもちろんナモの……古い友人、よ? うふふ」
友人、のところで意味ありげにウインクする美女に容赦なくマスターがげんこつを落とした。
「こいつあただの友人だ。あと豆の提供者だな」
「豆、ですか」
「ツォウ・V。お前さんの先輩さ。紅龍国立学園人文科卒業の植物学者だ。変わりもんでな、無駄に金かけて魔法を使わずいろんな植物育ててるっつーんで、珈琲豆を提供してもらってる」
確かにアナログアンブレラの非魔法珈琲は美味しいとおもっていたが、そこまで遡って非魔法方式だったとはおもってもみなかった。ムーウは純粋に驚いた。改めて彼女を見る。
白衣にところどころついた土や泥はこのからだで直接植物を育てているせいなのだと分かる。非魔法で育てているということは気温や雨量に珈琲豆の質が左右されるということだ。非効率的な作業を何年も丹念に続けているということだ。そしてその分珈琲豆は魔法分子に触れないで育つから、味が奥深くなるのだ……。
魔法は、味や音や記憶や関心などの「物事の関係性」を奪う性質を持つ。
「かみさんがよ、ツォウの豆をすんげえ気に入ってたんだ」
「まあ、名字なんてよそよそしいわ。ヴァーラよ。よろしくねムーウちゃん」
「はい。ヴァーラさん、いつも珈琲を美味しくいただいています。ありがとうございます」
「あら。可愛いのね」
微笑むとちろりと覗く真っ赤な舌がなまめかしい。
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