3-09.
◆
部屋は暗い。ジャケットも脱がず、パンプスも履いたまま、髪が頬に張りつくのも構わずにじっと横たわっていると、しんとした夜がからだの隅々にまで浸透してくるようだ。
どんより曇った空がカーテンをオフにした窓から見渡せる。黒ずんだ闇のなかに月は見あたらない。この寮はガラス張りの巣だ。黒い空に浮かぶ巣のなかに閉じこめられて、夜に染められて、こころがゆるやかに冷えきっていく。
――あのやまない泣き声がわたしの妻の首を絞めたのだ。
ここちよい弾力のあるベッドとやわらかいふくらみの羽毛布団へ無造作にからだを投げだして、ムーウはじっとしている。今は一歩も動いてはならないとおもう。制服が乱れるのも気にしている余裕は無い。どうやって珈琲店から帰ってきたのかも定かではない。五月の夜は寒いというほどでもないはずなのに、からだ中の震えがとまらない。はあ、はあ、荒い呼吸の音が他人事みたいに耳に入る。今は動いてはならない。だからじっとしている。
――N・ゴドア社長! 泣き声とはなんのことでしょうか!? 奥さまはなぜ亡くなられたのですか!
――まだ新婚なのにどうして……。
――ドアノブとマフラーを使って自ら、というのは事実ですか!
何度見たか分からない国営チャンネルの古いニュース映像が、ベッドのうえに空中ディスプレイでおおきく映しだされている。暗い部屋のなかでそれだけが鮮明にひかりを放つ。はあ、はあ、荒い呼吸音が報道陣の無遠慮な質問に掻き消えていく。
検索すればいくらでも出てくる。
それを集められるだけ集めた。
――エメリアノさんはなぜ自らそのようなことをなさったのですか!
――あんなに仲がいいご夫婦だったのに社長は理由をご存知ない!?
じじっ、とノイズが入る。
――あのやまない泣き声がわたしの妻の首を絞めたのだ。
――N・ゴドア社長! 泣き声とはなんのことでしょうか!? 奥さまはなぜ亡くなられたのですか!
――まだ新婚なのにどうして……。
短いニュース映像がひたすら繰り返される。だってこんなものでもたった一言だけしか持っていないのだ。ムーウが父親からもらった言葉は、この一言しかない。これ以降彼は娘など存在しないかのように振る舞い続け、約十年後にムーウが期限切れのグリクトをポケットのなかで握りしめて国営チャンネルへ乗りこむまで、N・エメリアノが産後鬱だったことはほとんど知られていなかった。
――あのやまない泣き声がわたしの妻の首を絞めたのだ。
ぼうっと部屋でひかる映像が短く繰り返されていく。
じじっ。
――あのやまない泣き声がわたしの妻の首を絞めたのだ。
じじっ……。
――あのやまない泣き声がわたしの妻の首を……。
半開きのムーウの瞳に映像が反射して繰り返される。
じじっ……。
――あのやまない泣き声が……。
今ほんの一歩でも動いたら、そのまま自分がなにをしてしまうかは分かっていた。
動いてはならない。ムーウはじっとしている。
…………。
………………。
……映像が数十回繰り返されてもうわけが分からなくなった頃にムーウは泥のように重たいからだを引きずり起こした。無表情でベッドからずるり落ちていくと、這いつくばってライティングビューローへ手を伸ばす。天然のマホガニー材にすがりついて、荒い呼吸をする。
遠い……いつもの引き出しをのろのろと引っ張るとカッターが転がりでてくる。
じじっ……。
――あのやまない泣き声が……。
キチ、キチ、キチ、どんよりと曇った部屋に鈍い刃のひかりが伸びていくのが映る。
手が重たい。
鉛のようだ。
死にもの狂いでカッターを握りしめ、左腕へあてていっきにめりこませる。気持ちの悪い音が耳の表面を撫でてどくどく血があふれだす。ず、ず、ず……感情をなくしたい。うまれたところから消えてしまいたい。ぼたたたっ……鋭い痛みを感じているはずなのに、プールの底でぼやけた音を聞いているかのように、なにもかもが曖昧でよく分からない。
こんなのおかしいとおもうのだ。赤黒い断面を冷静に見おろす。足りない。物事の境界線があやふやになっていく。自分はからっぽだとおもう。刃を振るう。いわれある暴力を死ぬまで受け続けたい。振りおろすたびに赤黒い断面が数を増やす。
正解は何処に在るんだろう。刃を振るう。罰を受けるべきだとおもう。自分が今切り裂いているものはなんだろう。薄暗がりのなかで漆黒に見える血が肘へつたって垂れる。ざ。ずっ。足りないとおもう。ぜんぜんだ。こんなのじゃあぜんぜん、
罰にならないよ。
陶器の割れる音が響いた。
次の瞬間に右手を叩かれてムーウはカッターを取り落とした。両手首を強くつかまれ動かせない。からだを激しく揺さぶって抵抗したが、おおきな手に乱暴に取り押さえられ、とても抗えるものじゃなかった。
いつのまにか明かりがついていて、毛足の長い絨毯に赤黒い血がたくさんしみているのが見える。そのうえにカッターが落ちていた。
「返して!」
ムーウは叫んだ。
「返してよ!」
「――その命令には応じかねます、お嬢さま」
使用人の分際で彼はきっぱり断ってきたのでムーウの目から涙がこぼれ始めた。
「離して!」
「いいえ。お嬢さま」
ユアンのべっこう色の目が片方だけ赤く明滅する。しかと主人を見つめ、彼はもう一度きっぱり「いいえ」と言った。
じじっ。
――あのやまない泣き声がわたしの妻の首を絞めたのだ。
まぶしいほど明るくなった部屋のなかで、ひかりの境界線をなくした空中ディスプレイの古い映像が、自動的に明るさを調節して鮮明な輝きを取り戻した。
ムーウはひとしきり暴れてみたが護衛人の手はぴくりとも動かない。諦めるしかなかった。そうこうしているうちにユアンは呆気なくムーウの腕を治してしまう。きらびやかなシャンデリアに照らしだされるムーウの腕は傷ひとつない綺麗なものになった。
じじっ……。
――あのやまない泣き声がわたしの妻の首を……。
泣いてはならないとおもったのに涙がとまらなくてムーウは困り果てた。自分の泣き声がお母さまを殺したのだ。泣いてはならないとちゃんとおもっている。ほんとうにちゃんとだ。なのにどうやって泣きやんだらいいか分からなくて、とめようとすればするほど嗚咽が迸る。
無理に息をやめようとした。
広い胸に抱き締められた。
掻きいだかれてムーウはわけが分からなくなる。
なにも分からなかった。
ただただ泣くのをやめたかった。
「お嬢さま。俺は機械ですから我慢される必要はありません。嫌ならあとで記憶を消去なさいませ。今は俺に話してください」
「ううう、うう」
「お嬢さま。すべて俺が受けとめます」
ああそっか、とおもった。このひとはムーウが泣いたからといって死んでしまわない。いなくなることでムーウを責めたりはしないんだ。ムーウは泣きながらユアンの背中を叩いた。こころもとなく叩き続けた。まばゆいひかりのしたで破裂してしまいそうだった。
影。
影。
影。
いつも暗い。
自分だけが、汚い。
「わたしも、生きていることを自分に許可できるようになりたい……!」
「解っておりますとも」
振りあげる腕にきらりと繊細なつくりのブレスレットがひかった。護衛人の肩越しにそれを見やる。母が残していったものだ。先生が作り直してくれた救命装置だ。
「……わたしの味方をしてくれる人たちのこと、受け入れられるようになってみたい……!」
「そうでしょうとも」
頑張って勉強をしても、いい成績を取っても、容姿を着飾っても、それで世界中の人々から社長令嬢と認められ、羨望のまなざしを向けられても、そのなかの何人かが――どうしようもないほどに優しい人たちが、自分を待っていてくれても、ムーウはからっぽだった。
「――わたしも救われたい……!」
ちから強く抱き締めてくれるユアンの体温があたたかかった。
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