3-08.
少し薄めに淹れられたアールグレイにティースプーンで輪切りのレモンをそうっと浮かべ、カップを軽く揺すった。レモンは香りを移すだけでよく、すぐ取りだしてティーバッグレストに置く。ティーバッグなどを置くための浅い小皿はポットのシルエットになっていて可愛らしい。
砂糖は珈琲のときと同じでムーウとしてはやはり入れないのが好きだった。
そのまま最初にベルガモットとレモンの馥郁たる香りをしばし、堪能する。飲んでみようとして……熱すぎたのでカップをソーサーに戻した。コトナも香りだけをまずは楽しんでいる。マスターは熱いのが気にならないのか平然と飲んでいた。
「まだ熱いよー、ちょっと冷ましてから飲んでね。……それでっと! 紅茶には疲労回復や風邪予防、消化促進などの効果があります! カフェインとかカテキンとかの作用だねっ。『カフェインとかカテキンとか』ってよく噛まずに言えたよあたし。もしかして天才かなっ!? ……はい! 紅茶にはフッ素も含まれているので虫歯予防の効能もあるんだよ。レモンは……ビタミンCが入ってて免疫力を高めてくれるし、美肌効果も。ほかにも疲労回復や血圧をさげる作用もあって嬉しい! ってかナモ熱くないの!?」
カウンター内の椅子にふんぞり返ったマスターががぶりとおおきくアールグレイを飲んだ。
「うめえもんだな、バイトよ」
「え、やった! ……えっへん!」
「珈琲の淹れ方も覚えろや」
「珈琲はナモに淹れてもらうもん」
「ったくしょうがねえ奴だなあ」
「ふふっ。仲がいいんですね」
途端にマスターとシャノンはそれぞれ仲がどれほど悪いのかを声高にコトナへ主張し始めた。それがまた口調がそっくりだからおかしい。二人して必死なのを見てコトナがくすくす笑っている。
……ムーウの心情はにぎやかさから距離を置いたところにあった。手元のティーカップを見つめる。
図書館の天窓から降りそそぐステンドグラス越しの陽差しのように、幻想的なきらめきを宿す
さわやかにたちのぼるベルガモットとレモンの透明感のある香りが特別に美しかった。時間を置いて頃あいの温度になったアールグレイを一口飲んでみる。あたたかい……。心地よい渋みと、コクと、どこまでも透き通ってすとんとこころに落ちてくる香味に、ムーウは泣きそうになった。
自分はちゃんと笑えているだろうか。この楽しそうな三人にとけこめているのかな。いつも何処にいても疎外感を抱いてしまうのはどうしてなんだろう。
――わたしだけが、汚いなあ。
綺麗な紅茶の味わいが痛みになってしまうからかなしい。
いつのまにかマスターとシャノンのあいだで仲のいい口喧嘩が始まっていた。と言ってもマスターが余裕な表情でにやにやしながらシャノンをからかって遊んでいるだけのようだ。頬を紅潮させてシャノンは細いこぶしをめちゃめちゃに振りまわし、マスターの筋骨隆々とした腕にまったくダメージがなさそうな攻撃をぱこぱこと打ちつけている。紅茶を飲みつつコトナが「そうだ――」ちいさくムーウへ声を掛けてきた。
「傘を、ありがとうね」
使ってみましたか、と傘が濡れているのを知っていて尋ねてみた。
「うん。ほんものの傘を使うのってうまれて初めてだったから面白かったよ。雨が傘にあたって音がした。持ち手に振動が伝わってきた。雨ってさ、物理的に存在していて、こうやって傘にぶつかってくるんだって、ふとおもったよ。こんなものが遥か上空から落っこちてきているんだなって。〈傘〉魔法を使ってると気づかないことだよね」
「初めて傘を使ったときわたしもそうおもいました」
「これは傘立てに戻せばいいの?」
コトナに手を引かれカウンターから数歩離れ、傘立てのところで二人して立ちどまった。ムーウは首を横に振ってアンティークゴールドのフリルがついた傘を受け取って開く。
「そのままたたんでしまうと錆びるので、こうして広げて干しておくんです」
「サビル、ってなに?」
「この持ち手の金属部分が酸化して赤茶色になります」
「へええ。昔学校で習ったかもなあ。現役の学生にはかなわないや」
コトナが恥ずかしそうに微笑した。ムーウは傘をドアの近くに邪魔にならぬよう干す。すぐ横のテーブル席に座ったコトナが隣をととんと叩いて示した。
仕事帰りなのだろう、今日もスーツでしっかりと決めたお洒落な大人のいでたちだ。ストライプの入ったスレンダーな紺のパンツスーツに、丹念な〈アイロン〉がかけられた淡いベージュのワイシャツと、大胆なリボンがあしらわれたブラウンのパンプス、明るい茶髪はねじりのアレンジが入った華やかなローポニーテールで、アンティーク調の薔薇のチャームがついたヘアゴムでとめている。
顔色がよく自信も戻ってきているためかこのあいだ会ったときよりキャリアウーマンという印象が強かった。
ムーウは彼女に示された通り隣に腰かける。あのね、とコトナの口ぶりはずいぶん年下のムーウにかけるにしては慎重すぎるような気がした。
「あなた、ムーウちゃんでしょ。ヒトロイドグループの」
隠すことでもないので頷いた。あまりにも言われ慣れた台詞だ。コトナもぜんぜん驚いていない。あのあとインターネットを検索でもしたのだろう。記事はいくらでも出てくる。
「それで、私のこの前の未遂でムーウちゃんを不快にさせただろうとおもって、謝りたかったんだ」
「不快ではありません。心配はしてますが」
「そうじゃないよ。――だってエメリアノさんは首を吊ってしまったんだよね」
ああ。なるほど。事態がのみこめてきてムーウは息が詰まる。ピアノのバラッドとシャノンたちのにぎやかな会話と、外のかすかな雨音と、やけに研ぎ澄まされていく思考が、万華鏡みたいにぐるぐる切り刻まれてまわる。
ぴんと張りつめる。
ふとい糸。
意図。
「お姉さん。わたしは母を覚えていません。出産してほんの数ヶ月後の産後鬱だったそうです。気になさらないでください」
「気にするよ。私は自分の都合でムーウちゃんを傷つけてしまった。お母さまをあんなふうに亡くしているのに、屋上から飛び降りようとしている人を見つけたときはショックだったよね。ムーウちゃんは私を罵ってもいいくらいなんだよ。ほんとうにごめんなさい」
コトナが真剣な面持ちで頭をさげた。うつむいたまま続ける。
「屋上にいたときは冷静じゃなかったんだけど、顔全体が腫れるくらい泣いたらすっきりしちゃった。仕事も取引先の会社が私に来てほしいって言ってくれて、なんとかなったんだ。私、あのときムーウちゃんに見つけてもらえて心の底からよかったっておもってる。罵られたり軽蔑されたりしても不思議じゃない状況だったのに、ムーウちゃんは私を救ってくれた。ありがとう。いのちの恩人です」
あの日のビルの屋上のように、風の無い、凪いだ感情でムーウは微笑んでコトナを抱き締めた。こころがからっぽだった。淡々と時間が過ぎていくのが分かった。抱き締めていると、徐々に体温を感じる。ムーウがどれだけ汚い気持ちでいようとも、からだのぬくもりを伝えることはできるかもしれないとおもった。
ぎゅっときつくコトナを抱き締める。
まだ。まだ……いっぱい抱き締める。
少しでもあたたかい人間のフリができていますように。
「私はもう大丈夫だから」
「はいお姉さん。……でも無理はしないでくださいね」
――自分はちゃんと笑えているだろうか。
視界の端で、シャノンにねだられたマスターがカフェモカを作る用意をしていた。
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