3-12.

 これがムーウにとって本日一杯目の珈琲だった。砂糖とミルクは今回も入れない。まずはじっくりと香りを楽しみ、そのあとカップをそっと持ちあげる。


 傷痕だらけの腕とペーパードリッパーで繊細に淹れられたブレンド珈琲は、中深煎りのコクのある苦みとほのかな甘みがクリアに抽出されていて、アナログアンブレラでしか味わえない明るい深みだ。魔法で作りだすのは到底不可能な風味の層が幾重にも折り重なっている。


 飲むたびにおもう。どうしようもなく、ムーウは此処の珈琲が好きだ。


「なんで今日の一杯目なの?」


 今アナログアンブレラに着いたばかりのシャノンが細い腕を不器用に背中へまわしてエプロンのリボンを結ぼうとしながら尋ねた。ムーウが代わりに結んでやりつつ答える。


「なんでとは?」


 一杯目の珈琲であることに理由が必要だろうか。


「だって超絶かっこいい方向音痴ロボットが毎朝美味しい魔法珈琲を淹れてくれるんだっていつだったか聞いたよ」


「なるほど」


 細かいところによく気がつく人だ。あと、ユアンの呼び方が方向音痴ロボットで定着していてかわいそうだ。


「カップが」


「うんうん」


「割れたんです」


「うんうん」


 説明が終わり、リボンを結び終えた。読んでいる途中の紙の本へ視線を戻す。


 コーヒーゼリーとレアチーズケーキが盛りつけられた可愛らしい表紙の料理本だった。グラニュー糖や水あめ、メイプルシュガーなどをいつどう入れるのかが詳細に書かれている。


 珈琲もそうだが、アナログアンブレラみたいに特殊な空間でない限りは、どこにいても空気中に必ず魔法分子が漂っている。味というものは魔法分子に吸い取られて多少薄まってしまうので、料理をするときに工程ひとつひとつにここまで慎重になるのは高級レストランくらいのものだった。


 家庭では、調味料を入れるのに順番なんか気にしないし、なんなら調味料をいっさい使わない人もいるくらいだ。焦げたら〈修復〉すればよく、触感に失敗したらかためたりやわらかくしたりできるうえ、最後に味はどうとでも魔法で仕上げられる。


 現代の家庭用料理本とは、料理の手順というよりはさまざまな魔法陣を解説するのが一般的といえた。


 ムーウが手にした本はそうじゃなかった。店内の本棚に置かれていたかなりの年代物だ。少々厚めのページをめくる。しばし沈黙がおりた。いやいやいやと相も変わらずにぎやかなシャノンの声が店中に弾んだ。


「説明になってないよ!? 珈琲カップが割れたら〈修復〉しよう!?」


「間にあわなかったんです」


 ユーザー辞書を起動する。〈修復〉は五分以内に壊れた物体について有効だ。五分以上経っているものについては魔法で直しようがなかった。


 昨夜、ユアンは珈琲を飲むかとムーウに訊きにきたのだそうだ。眠る前であろうとなんだろうといつでも珈琲を飲む主人を気遣ってのことだった。そうして珈琲どころではなくなった。彼は手にしていたカップを落とした。ムーウの腕の治療を優先したから割れたカップは五分以上床に放置され、結局もとには戻らなかった。


 ムーウはマスターの顔におおきく走る数本の傷痕をちょっとだけ見る。魔法にもできないことはある。シャノンがエプロンをはぎ取った。


「カップがなくなっちゃったから朝の珈琲を飲めなかったの? よし、じゃあ新しい珈琲カップ買いに行こ!」


「あの、でも……」


 荷解きをすればカップはいくらでもあるのだと、しかし毎日「今日までかもしれない」とおもっているせいでまだ部屋に段ボール箱が積んであるのだと、それに、新しいものを買うという行為は未来が当然訪れると無意識におもっているからこそできるわけで、自分には新しいカップを使う明日なぞ無いかもしれないのだと――そういうことはもちろん口に出せず、


「行こうよー! 行こう行こう行こーっ!」


 となし崩し的に新しいカップを買いに行くことになった。

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