3-03.

 女性はコトナと名乗った。あの灰色のオフィス街の一角で事務仕事をしているという。

「なんで今まで生きてきたのか、私、分からなくなっちゃったんです……」


 突然こんな暗いことを言ったらみなさんを困らせてしまうとおもうのですけど、という前置きがあって逆にムーウはコトナの抱える悩みに強い興味を抱いた。


 ムーウは人がどれほどの苦痛を強いられると「つらい」と言いだすのかに非常に興味があった。どうやったらそこから抜けだせるのかも知りたかった。コトナの問題が解決するまで、ぜひ関わっていたいと考えた。手助けをしたいとおもった。


 マスターが淹れてくれたシナモン珈琲をムーウも受け取った。透明なガラスの珈琲カップに入れられ、横から珈琲と生クリームの淡い層が見える。天井から低くぶらさがった暖色の明かりに控えめに照らされて、ソーサーに添えられたシナモンスティックが小洒落たアナログアンブレラのカウンターテーブルによくあっていた。


 まずはシナモンを使わずそのまま飲んでみる。フレンチローストの豆の、コクと苦味が強調された深い焙煎度は、牛乳や生クリームとの相性が抜群だ。そこにとろりと優しい甘さの蜂蜜が混ぜられ複雑に絡みあって、舌のうえでとろけていくようだった。美味しい……とおもわず溜め息がこぼれる。


 次に、シナモンスティックをティースプーンの代わりにして珈琲と生クリームを掻き混ぜる。数回混ぜるだけでしっかり香りづく。シナモンの独特な香りがそっと広がっていく……。飲んでみると先ほどのほんのり甘い珈琲にエキゾチックな風味がプラスされなんとも言えない美しい味わいだった。


 蜂蜜とシナモンってこんなに珈琲とあうんだ。ムーウは少しのあいだほかのことは忘れて珈琲をじっくり堪能した。


「生きる意味が分からない? なんでー? ポジティブに考えようよ? なにがあったの?」


 シャノンもシナモン珈琲をスティックで掻き混ぜながら訊く。コトナは丁寧に手入れされた爪でシナモンスティックをいじくりながら目を伏せた。


「今までの人生が引っくり返ってしまったんです……。私、なんのために生きてきたんだろう」


 熱い涙があふれてまたとまらなくなる。マスターがカウンターテーブルへフェイスタオルを置いた。ムーウが初めてアナログアンブレラへ来たとき、全身が雨に濡れているのを見てだしてくれたのと同じタオルだった。この古風なお店で魔法を使うのはちょっとちぐはぐな感じがしてちょうどこんなタオルがしっくりくる。しっかり厚みがあるベージュのフェイスタオルはあたたかなかなしみを含んでやわらかくふくらんでいた。


 コトナはタオルで目元を押さえる。仕草が一つ一つ女性らしくて洗練された印象を受ける。


「お前さん、まだまだ若えんだからよ、人生これからじゃねえか」


「……私のすべてでした、これからどうやって生きていったらいいのか……」


「お姉さん、仕事で失敗しちゃったの?」


「それも、あります……でもほんとうは私の失敗じゃありません……えっと、順を追って説明します……つまらない話ですが聞いてください……」


 シナモン珈琲を飲んでから続ける。


「結婚を前提に、もうかれこれ五年以上になりますね、おつきあいさせていただいていた彼がいたんです……職場の課長です。私はこの人と人生を共にするつもりでいました……でも」


 シャノンが息をのんだ。


「まさか」


「はい……彼が同じオフィスビルの一階下の女の子とお手洗いでキスしているのを見てしまって……」


 コトナのおおきな瞳からはらはらと涙が落ちた。


「考えたこともありませんでした。うまくいっているとおもっていました。私がそれを見てしまってから、職場で、私の入力した資料を課長が改ざんしてしまったのか、いきなり課長が冷たくなって、私の仕事にばかり見覚えのないミスが増えました。私はやっていません。私の筆跡じゃないサインがしてあったり、私が普段使うものとは違う〈印影〉が押されていたり……。それで今日突然辞めてくれって言われたんです……来月の契約更新はしないって」


「クズだな」


 断言したマスターの筋骨隆々の腕をシャノンがぱこっと軽く叩いた。


「言い方!」


「だってよお。お前さん、そんな奴こっちから願いさげだって言っちまえばいいじゃねえか」


「そんな簡単なことじゃないです……! 家に帰ると彼の匂いがします。私の生活のすべてだったんです。考えてみてください。どこを見渡しても彼の気配に満ちています。彼からもらったネックレス、彼と一緒に買ったマグカップ、彼にプレゼントするための編みかけのマフラー、二人で観にいった映画の半券、お揃いのTシャツ、彼しか飲まないダージリンのティーパック、私、私、彼と一生を共にするつもりだった……! あふれるほどたくさん、両手に抱えきれないくらいの愛を、私たちは育んできたはずでした……」


 掛け時計がこ、こ、こ、こ、とゆったりとした時間を刻んでいる。レンガの壁の珈琲店でカップを両手に包みこみ座っている、時間。


 シャノンが静かに泣き始めた。うん、そうだよね、つらいよね……、こういうときに涙も言葉も抑えこまないで素直に表現してしまえるところが、シャノンの強さだとムーウはおもう。自分にはできないことだ。少し羨ましく感じた。


「……私、これから彼なしでどうやって生きていったらいいのでしょうか。仕事もなくなってしまう。独りで放りだされて、さみしくて、つらくて、かなしくて、私がどんな間違いをしたからこんなことになってしまったのか分からないんです」


 ん、とムーウはかすかに首を傾げた。


「努力が足りませんでした。面倒な女だったかな。美人じゃなくて飽きられてしまったのかな。もっと彼の仕事の大変さを労わるべきだったかな。今後のために私はどこから自分を直したらいいんでしょうか。彼を好きでしかたないこの感情はどうしたらいいのでしょう……!」


 ムーウは遠慮がちにコトナの手を握った。屋上で冷えていた彼女の手は珈琲にあたためられて体温を戻している。泣きながら伏せていた目をあげてムーウを見つめ返すコトナに、できるだけ言葉が伝わるようにと願ってムーウは言う。


「……わたしみたいな年下の小娘がこんなことを言って生意気だとおもわれてしまうかもしれませんが、わたしはコトナさんが努力不足だとはおもいません」


 言って、握った彼女の手の甲からすっと爪先を示す。


「例えば、爪です、これ……魔法を使わず丁寧にご自身で手入れされていますよね。髪も時間のかかるセットをされています。見れば分かりますよ。そのために手間を惜しまず早く起きていらっしゃるのでしょう? 自分磨きの努力を怠っていないことの証左です。シャツの〈アイロン〉魔法にも丹念な人柄が出ているし、アクセサリーの選び方もお洒落です。恋人さんにひどいことをされても、相手を責めるより自分を直そうとおもえるような、素敵な女性です。あなたのような大人になりたいとわたしはおもいました」


 コトナは目を見開いてムーウを見つめた。


「――私の努力が足りないから……」


「いいえ。わたしはそうはおもいません」


 コトナは心底驚いたようだった。


「俺は女の子の身だしなみのことはよく分かんねえが、魔法を使わずそうやって手間暇かけてできんなら、お前さんは自分自身を大事にできる人間だってことだろ? 今は動転してるだけだ。今日飲んでもらった珈琲は、胃に無理がないよう、からだにいいようにと考えて作った。あとは家に帰って、飯をよく食って、風呂で充分あたたまったら、ぐっすり寝ろ。クズのためにお前さん自身を蔑ろにしちゃならねえ」


「はい……」


「コトナさん。人間なので、完璧ではないです。もしかしたら相手の男性の希望とは違う部分があなたのなかにあったのかもしれません。でもコトナさんは間違いなく魅力的なお姉さんです。その魅力を分かってくれる人と一緒になるべきだし、なにより、お姉さん自身が素敵なご自分のことをちゃんと認めてあげるべきです」


「でも、まだ、好きなの……」


「大切な人を今さら大切じゃなくする方法を、カミサマは教えてくれないから、さみしくなって、繰り返しかなしくなって、どうしようもなくなるとおもいます。そうしたら何度でもこの珈琲店に来てください。時間がかかる問題かもしれないけど、時間が解決してくれるかもしれない。お姉さんはこの爪先や髪みたいに魔法で簡単に解決できないことをこつこつ努力するかたでしょう? 此処の珈琲も、魔法を使ってないんですよ。マスターが手を使って一杯一杯丁寧に淹れてくれるんです」


「ああ、だからこんなに複雑な味がするのね……」


 深く頷いてコトナはシナモン珈琲を大切そうにまた一口そうっと飲んだ。エキゾチックで甘い、とろけてしまいそうな珈琲の香りにひたる。マスターが彼女のために作った、あたたかい珈琲をこころゆくまで味わう。掛け時計のおだやかな音が、こ、こ、こ、こ、と一秒ずつ刻まれていく……。


「このお店はアナログアンブレラといいます。雨の日に、魔法ではないほんものの傘をさしてみてください。此処は悩みを持つ人だけが見つけることのできる珈琲店だそうです。わたしが今日お姉さんに会えたのも必然です。待っていますから。また来てください」


 屋上でそうしたように彼女の手を引いた。狭い店内は数歩で傘立てのあるところまで着ける。


 ムーウは迷わずアンティークゴールドの傘を引き抜いた。無地のゴールドに同色のフリルの縁取りが上品だ。広げるとフォルムがまるくて可愛らしい。彼女にぴったりだとおもった。


『傘は雨を弾く。「弾く」は「はじく」と読むし「ひく」とも読む。傘とは、雨を遮りながら雨を奏でるもの。昔ながらの傘をお貸しします。明日でも十年後でも気が向いたときに珈琲を飲むついでにご返却いただければ幸いです。魔法社会の「現代」という時間の喧騒に埋もれがちな貴方へ』


 差しだすとコトナはおずおずと傘を受け取った。


「貸す、だけだからねっ」


 シャノンが真剣に言い添えた。

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