3-02.

       ◆


 うんと甘くしよう、とシャノンはムーウへ一生懸命な口調だった。


 数週間前の入学式があったあの日に、マスターへ断ってから珈琲店の階段につけた検索用〈タグ〉魔法は、空中ディスプレイの地図を起動すると位置情報を投げてくれる。それで女性の手を引いて機密保護用の〈フェイク〉に惑わされつつもなんとかアナログアンブレラに辿り着いた。今日はマスターとシャノンの二人だけが店にいて、うんと甘くしようとシャノンが繰り返すのだった。


 古風な内装のアナログアンブレラはいつも通り居心地のいいお店だった。


 セピア調で撮るのがちょうどピントのあいそうなレンガの壁に、木製の額縁に入れられた古いモノクロ写真が数枚かけられ、プランターの観葉植物や、ポリエステル製のほんとうの傘がカラフルに何本も置かれた傘立て、マスターの趣味の電動式PCなどが置かれている。


 カウンターの右手側の紙版本はお店の壁一面を埋め尽くしていて、誰かが大切にしている物語を棚へ置き、代わりにどれか持ちだしていくから、くるりくるりと糸をたぐりよせるみたいに人と人の記憶を結び歩いて自分のもとに今在るというだけの、ぼろぼろのページに残る涙の跡が人をいちじの通過地点にしているというだけの、とても素敵な古書である。


 店内はほどよく花や葉っぱを飾ったり機械の無骨さを放置したりしてアンバランスさがバランスよく保たれ、背もたれの優しい木に寄りかかってすぅうと珈琲の香りを堪能するのにもってこいだ。


 どこもかしこも珈琲の香りがしみていた。


 この茶褐色の香りに自分も染め変えられてしまいたい、とおもう。


 初めてムーウがアナログアンブレラへ入ったときと同様に、女性も、呆然となって店内を見まわしていた。


 手を引いて、カウンターチェアーまで案内した。マスターに珈琲か紅茶かココアかと問われ、


「……珈琲を」


 とだけちいさく答えた。


「おうよ。そんじゃ、ちょうど頃あいのがあるぜ」


 マスターが手まわしミルを持ってくる。瓶に入った豆はほとんど黒に近い茶色で、ざっ、と小気味いい音を立てて豆をミルへ流しこむと蓋を閉じ、ハンドルをまわし始める。こりこりと風情のある音が鳴る。


 ピアノのゆったりしたバラッドのなかに浸透していく珈琲の香りと、くらっ、と濃密な他人事の絶望と、先を越される前に飛び降りておくべきではないかという問い。


 ムーウは静かに混乱していた。


 自分はなにをぐずぐずしているんだろう。なにが現実で、なにがそうじゃないのか、ムーウには判らなくなってくる。


 境目が溶ける灰色の空とビルのオフィス街。


 やりきったかと責めてくる風の凪いだ屋上。


 遠いグラデーション。


 屋上から見おろした、四角くギザギザの地平線……。


 あんなに簡単に入りこめるものなんだなあとムーウはおもう。もしかしたら、と考えた。もしかしたら清掃員が気づいて片づけてしまうかもしれないけれど、道に迷ってもあの警備の薄いビルにまた行けるようムーウは無許可の〈タグ〉をフェンスの近くに目印として置いてきたのだった。


 もし〈タグ〉が誰にも剥がされていなかったらまたいつか行こう。今日と同じに手帳から検索して〈フェイク〉に惑わされつつもきっと辿り着けるはずだ。


 ――日常生活にこんな生きないための賭けみたいなものをいくつもムーウはバラまいて生きていた。


『人の人生にあまり口出しすべきじゃないっておもうけれど、明日も来てほしい』


『人生、だなんて大袈裟では』


『ううん。このお店には看板がないでしょ。死んじゃいそうな人しかここを見つけられないの。いのちに関する悩みを持つ人だけがあの狭い階段を降りてくる。だから、人生だよ』


 連れてきた女性は唇を引き結んで手をかたく握りしめカウンターチェアーにからだを縮こまらせて座っていた。


 美人というほどではなかったが雰囲気が垢抜けていて綺麗な印象を受ける人だ。二十代後半から三十代前半だろう、明るい茶髪をこなれ感のあるふんわりしたハーフアップにまとめ、蝶のバレッタでとめている。義務装置もさりげないアンティーク調のアクセサリーで揃えていて、紺のスーツに淡いピンク色のワイシャツ、パンプスはワンポイントのリボンがお洒落だった。


 高層ビルの屋上であんなことをする必要がある人間にはあまり見えない、というのが正直なところだった。でも目のしたには濃いクマがあって、肌も荒れているように見える。表情も暗くかたかった。


 主人公が心身ともにぼろぼろになって不思議なお店に訪れるという流行りの小説にありそうな展開だった。


 そんなことを考えているうちにマスターが珈琲豆を挽き終えた。


 ドリッパーやサーバー、珈琲カップなどをお湯であたためる。抽出の前にペーパーフィルターを濡らさないためよくドリッパーの水気を取って、中挽きにした珈琲粉をウェーブ状のペーパーフィルターへ入れてとんとん叩きならす。お湯はドリップポットへ移して温度を少しさげ、細い注ぎ口からドリッパーへ円を描くように注いでいく。


 一湯目は蒸らす。ふっくら粉が膨らんでいくのが分かる。二湯目以降も珈琲粉の層を崩さぬようお湯をそうっと載せていく。注湯速度にばらつきがあってもペーパーフィルターのウェーブが味のブレを整えてくれるのだとマスターが以前説明してくれたことがあったのをムーウはおもいだした。ペーパーフィルターにも種類がいくつもあって珈琲は奥深い。


「さっき珈琲を注文されたから作っているが本来珈琲は刺激物だ。お前さん、あまり食事してねえだろ? 顔色が悪いもんなあ」


 疲れてきっている女性の顔色を覗きこんでマスターが笑いかけた。


「それでっと、牛乳を入れると口あたりもまろやかになるし胃にも優しい」


 沸騰しない程度にあたためた牛乳と抽出した珈琲とをブレンダーで攪拌する。

「そんで蜂蜜をたっぷり入れる」


 あたためてあったカップにティースプーンで蜂蜜をすくって入れ、そのうえに先ほどの珈琲を注ぎ入れた。


「蜂蜜には肌の調子をよくしてくれたり、疲労回復、ダイエット効果もあって女の子にゃ嬉しい要素がたくさんだ」


 カップのなかをよく混ぜてから泡立てた生クリームを載せていく。盛りつけの最後にソーサーへシナモンスティックを添えた。


「お好みでシナモンもどうぞ。シナモンは老化防止の作用やコレステロールと血糖値を改善する効果などがある。血行もよくなるからな、これでちょっとはリラックスできるんじゃねえか……」


 カウンターにだされたシナモン珈琲を女性は両の手でやわらかく包みこむと、しばし、そのままじっと手のひらをあたためていた。それからシナモンスティックでクリームを緩慢に混ぜていく。くる、くる、くる……。


 一口、珈琲を飲む……。


 すっかりあたたかくなってきた五月の夕方は寒いというほどではなかったけれど、こういう気分のときに飲みものの熱いくらいの温度がいくらかの救いをたったいっときだとしても与えてくれるということを、ムーウも経験上知っていた。


 彼女の表情の抜け落ちた顔がくしゃっと歪んだ。女性はぽつり、言う。


「あたたかいです……とてもあたたかい……」


 あとは嗚咽に掻き消えた。

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