Part.3 チョコレートシロップ。

3-01.

 甘くするのが好き。甘いって、幸福のことだよね。でしょ? チョコレートシロップをたっくさん入れる。エスプレッソと相性ぴったりなんだよ。スチームドミルクもたっぷり、ホイップクリームとココアパウダーもなめらかに甘くなるまで。ほろ苦さを、甘く包みこむまで。


 珈琲ってそのままだと苦くて大人の飲み物って感じだけど、こうすれば誰でも美味しく飲めるようになるの。なんだって変身できるんだよ。あたしはそうおもう。人もね、自分のなりたい自分に変わることができるよ。


       ◆


 その日は朝からやけに視線がムーウに集中しているように感じられた。講義室や講堂に入るといっせいに声がひそめられ好奇心を剥きだした囁きがまとわりつく。移動のために石畳のゆるい坂道を歩くと通りすがりの人やベンチに座っている人などから無遠慮に凝視される。


 嫌気がさしてきたところで午後、寝坊したシルバーアクセサリーと講義室で合流し、


「え、自分ちのことなのに知らないの?」


 とあっけらかんと言われて驚いた。


「どうでもいいことだよ。ヒトロイドグループの不祥事が発覚して昨晩から国営チャンネルでひっきりなしに取りあげられてるんだ。ニュース見てないの?」


 ムーウは実家のニュースを検索してみた。プライバシーという単語に笑ってしまうほど簡単になんでもインターネットからノクテリイ家の情報が入手できる。あまりにもおおきな会社だった。定期的に不祥事が発覚し騒がれているがあの潔癖な性格のヒトロイドグループ代表取締役社長N・ゴドアがそれを許しているわけではない。下のほうで勝手に行われ隠されてきたことが発覚しているだけだろう。


 どんなに厳しいルールを設けてもその裏をかくずる賢い奴はどこにでもいるものだ。きっと責任者が厳罰に処されてまたこのニュースも飽きられていく。


 今回の不祥事とはなにやらアルバイトに魔力を提供させすぎて体調不良を訴えていたにも関わらず無視し続けて重大な労働基準法違反になったという話らしかった。数十人が過労死寸前だと大々的に叩かれている。


 その手の不祥事は「違法」や「ハラスメント」などと言えば確かにおおごとではあるものの、少なからずどの企業でも起きている。


 会社の経営に携わっていないムーウにとっては完全に無関係な事件だが、学園全体から好奇心剥きだしで向けられる視線はまるでムーウを責め立てているかのようだった。だから、講義のあとみんなからの食事の誘いを断って独り灰色のビル街へ突き進むことにしたのだった。


 社長令嬢として恵まれた子ども時代を過ごしたムーウにとって、〈フェイク〉だらけのオフィス街は、樹海にでも入っていくみたいな無謀な感覚がした。もし迷って帰ってこられなくなるようだったら適当にビルを探して飛び降りればいいとおもう。目的も定めず使用人を寮に放っておいたまま春の肌寒い夕方をぶらぶらと歩いた。


 そんなとき、ムーウはなにげなく見あげたビルの屋上から身を乗りだしている人を見つけた。


       ◆


 そのビルは極力使わぬことに決めていたヒトロイドグループの万能パスカードでするりとドアのロックが外れ、いかにもオフィスビルといった様子の、実用性ばかり追求して無難に無難を重ねた、いろいろな濃淡の灰色に塗りつぶされるロビーのその広い無個性的空間に、〈瞬間移動〉用の〈箱〉魔法がかけられていて、ムーウは部外者だけれどあっけなく屋上へ〈瞬間移動〉することができたのだった。


 ビル内の見えるところには人がいなかった。外も人が歩くことを想定されていない〈セキュリティー〉にまみれており人通りが無い。高層ビルの一番うえで揺らめいていたちいさな人影は、ほんとうなら誰にも見つかることなく完遂できるところだったかもしれなかった。


 救いたかったのではなかった。蝶の標本を集めて眺めるみたいな気持ちだった。たくさん集めたうちのひとつくらい壊れてしまってもまあ別にいいやとおもったから標本の羽にそっと指先で触れてみる、という投げやりな感じだった。結果がどうなってもしかたのないことだった。


 風が凪いでいた。


 太陽が緩慢に沈みゆくところの、森閑としたグラデーションを見おろせる場所。

 くらくらっ、と酔うほど濃密な、他人事の絶望の気配がした。


 どこか奇妙に冷静で、なにもかもがフィクションじみていて、でも、生々しいこの重みに少しのみこまれてしまいそうだった……。


 灰色の空に溶ける長方形や時折円錐などのかたちをしたビルの群れが、閑散とした街を無機質で薄っぺらい書割のような背景にしている。


 フェンスの向こうにスーツのタイトなスカートからすらっと長い脚を伸ばして一歩踏みだそうとしている若い女性がいた。


 ムーウが発した〈瞬間移動〉の残り香に気がついたのか、からっぽの顔で――かなしみだけ先に下へ落としきってしまって、地面で砕け散り、それゆえに表情を欠いている、というようなからっぽの顔で、彼女は振り向いた。


 ムーウは言った。


「それは、今日やっても明日やっても同じことではありませんか」


 答えはない。泣き腫らした赤い目をムーウに向けてくる。迷いに迷っている、迷い疲れている、迷うことを放棄しようとしている、視線が、揺れる。


「珈琲はお好きですか」


 壊れてしまっても別に構わなかった。他人が外側からとめることはできないのだ。けどできれば連れ戻したかった。エゴだとしても。


「あなたにぴったりの珈琲店を知っています」


 つかつかと歩いていって無造作に手を差し伸べた。長い、長い沈黙を経て戸惑うように視線が動いた。涙が綺麗にこぼれた。ちっとも綺麗な動機ではないムーウの手を女性はすがるように握り次から次へと涙を落とし始めた。風は相変わらず凪いでいた。

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