2-07.
「ねえ聞いてってばー! 見てこれ、あまりにもひどくない!?」
入ってくるなりシャノンは真っ赤な傘を投げだすとロングヘアーをめちゃめちゃに振りまわしていきなりムーウの両手を握りしめた。彼女の陶器人形のように冷たい指先に気持ちがひやっとする。
「あのね、今日の服、グリクトだけ浮いてるの。だからこのグリクトのデザインは嫌だってママに言ったのに……そもそもね、子どもの頃のチュートリアルグリクトが可愛かったんだよ。だからこういった、ね、これ……」
言われて改めてシャノンを見る。今まであまり余裕の無いときにばかり会っていたためこの女の子をよく見ていなかったかもしれなかった。
腰まで流れる艶やかな黒髪は頭を振ってもさらさらっともとに戻る。クラシカルで女の子らしい服装をしていて、フリルやリボンのたくさんついた淡い色あいのブラウスと靴下、スカートはワインレッドのシックなつくりで、天然石や貴金属で巧緻な細工のほどこされたアクセサリーをそれとなくかなりの数身に着けており、彼女の動きにあわせて音が鳴る。ただしセンスよく全体を整えているためか、やりすぎない線を知っていて、洗練された印象にまとまっていた。
シャノンは大粒の目をうるませてなおも言葉を続ける。
「……こういうものをあたしが好きになったのは、ママが可愛いチュートリアルグリクトをくれたからだよ。なのに永久用グリクトを選ぶ段階になったら、いきなりこんな渋いデザインにしろだなんて言ってくるでしょ、パパもママもファッションセンスないし、もうそりゃ喧嘩だよ。だってさ……」
言うなりシャノンは左腕を突きつけてくる。確かに彼女のファッションには一つだけあわない、地味な灰色の腕時計がそこにあった。
「……普通の家より永久用グリクトを選び始めるのが遅かったの、時間なかった、だって九歳になってやっと選び始めたんだよ? 一年しかないじゃん! ママたちもあたしも忙しくて……一年しかないのに喧嘩してて決まらないでしょ、それでママが大人になっても子どもっぽいグリクトをつけ続けるのは恥ずかしい、って言ったからこれに決めて……でもあたしは今、今恥ずかしいよ! こんな野暮ったいグリクトなんて存在してていいの!?」
カウンターに突っ伏してしまったシャノンの、ふわっと広がった黒髪を見ながら、ムーウは自身がおもったことをふと我に返って自覚しそのあまりの汚さに血の気が引いた。シャノンと一緒にいるのは正直苦しい、とおもってしまった。この女の子があまりにまぶしくて、汚れを知らなくて、疑ってこなくて、自分はその反動でつぶれてしまいそうだった……。
こ、こ、こ、こ、さっき教官と二人で黙って珈琲を飲んでいたときとまったく同じ速度で刻まれているはずの掛け時計の一秒が、なんだか重みを増して聞こえてくる。
こ、こ、こ、こ……。
『信じて大丈夫だよ。とにかくここに来るお客さんは病気とか事故とか事件とかでいのちにかかわるなにかを抱えているの。でもここにたまにくればいい。いつのまにかね、なんとかなってるよ』
――一年かけて喧嘩するほど真剣に両親がグリクトを選んでくれるような家にうまれ育ったら、たいしたものを『抱え』たりしないのでは?
ほんとうの絶望を知らないくせに。
そんなだから珈琲店にちょっと通ったくらいで『いつのまにかなんとかなっている』のでしょう――?
不意打ちの、どろりと粘つくような自身の汚い感情にムーウは戦慄した。シャノンの言うグリクトや家族へのぼやきなんてよくある日常会話でしかないということ、その日常会話を常に警戒していないとこんなふうに不意打ちをくらう羽目になるのだと、つまりは一生、ムーウは気を抜いてはならない、生きている限りはこの内面を隠し通さなければならないから、絶対にいつでも取り繕えるようにしておかなければならなかったのに、義務を怠ったという事実、それらを脳で処理しきれなくなっていた。
義務が洪水みたいに押し寄せてくる。
この子はそうじゃない。
自分とは違う普通の子だ。
苦しい。
日常会話すらもまともにこなせなくて社長令嬢が務まるものか。あああ。
感情の奔流をとめることができないからせめて息をとめてとめて永遠にとまってしまいたかった。
ムーウは冷めた珈琲を飲みくだした。
「――おう、お前さん珈琲淹れて飲んだのか? どうだ? 非魔法珈琲も面白いもんだろ?」
雨の匂いと共に樫の扉が開いてマスターの筋骨隆々とした全身がぬっと入ってきた。勝手に珈琲を淹れたことを怒るどころか心底嬉しそうな満面の笑顔になった。
「うちのかみさんがよく言ってたんだがよ、やっぱり両手を使って淹れる自然な味がたまんねえんだよな。お前さんも気に入ったか? 気に入ったならまた淹れてみるといい」
「はい。道具を使わせていただきありがとうございました。とても興味深い経験ができました」
「魔法はどうしても味気ねえし人工的な感じがすっからなあ。なんつーの、手間暇かけてじっくり珈琲を作りだしている、この時間、愛おしいよなあ」
得意げに言うマスターに教官が遠慮なく、
「飲み終わった。注文。なんでもいいから紅茶を」
「……クォル? クォルさんよお? うちは珈琲しか出さねえんだけどよ? 相変わらず注文すらまともにできねえ若造だな?」
「いつもそのへんに茶葉があるだろう」
「一昨日も言ったが今その茶葉を切らしてんだよ。今日も買い出しんときにスーパーでチェックしたけど棚がからっぽよ。それにな、知らないなら教えてやる。耳かっぽじってよく聞けよ? ――うちは珈琲店だっつうの!」
マスターはぶつぶつと文句を言いつつ「まあそうだろうとおもって念のためにペットボトルは買ってきたけどよ……」ペットボトルの紅茶をティーカップに注ぎ電子レンジにぶちこんだ。レンジがちーんといって止まると、マスターがなかからティーカップを取り出し無造作にカウンターへ置いた。
「ほらよクォル」
「どうも」
「ナモっ、いくらなんでもそれはお客さまに出すものじゃないでしょ!」
「いいんだよクォルなんか適当にあしらっておけば」
「グレインせんせ、あたしなにか紅茶買ってこよっか? アルバイト中だし」
「いや、これで構わない」
――教官を引っぱたいたことについての罰則を彼がやっと説明したのはそれから二十分ほど経ってからだった。
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