2-06.

       ◆


 アナログアンブレラが何時に開いているのかは知らないけども今日もお店の鍵はしまっていた。と、教官もシャノンがやったようにヘアピンでピッキングし始める。あっさり数秒で開けてしまうと慣れた様子でカウンター内に入っていった。呼ばれてムーウもカウンターに入る。


 マスターが不在のときに無断でこんなことしてあとで怒られないか尋ねると、


「大丈夫だ。彼は短気だが根は優しい」


 というなげやりな口調の返答があった。そして珈琲器具を広げ始めた。


 古風な雰囲気のレンガの壁にも、たくさんの紙の本が置かれた本棚にも、天井から低くつりさげられた暖色の照明にも、額縁に入れられたモノクロ写真にも、よく使いこまれたカウンターの隅々にも、珈琲の香りがしみこんでいる。


 何種類もの珈琲豆が瓶に入れられ置いてあるなかから教官は焙煎してある豆を取ってきた。木でできたお洒落な手まわしミルに豆を適量ざっと流し入れ、蓋を閉じる。カウンターにしっかりミルを押さえてからハンドルをまわすと風情のある音が鳴った。


 渡されたのでムーウも珈琲豆を挽いてみる。おもっていたよりちからが要るし手が疲れて、でも伝わってくる振動をここちよくおもった。しばし豆のコリコリという音だけが店内に響く。無心になってハンドルをまわしていると少しずつ気持ちが落ち着いていく気がする。


「今回はペーパードリップにするので中挽きになるようミルのこのネジで調整してある」


 淡々と説明をしつつ豆が挽き終わるとやかんを火にかけカップやドリッパーなどをカウンターに並べる。沸騰したお湯でカップなどをあたためた。


 ペーパーフィルターは粉を入れる前に濡らさないほうがいい、とドリッパーの水気をしっかり拭き取り、端を互い違いに折りこんだフィルターをセットしたあと、サーバーにそのドリッパーを載せる。


 粉を専用の計量カップで二杯入れ、軽くゆすって粉をならす。


 そのあいだほとんど教官は無言で、ムーウは何故これが罰則になるのかよく分からないまま言われた通りにやかんからドリップポットへお湯を注ぎ入れた。


「沸騰した百度のお湯だと珈琲には少し温度が高い。ポットに移し替えることで温度を調節する。ペーパードリップにもいくつか種類があるが今回は一番シンプルな方法で淹れようとおもう。メリタ式という古い歴史を持つペーパードリップで……いや、説明はいい。これは味のブレが起きにくい。初心者でも手順を守れば淹れられる。抽出が適正になるよう計算されてドリッパーが作られていて、味の調節をするときはローストの具合やメッシュのおおきさ、粉の量などで行う。これに慣れたらもっと自由度の高い器具を使ってみると面白いかもしれん」


「……あの、教官。こう言ってはなんですが、教えていただくのはとても面白いのです、でも魔法分子にさらされていないアナログアンブレラならともかく、魔力の充満した外の空間では味にこだわるための手法はどれも無駄になってしまいます。何度のお湯を使ってどのドリッパーで淹れても魔法分子に味が壊されてぼやけてしまうから、〈フレーバー〉や〈コク〉の魔法陣をどう書くかで味は決まりますよね。現代社会で珈琲を美味しく淹れるには、温度やドリッパーより魔法を研究すべきではありませんか」


「そうだな。私はそのような現代社会にうんざりさせられるときがある。過程を疎かにしてもあとからなんとでも魔法で修復がきく、という考え方は便利ではあるが面白みに欠ける」


 とんとんとドリッパーを叩きながら教官はいったん言葉をとめた。そして講義でもするかのように滔々と続けた。


「現代、常に誰もが何事においても適度に修復されて整えられている。どの過程を経ても最後決まった手順で魔法をかければいいだけだからだ。たとえば、だ。機械も魔法も無かった時代に絵を描いていた人々は、紙やキャンパスなどに直接筆を置いて描いていた。もちろん〈修正〉はできない。ぽつん、と絵の具が一滴垂れただけで取り返しがつかないかもしれない緊張感があった。色ひとつ取ってもまったく同じ色を作るのは困難だった」


「色を作るのですか?」


「そうだ。絵の具のセットは数十色ほどしかなく、色の数が足りない。絵の具をパレットに何種類かだして混ぜ、任意の色を作っていた」


「色を作るという発想を持ったことがありませんでした。すごい……」


 ならした粉にお湯を注ぎ始めた。あまり高くからでなく近くからそっとお湯を載せるように注ぐのだそうだ。抽出に最適な珈琲粉の層を作るためだ。ドリップポットの細い注ぎ口から慎重にお湯を粉に置いていく。


「次第に電動式機械が発展し、機械で絵を描けるようになると、色は自分で絵の具同士を混ぜて作らなくても無数にあるなかから選択すればよいだけになった。間違えて筆を置いてしまってもCtrlとZでいくらでももとに戻せるようになった」


 全体にお湯がゆき渡るのを待つ。粉がふっくらと盛りあがり、ペーパーフィルターにお湯がしみていく。約三十秒。珈琲のコクのある香りが店内に充満するのを胸いっぱいに吸いこむ。


「コントロールとゼット?」


「ああ、まあ、そういうボタンがあった……機械で描くとそうでないときよりパースや構図の修正がきくようになった。絵の層をレイヤーというが、それをあとから入れ替えて安易に調節できるようになった。最後に全体を暗くしたり黄色がかった色にしたりと色の効果を足すことができるようになった。魔法期になると機械以上に絵を描くということが簡単になった。気に入った写真数枚とテーマを入力するだけでそれらしい絵が自動的に描ける。色は無数にどこからでも写し取れるうえに、予測変換で出る色に従って塗るほうが売れやすくなる。線画の時点から塗り終わるまでパースが狂っていても仕上げに〈パース調整〉をかければ問題なく直せる。絵は決まった手順で作業して最後に魔法をかければ誰にでも描けるものとなり、便利である反面その技術の価値はさがった――」


 低くよく通る声が店内に響く。


「――絵には、一発描きの緊張感でにじみでる美しさがある。構図を試行錯誤してうまれるアイディアがある。意図しなかった手振れによってでる味がある。ピンポイントで色を作れずにできあがった色がある。あとから紙を白くはできないので計画して白抜き用の道具を使ったり、絵を全体的に暗くしたくとも上から黒をべったり塗ればいいというものではないため描きながら暗い青や緑などを様々な色に混ぜたりする。そうやって絵を描くという過程、技術の習得の過程を味わう」


 二湯目では必要な量のお湯をいっきに注いだ。ドリッパーに杯数分の目盛りがついているので二杯分の目盛りまでお湯を入れる。あとは待つだけだ。


「どのような過程を経たとしても最終的に結果が同じになるのなら過程に意味は無いのだろうか。私は珈琲の焙煎度、メッシュのおおきさ、お湯の温度、ドリッパーの好み、そのドリッパーにあった淹れ方……それらを楽しみたいとおもう。貴方も気に入ったなら時折此処に来て淹れてみればいい。最初のうちはな、美味しくならないこともある。だが失敗しても面白い。やっているうちにだんだんうまくいく回数が増え、狙い通りの味を作れるようになる。まあ、長々喋っておいてなんだが、単に私が非魔法珈琲を好きだというだけのことだ」


 ユアンを連れてこなかったことをちょっと後悔した。きっと非魔法珈琲の淹れ方に興味があっただろう。何度もリセットした人工知能とはいえもとから設定されているユアンの性格は変えていない。ムーウが子どもの頃からユアンは珈琲を淹れてくれていたが、仕事のためなのか趣味のためかムーウにも判らないほど彼は珈琲を淹れるのが好きだった。


 また行き先を告げずに寮へ置いてきた。一昨日はそれでひどく心配して待っていて、往来で主人を見つけた途端に叫びながら駆け寄ってきた……とそこまで考えて、そうだ、感情と記憶をリセットしたからもうユアンは自分を心配して待ったりはしないのだ、と気がついた。


 ユアンと二人で歩んできた日々の過程を、自分の手で無かったことにしてしまった。


「……教官のおっしゃっていること、なんとなく解ります。わたしは紙の辞書を引くようなものだと感じました。検索するとすぐ結果を見ることができて便利だけれど調べた単語しか分からない。紙の辞書を引くと周囲のいろんな単語に寄り道しやすい……そういう寄り道が人生の豊かさなのかもしれません」


「ふむ」


 サーバーの珈琲を攪拌し、あたためておいたコーヒーカップの一つに入れた。教官は向こうの鍋で牛乳を沸騰直前くらいにし、先ほどの珈琲を混ぜた。もう一つのカップに入れる。そして珈琲シュガーをティースプーンで信じられない量投入した。


「……教官。珈琲シュガーってとけるのに時間がかかりますので、それ、あとでものすごい甘さになり……教官、聞いてますか」


「聞こえてはいる」


「入れすぎですよ、糖尿病になります、甘くしすぎてはせっかくの珈琲の味が台無しじゃないですか、えっと、まだ入れるんですか」


「余計なお世話だ」


 憮然とカフェオレを混ぜている教官をそっと横目で盗み見る。ペーパーフィルターにアクが吸収されるからだろう、珈琲はクリアな味がした。酸味や苦味が何層にも奥まっていて、魔法で〈抽出〉した珈琲とは比べものにならない複雑な香味だ。過程とは深さの層のことだとムーウはおもう。壁の掛け時計が、こ、こ、こ、こ、と一秒ずつおだやかな時間を流している。それ以外無音の、珈琲店。


「――今度は」


 カフェオレを飲んでいるだけのはずなのになにやらざらざらと咀嚼していた教官が、こちらを見もせずに言った。


「私から質問をする」


「はい」


「進むか終えるか迷っていたのはどうなった?」


「保留中です」


「そうか」


 それきり、シャノンが「聞いてっ! 今日のスカートがグリクトとあんまりにもあわなくてね……」と騒ぎながら入ってくるまで一時間弱を沈黙して過ごし、そう言えば罰則はどうなったんだろうとおもうけれどほんの少しのあいだその疑問は放置して珈琲を堪能することにした。

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