1-06.

       ◆


 使用人のあとについて行くと、〈フェイク〉がかかったビルの道はその一本先で嘘みたいに終わっていた。春時雨のやみかけた十九時だ。二度と帰ってこないつもりだった往来が、他愛ない日常の続きとして平然と目の前にある。


 人々は無色の〈傘〉魔法を頭上に書きおき、手ぶらでにぎやかな学園都市をゆき交っていた。屋根のない外で気楽に過ごす若者たちが誰も濡れていなくて、水音も聞こえてこない。


 天気情報起動。夕方。激しい雨が降ったりやんだりしています。


 不意に使用人が振り返った。


「お身体を乾かされますか」


 水を含んで重く貼りついていた服が、髪が、この都市では奇異なものであることを言ったに違いなかった。


 少女は〈乾燥〉を書きつつ周囲を見まわした。小洒落た飲食店や文房具屋、ファッションショップなどが立ち並び、学生たちは春休み最後の夜をおもいおもいのかたちで迎えている。


 店員の〈配膳〉したトレーが厨房からテーブル席へ瞬間移動するのや、飲んで騒ぐ客がジョッキを割って慌てて〈修復〉するのや、販売員が棚の商品を〈前出し〉したり〈清掃〉したりするのや、学生が宙のディスプレイに思考入力でレポートを書くのや……第二次魔法期も三百年近くなる三六九二年の紅龍国クロウコク首都は、どこまでも便利で、取り返しのきく、真綿でくるまれた町だ。


 俯き加減で歩く少女の視界に、磨き抜かれた革靴が映った。はっと顔をあげた先の、使用人の眼鏡の向こう、べっこう色の瞳が物言いたげに揺れている。口を開きかけた彼の長身が、前かがみに少女を覗きこんだ。


「なぜいつも肌身離さないあの手帳を部屋へ置いていったのですか。なぜ荷ほどきをしていないのですか。机の上の入学辞退届はなんですか。どこへ行かれていたのですか。いったいなにをなさるおつもりで――」


「音声オフ、感情オフ」


 設定を切り替えると彼は言いさしたまま口を閉じた。


「それでいい。もうさがって」


 眼鏡の奥でべっこう色の目が右側だけ赤く明滅する。きゅいん、と動作音がして、みるみる顔から感情が消えていくのを見届けた。その呆気なさに慰められた。人間性はこれほどまでに意味が無いのだと信じさせてくれる。てきぱきとした動きで一度頭をさげ、背を向けると長い脚で大股に去っていく、使用人は、あの大嫌いな実家から一人だけ連れてきた少女の専属である。


 潮時だろうかとおもう。親しくなりかけるたび――厳密には、彼の言動に主人へ向けた親愛の片鱗を見かけるようになるたびに、記憶消去を繰り返して十年以上過ごしてきた。そろそろ次の消去の時期だった。


 移り住んで三日目の学生寮は国内の何処かにぷかり浮遊していた。地面から徒歩では辿り着けないので、校門を越えたあと首にさがった雫型のブルートパーズを握り、指先で書いた魔力の軌道でロックを解除すると、目の前に白単色の地味なドアが現れた。


 開けて入って閉めるとロックがかかる。人間一人で使うには広すぎる床一面に、毛脚の長いカーペットが中敷きしてあり、上品な家具がおおきく空間を使いながら配置され、荷ほどきはしていないため全体がすっきりとしていた。


 壁は透明だ。この部屋はビル五十階から百階の高さでランダムに国内の上空を移動している。壁紙代わりにしておくには贅沢な景色が眼下一面に広がっていた。机側は、今夜という時間を映して空と同化した巨大な水たまりで、よぅく目を凝らせば風で波が控えめに立っているのが見えるようである。世界最大規模の湖を囲むのは頂に雪をかぶった山の連なりで、ゆるやかにベッド側まで続いていた。


 それが全寮制の紅龍国立紅龍学園が少女にあてがった居住スペースなのだった。


 靴を脱ぎ、絨毯へ一歩を沈めて歩く。湖畔を見おろす位置でライティングビューローと向かいあい、そのからっぽな棚を眺めた。机上には古書のようなハードカバーの手帳が一冊だけあった。几帳面な縦長の筆跡で書きこまれたページをなかほどまでめくる。「葬儀社ヒトロイドクロニクル予約」に乱暴なチェックがついている。


 変わりたくても変われない。それでも足掻いている……。


 書き物机と同じ天然木材の椅子に崩れるように腰をおろした。此処には誰もいなから、だから――とめどなく泣いた。

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