サルビア 後編
いかがわしい――つまりR一八。
あんなことや、そんなこと。
意識すると赤くなり、心の中で悲鳴を上げる。
性的な体験なんて一五年の人生の中でも、初めてだ。みだらな行為は刺激が強い。すぐさまきびすを返す。大きく腕を振って、広い歩幅でストリートを駆けた。
「おっと、いけねぇよ。さあ、店に入れ。悪く思うな。商売のためなんだからよ」
奇抜な格好をした男が行く手をはばむ。
相手はけだるげに両手を広げた。真白はグッと奥歯を噛む。
男は足を止めると目の前まで詰め寄って、ポケットから小さな菓子を取り出した。
「ほれ、交換だ。こいつをやるからついてこい」
「要りません」
ミルク色の菓子をはねのけようとする。
「悪いものとか入ってないぞ? 深い意味とかないし。食べてみろよ、甘酒みてぇな味がすんぞ。そんなわけで、さ」
男が菓子を放り投げる。宙を舞う物体を目で追った。
一方で欲にくらんだ目をした相手はがおーと、熊のように構える。指を曲げると、爪に光が当たった。凶器のごとき光を放つ。
ひっかく攻撃だ。
真白は菓子を受け取ってから身をそらして、攻撃をかわす。男が体勢を崩して、よろめいた。隙が生まれたため、地面を蹴る。背を向けて、走り出した。
「待てや、こら。お前それ、ただ飯だぞ。金払えや」
怒鳴り声と一緒に後ろから足音が追いかけてくる。
「渡してきたのはあなたのほうですよね」
振り向きざまに伝えても、敵はブンブンと腕を振り回すばかりだ。
捕まったら最後、檻に入る。彩葉を助けるためにもリスクは避けて、懸命に走った。なんとか距離を取って、ひと息つく。
いやらしい店の並ぶ通りを抜けて、一人になった。昼食のかわりに菓子を食べる。口に放り込むと、蜜の味が口いっぱいに広がった。生地はもちもちで、薄い。中はとろっとした食感だ。いちごの甘酸っぱさがチラリズムする。
「甘酒の味じゃないんだけど」
あごを動かしながら、足も動かす。
町の入口に戻ってから、斜め上に伸びた分かれ道に差し掛かる。右は武器屋が広がっており、鍛冶屋の店主が怖かったため、左を選んだ。さすがに下半分はまともだろう。そう信じて道を進むと、落ち着いた色合いの建物が並んでいたため、安堵した。ほどなくして、書店が見えてくる。
黒檀の壁と青い屋根を視界にとらえると、気持ちが落ちついた。本が好きだからだろう。学校の昼休みの過ごし方はもっぱら、読書だった。また、資料に目を通した分の知識も手に入る。真白は調べ物もかねて、書店へと足を踏み入れた。
ギシギシとした板を踏む。顔を上げて、ギョッとした。目を見開いて、固まる。カウンターの内側に立つ女性が、
現実から逃げて視線をそらすと、さらなる衝撃が彼を襲った。なんと、本棚に入った本の全てが官能小説である。ピンクの表紙が渦となって、脳を襲った。口をあんぐりと開けて、立ち尽くす。
「どうだい?」
着物姿の女性がカウンターから出て、本棚から一冊抜き取る。彼女は石像と化した真白へ向かって、セクシーな表紙を堂々と見せつけた。
「おすすめだよ」
「結構です。興味がないので」
引きつった顔で訴えると、女性はきょとんとする。
彼女は眉をつり上げたかと思うと、紅色の唇を開いて、ペラペラと語りだした。
「人間、いつまでも清らかではいられない。汚いものを知ってこそ、大人の階段を上れるんだよ。性の体験は思春期の子どもにとっては大切でね」
女性の力説から身を守るために、耳を塞ぐ。
なおも相手はしつこく迫った。一方的に下ネタを交えたトークをして、ベタベタと体に触る。終いには「自分を買え」と紅色の唇で誘いにきた。
真白は半泣きで店を飛び出す。「ああっ」と後ろで女性が手を伸ばした。彼女の眉を下ろした顔を横目に見つつ、前を向いて、走る。追い風に乗って、道路へ出た。
安全な場所まで戻ってきたが、いまだに鳥肌は立ったままである。
「なんなんだよ、サルビアって町は」
今のところ少年の身に降りかかったのは、おかしな事件ばかりだ。
書店を横目に、深紅の建物が並ぶ通りに目を向けてから、腕をだらりと地面へ下げた。
甘い匂いのただよう通りを抜けて、メインストリートに戻ってくる。町の中心にそびえる時計塔は午後〇時を指していた。
内心、貴重な情報を見逃している気がして、焦る。汗をかき、頭をかいた。
休む暇があるのなら動くべきだと、自分に言い聞かせる。
スニーカーで地面をけろうとした矢先、背中に明るくて聞き覚えのある声を感じた。
「おー、いたいた。探したよ」
こわばった体で振り向くと、鍛冶屋の店主が手を振りながら、走ってくる。
真白の顔から色が消えた。
うわぁ……と頭を抱える。
そうだ、彼と武器屋の並ぶ通りで彼と出会ったのだった。
じめじめとした感覚が体を浸す中、相手はキラキラとした顔を少年に向ける。
真白が黒い目を伏せると、男は目の前まで迫った。
「さあ、我々と一緒に戦おう」
彼は細い腕をつかむと、少年を町から離れた場所まで連れていった。
気がつくと荒野に立っていた真白は、鋭い風を浴びながら、体をすくめる。
地面からは煙が上がり、スモーキーな匂いを鼻で感じた。さらには酸っぱいような鉄臭いような、複雑な臭いも充満している。荒れた大地には鮮やかな赤色が飛び散っていた。眉間を寄せながら遠くを見つめると、黒い影が虫のようにうごめいているところが、視界に入る。
「なんですか、ここ?」
「戦場さ」
「え?」
「もっと近くで見たいかい?」
男が勝手に前に進む。町にきちんと戻るためにも、今は彼についていくしかない。真白は足を前へ滑らした。
「一〇年前に巫女が現れてね、彼女を奪い合う戦い続けているのさ」
ハキハキとした声で語る相手に対して、真白は目を丸くする。
「やめさせてください。戦ったところで誰も得をしませんよ」
声を荒げて、伝える。
ぜーハーと息を吐いた。
頭をよぎったのは、血に濡れた町の記憶。脳
「君の意見はたたき斬ろう」
背筋がひんやりとする中、男の声が耳に飛び込む。
「争いは金を生む。勝者は栄誉を受け取る。メリットなら十分にあるじゃないか。強さを求めるのなら、人は争いあうべきだ」
彼は誇らしげに胸を張る。
「君もそう思わないかい?」
澄んだ瞳と目が合う。
彼は本気だ。自分の意見が正しいと思い込んでいる。思わずぞっとした。
「僕は、君の考えなんて」
声が震えた。
全身の毛が逆立つ。
「争いとは便利なものだよ」
男は剣を抜く。
「なぜなら厄介な相手を斬り伏せ、実力を示せば、屈服も可能なのだからね」
氷を含んだように冷たく、透き通った声だった。
彼が銀色の輝きを少年に突きつける。
途端に頭の先からつま先まで、戦慄が駆け抜けた。
たまらず、逃げる。
荒野を。
殺すつもりだと悟って。
背を向けて。
足音が追る。
後ろでシャープな音が響いた。
相手が剣をふるったのだと悟る。
自分が血の海に沈む光景を思い浮かべて、目をつぶる。
真白が敵から逃げ回る間にも、人々の戦いは激しさを増していった。
絶対に負けられない戦いが、そこにはある。
剣と剣がぶつかり合い、火花を散らす。
雄叫びが、荒野の端を巡る少年の耳にも、届いた。
「やめませんか?」
激戦区から離れて位置で、中央へ向かって、呼びかける。
真白は足に急ブレーキをかけて、方向転換をした。
剣撃が鳴り響く。少年の声をかき消した。血の色と臭いが地面に飛び散る。
みな、目の前の敵に夢中で部外者の存在は視界から外れていた。
力不足を痛感して、背中に影を背負う。瞳が揺れた。現実が心を追い詰める。
「武器を下ろせ」
刹那。
「私は誰の者にもならぬ」
戦場に凛とした女の声が、堂々と響いた。
剣撃の音が止まる。
彼女の声を聞き取って、人々は静まり返った。まるで、時間が止まったかのように。
あたりにはシャープな音の残響のみが広がる。
硬質の緊張がただよう中、男たちは続々と上を向く。真白も彼らと同じ方角を見上げた。
視線の先にある丘の上で、袴姿の女が立っている。上は何者にも染まらぬ純白で、下は血のような緋色だ。
「武器を下ろすがいい」
ガタンと金属の音が地へ落ちる。
男たちは言われた通りに戦いをやめて、うつろな目で丘を見上げた。
「貴様らはいったい、何度同じ出来事を繰り返す気でいる? 私が何度この地に現れたところで、無意味ではないか。もう一度言う。私は戦争が嫌いだ。争いもな」
厳しい態度で彼女が告げる。消炭色の瞳が冷たい光を宿した。
一方で真白は言葉を失う。
血の臭いや土・埃・硝煙――さまざまな臭いが混ざりあったカオスな空間ながら、その一切が気にならないほどの衝撃を受けた。
まさか声一つで戦いを終わらせる者がいるとは思わなかった。自分がやって失敗したことだから、なおさらである。
同時に今の戦士たちの様子は洗脳を受けたようにも見えて、不気味でもあった。
真白がぼうっとしていると、巫女は丘から下りて、戦場の外れへ寄る。消炭色と黒い瞳が、互いと一〇メートルの距離で、ぶつかった。
どぎまじする少年に向かって、女は涼やかな声で呼びかける。
「私に用があるのだろう? ならば、ついてくるがいい」
ペパーミントの香りが間近で弾けたかと思うと、真横を彼女が通りすぎる。
巫女は勝手に命令を下すと、前へ進んでしまった。
淡々と下駄を鳴らして、遠ざかっていく。
真白はあっけにとられて、立ち尽くす。
戦士たちが持ち場に戻る中、不意に上から声がした。
「彼女の能力が見られる日はくるのかねぇ」
「いやぁ、本人しだいだからさぁ、ありえないよぉ」
老人たちが丘に座り込んで、お茶を呑んでいた。
彩度の低い老婆に対して、老人は鮮やかな髪の色をしている。ただし、髪の一部は灰色がかって、目にも不透明な光が見え隠れしていた。まるで、となりの相方から色が移ったかのように。
「でもさぁ、あたしゃ、みたことがあるんだねぇ」
白い頭をした老婆がお茶をすする。下にいる真白の元に、爽やかな香りが届いた。
「いつ、どこでだい?」
「三〇〇〇年前、灼熱の炎だったねぇ。全てを焼き尽くす、絶対の攻撃。あぁ、もう一度、あたしゃね」
相方の問いに答える形で、老婆は口をモゴモゴと動かす。
彼女は遠くの太陽を見つめて、無彩色の瞳をうるませた。
「炎を見る日を、待っているんだよ」
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