花咲彩葉を助けるため

 負の感情が心をうごめく中、実はほっとしている自分に気づく。肩から力が抜けて、視界がクリアになった。黒いカーテンを通して薄日が差し込んで、部屋が明るくなる。


 同時に役割から逃げる自分が汚物かウジ虫のようにも感じて、イヤになった。腐った食べ物の臭いを嗅いだように顔を歪め、どろっとした汗をかく。


「僕が舞台から去ったら、花咲さんを救えるのは君だけですよね。君は、なにを?」

「行く気はねぇよ」


 窓ぎわで透明な袋を破りながら、相手が答える。

 よく見ると商品名がおかしい。『深海魚バーガー』とはなにか。イヤな予感を感じつつも、相手の目を見る。少年と同じ黒い瞳だった。


「いや、面倒じゃねぇか。俺だってよ、死ぬ気はねぇんだぜ。なにより、やつらと戦う理由がねぇんでな」


 涅は真顔で深海魚バーガーを頬張る。バリボリと不気味な音が鳴った。

 一方で彩葉を救う者が消えたと分かって、真白の心から色が消える。


「剣なら入口に置いてあるぜ。さっさと行っちまいな」


 涅は窓から離れて、真白の座る席に近寄る。


「穀潰しはいらねぇんだよ」


 彼は少年の背中を押して、追い出しにかかる。真白もおとなしく席を立って、玄関までやってきた。


 一瞬、ためらう。果たしてリタイアをしてもいいのだろうか。自分も一緒に戦うべきだと、考える。もっとも東歴二五三八年の勇者は、一般人だ。凡人以下の落ちこぼれでもある。自分にできることなどないと、知っていた。


 クリスタルの剣を拾うとドアノブをひねって、外へ出る。


 目的を失った真白は、昼間の菫町を歩きはじめた。

 ブラブラと動きながら、曇った空を見上げる。


 住民は平常運転だ。三月最後の春休みを満喫している。華やかな町の歩道で和やかに語り合う主婦や、空き地でサッカーをする子どもを眺めて、肩を落とした。眉を下げて、背中に影を背負う。平和に暮らす彼らを、羨ましいと感じた。


 ふと、違和感を覚えて、自身の手に視線を向ける。空のなった手のひらが視界に入った。


「あ」と口を開けて、凍りつく。


 真白は大切なものをなくした。重要なもので例えるのなら金庫、運転手でいう免許証、学生でいう学生手帳である。クリスタルの剣を捨てた勇者は、ただの穀潰しだ。


 スニーカーが地面に張りついたかのように、足が止まる。


 木々のざわめきが耳に入った。汗の臭いのただよう通りで、存在意義をなくした勇者は立ち尽くす。


「どうすればいいんだよ」


 風が歩道を通り抜けて、髪が乱れた。


 ぐちゃぐちゃになった髪を整えていると、タッタタタタと小気味よい音が前から聞こえてくる。


 顔を上げると反対側の歩道で、少女が駆けていた。涅の建てた宿が五つの建物の後ろに、見える。


 あらためて見ると趣味が悪い。誰だろうか、『涅のセンスはまともかもしれない』と言ったのは。間違いなく自分のモノローグだが、「冗談ではない」と声を大して言う。


 なにしろ、屋根は暗い赤で壁は幽霊のごとき青白さだ。柱も青黒く、庭も死人のような土色である。たとえるのならゲテモノ料理を家に変換して、そのまま建てた感じだろうか。怪奇現象が起こりそうな雰囲気であるため、目に映すだけでもはばかられる。むしろ元となった建物を建てた者のセンスも、おかしい。いったいなにを考えて設計したのだろうか。


 真白が例の宿に対してさんざんな評価を下すうちに、少女は横断歩道を渡る。両手には透明に輝くオモチャの剣が見えた。彼女はリズミカルにタイルの道を蹴って、真白の前で足を止める。


「あなたのものですよね?」


 呼吸を整えてから、少年を見上げる。


「落とす瞬間を見ました」


 彼女はクリスタルの剣を差し出す。


 冴えない少年のためにわざわざ走ってきたとは、なんとできた娘だろうか。雷に打たれたような衝撃を抱く。どぎまぎしながら手を出して、剣を受け取った。


「がんばってください」


 彼女は口元に花を咲かせると、背を向ける。横断歩道へ向かって走り出した。


 真白は雑踏の中に残って、ぼーとクリスタルの剣を眺める。つるんとした刀身に触れると彩葉と歩いた道の映像が、頭に流れた。写真のように断片的ではあるけれど、足を動かしていたときに抱いた感情は、ありありと思い出せる。


 今考えると彩葉と一緒に過ごした期間は、満ち足りた日々だった。当たり前に続くはずだった日常を取り戻すためにも、前を向く。ほろ苦い思いを飲み込んだ。


――『がんばってください』


 少女の声が耳の奥で、リフレインする。


 人の暖かさに触れて、本来の役割が脳裏をよぎった。


 勇者の役割は災厄に立ち向かって、悪を滅ぼすことである。世界が滅ぶと知っていながら役割を投げ捨てた場合、親切な少女は勇者を許すのだろうか。


 本音を言うと、逃げ出したい。

 少年はみじめな気持ちを飲みこんで、顔を上げる。


 思えば動く理由は最初からあった。

 オパール色のロングヘアを持つ少女の、花のような笑顔が、頭をよぎる。

 目を閉じると、少女が消えたあとの情景が思い浮かぶ。


 三月三一日が過ぎて廃墟と化した町で、少年は一人になった。彼は冷たい地面にシートを広げて、残飯を漁って生きる。勇者にあるまじき、みじめな結末だ。本当に逃げた場合はシミュレーションした通りの結果になると、予想がつく。


 いったん思考を止めて、まぶたを開けた。太陽の光がまぶしくて、目を細める。


 気持ちを切り替えて、歩道の途中にあったベンチに腰掛けた。背もたれに体を預けて、足を休める。町の外にそびえる青々とした山を眺めると、頭の中が秩序だっていった。


 歩道には私服姿の若者や、スーツを着た会社員の姿が行き交う。性別や職業・体格の全てがバラバラで、妙な光景だ。鍋の中にてきとうな具材を放り込んで、煮るときに似ている。車道を走る自動車もカラフルだ。ファイアレッド・ルビー・シルバー・ゴールド――真白の目には宝石のようにも映る。


 排気ガスや土の匂いを感じながら、足音の響く歩道の片隅で、少年はクリスタルの剣を握りしめた。


 彼は今、花咲彩葉を救いたいと願う。真白は彼女に依存して生きてきた。彩葉と離れろと命令を受けても、困る。一人で自由に暮らすビジョンは、霧に隠れて消えた。


 虹色の女優は真白にとっての恩人であり、大切な存在でもある。彼女は真っ白な少年に希望の光を与えた。人間性もすばらしい。いままでも無色透明だった少年を何度も励まして、日の当たる道へ導いたのだから。


 彼女を想うと、熱い気持ちが胸にこみ上げる。

 しかし、自分が死ぬ可能性を頭に浮かべると、恐ろしかった。

 気温が上がって肌は汗ばむのに、体は震える。


 昼前になっても真白はベンチに腰掛けたまま、なまけていた。


 痛い思いはしたくない。

 生き残りたい。


 何度も心の中で、青ざめながらつぶやく。

 それでも最後には彼女を選ぶと、分かってはいた。


 日が頂点まで昇ったとき、彩葉への想いが最高潮まで高まる。ついに覚悟を決めて、立ち上がった。


 一度両手をフリーにしてから、二つの拳を握りしめる。

 ベンチにたてかけたクリスタルの剣を拾って、ふたたび柄を握り直した。


 前を向く。無言で地面を蹴った。


 昼食時に宿に戻った真白は、リビングに入る。カーテンが開いており、部屋は明るい。激しい光がフローリングに太い線を作る。もっとも真白が中に入った途端に、空は曇ったのだが。


「なにしにきやがったんだ、テメェはよ?」


 自分の席でドロドロとしたスープをかき混ぜながら、涅は真白を迎えた。

 少年は黒瑪瑙オニキスのような瞳で相手をとらえて、意志を伝える。


「僕はゲームを続けます」

「ほー」


 涅は気の抜けた声で答えると、スープの中身を豪快に口の中に流し込む。


「これも、要りません」


 次にポケットから切手を取り出して、見せつける。


 皿を空にして、血の色をした飲み物をつかみながら、相手は少年へ視線を向けた。

 彼の目の前で切符をビリビリと破り捨てる。バラバラになった紙が床に散らばった。


「汚すんじゃねぇよ。俺の所有物だぜ、この宿」

「あ……」


 舌打ち混じりの言葉に、少年の表情が固まる。なお、心の内側では覚悟を秘めたままだ。


「だがよ、テメェはなにもできねぇぜ? 勇者としての力を発揮できねぇテメェには、よ」


 曇り空を映す窓を背に、涅はざらついた声で告げる。


「確かに君の発言は正しい」


 真白は頭をかく。

 実際に少年は黒紅色の集団を相手に、絶望するばかりだった。橋の手前でも涅が助けなければ、ゲームオーバーを迎えただろう。


「一人では戦えないと、分かっていますよ。だから、君を頼ったんです」


 真白はまっすぐな目で訴える。

 窓の外で空が晴れた。闇に沈んだ床に一筋に光が入る。


「力を貸してください」


 見知らぬ匂いのただよう室内で、緊張が高まっていく。


「メリットなら与えますよ。君の好きなもの、豪邸なんてどうですか?」


 声を張り上げてから、様子をうかがう。

 涅は腕を組んで、顔をしかめた。

 失敗したと悟る。


「なら、お金を差し上げますよ」


 相手は強欲だ。今回の誘いには乗ると踏んだため、大きく口を開いて、アピールする。

 涅はおのれの腕を指でたたいた。

 あとひと押し。


「地位と名誉を。全てが終わったとき、君を英雄として認めます」


 早口で伝えると、相手は眉間にシワを寄せた。


「えーと」


 天上や床、窓まで視線をただよわせたあと、ヤケクソ気味に前を向く。


「クルールを自由に扱う権利を与えます」

「乗った」


 いきなり涅が声を上げる。


「世界を俺に渡すんだろ? いいぜ、やってやろうじゃねぇか」


 気持ちのいい声で彼が答えたため、真白もほっとする。


 問題の解決に近づいたと感じると、つかれがどっと体に押し寄せた。くらりと倒れそうになるも、足の裏で踏ん張る。


 遅れて体の中心に歓喜の渦が生まれた。強力な協力者を得て、口角が上がる。心の中でガッツポーズを取った。

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