1-4 巫女
リタイア
相手の名を覚えている。
血の臭いが立ち込める地面の上で、無意識のうちに唇を動かした。
「涅影丸……」
声に出すと涅の瞳が、ギラリと光った。
「よく覚えてやがったな、俺の名を。しかし兄ちゃん、いけねぇぜ。俺ァテメェよりは年上だ。そいつを呼び捨てにすんのはいかがなもんか?」
「す、すみません」
ペコペコと頭を下げる。
心の内側を汗がダラダラと流れていった。
「礼儀がなってねぇぜ、ったく」
「ほんと、ごめんなさい」
ひたすらに平謝りだ。
真白は人に対する敬意が薄い。普段から心の中で他人を呼び捨てにしている。もしくは芸能人の名を呼ぶときと似た感覚で、軽く相手の名を呼んでしまうのだ。おかげで肝心なタイミングでボロが出る。
「さっさと行くぜ。ボサッとしてんな」
「でも、橋が」
「バリケードだぁ? 知るか」
足元に転がる屍を踏み越えて、涅はズカズカと前に進む。真白も後を追った。いったいなにをするつもりかと首をかしげたとき、涅が橋を塞いでいた板を真っ二つに切り裂く。カランと音を立てて、片方の板が地面を転がった。もう片方は川を流れていく。
まさか壊すとは思わなかった。真白は言葉を失ってぽかんと口を開けたまま、立ち尽くした。
「終わったぞ。どうした、なにかあったのか」
「すごいですね」
「すごいのは剣のほうだろうが。世界一の鍛冶屋から奪った
涅は剣の刀身を上に向ける。刃の先が稲妻に似た光を放った。雅やかな輝きを見つめて、男が口角をつり上げる。
「それに引き換えテメェはなんだ? 早々にあきらめやがって。テメェみてぇなやつは、さっさと野垂れ死んじまえよ」
言い過ぎだ。ドーンと落ち込んで、肩を落す。口をつぐんだまま、縮こまった。
とはいえ正論ではある。実際に真白はあきらめやすい性格だ。自分の弱さは分かっている。少年は眉をひそめながらも、ため息をつくのみに止めた。
「ほら行くぞ。さっさと歩け」
涅が先に橋を渡って菫町に入り、真白も彼についていった。
街灯のついたきらびやかな町を歩いて、空き地の前で足を止める。涅の顔を覗き見ると、彼は不敵な笑みを浮かべて、手のひらを前に向けた。
「なにをするんですか?」
「作るんだぜ、宿をな」
相手の答えに首をかしげる。彼の真の職業は大工だったのだろうか。眉を下げて広々とした空間を眺める。
次の瞬間、空き地にぽんッと家が建った。真白は思わず「うわっ」と声を出す。
自分は夢を見ているのだろうか。あわてて目をこする。
少年が現実を疑う中、涅は誇らしげに口を開いた。
「俺の能力は複製だぜ。こいつを使って、商売をしてんだよ。今回は野宿が面倒だったからな。実際にある建物を盗んだんだぜ」
彼は口を動かしながら、入口から中へ入っていく。
あたりは暗い。黒い霧が宿を包む。外装はぼんやり見えるだけだが、涅影丸のことだ。趣味の悪いデザインだと予想がつく。
涅が先に中に入ったため、ためらいながらも彼に続いた。相手が電気をつけると、パワフルな光が眼球に突き刺さる。目を細めて見渡すと、存外普通の内装だった。壁紙は白銅色、フローリングは朽葉色。シンプルなデザインだ。『どうせセンスは悪い』と決めつけたことを、心の中で謝る。
玄関から廊下に上がった。案内を受けて、個室に入る。自分の部屋を確かめたあと、風呂に入った。もっとも真白の場合は洗わずとも、体は最初から清らかである。不思議な感覚に眉をひそめながらも、念のために体を泡まみれにしておいた。
入浴を終えて部屋に戻る。電気を消すとベッドに横たわり、目をつぶった。三月三〇日の出来事は早く忘れたい。真白は意識を無にして、眠りにつく。彼は夢の世界に旅立った。
朝、広々としたリビングに行くと、涅が待っていた。彼は袋に入った物体を、ゴミのように投げる。あわてて受け止めて、中身を見た。透明なラッピングの中に、プレーンなパンが入っている。
先ほどから周りが騒がしい。窓の外にはカラフルな服を着た者たちが群がっている。
「一夜にして妙な建物が建ってやがるからな。無理もねぇぞ」
涅は黒いカーテンをしめた。目隠しをするかわりに太陽の光も消えて、部屋は暗くなる。
「きのうなにが起きたのか、なにが僕を巻き込んだのか、知ってますか?」
パッケージを切れ目から縦に裂く。
「まだ混乱してるんです。夢じゃないかとも、思って。あまりにも現実感が薄かったから」
おどおどと問うて、黒い瞳を伏せる。
「知りてぇか?」
真白がパンを取り出したところで、涅が窓に背を向けて、彼に迫る。
「教えねぇよ」
情報を教えるかわりに、手のひらを真白に向ける。
「テメェが金を渡すってぇなら、教えてやらんこともねぇなぁ。タダじゃいけねぇ」
「彼女のでよければ差し上げます」
少年はため息をつく。
「ですから答えてください」
真白は小銭袋を取り出して、相手の手のひらにふりかける。
「しけてやがらぁ」
「おいしい棒が一〇〇こは買えますけどね」
花咲彩葉への申し訳なさを噛みしめながら、黒い瞳で相手を見上げる。
「で、どうなんですか?」
「いいぜ、教えてやろう」
涅は淡々とした口調で語りだした。
「最初――三月三〇日の夜にやつらは、風花をつぶした。待春も同じようにつぶすだろうよ。動機か? 勇者を動かすためだな。自分らに敵意を向けて挑みにくることを期待してんだよ。そのために武装して住民を殺し尽くした。だが、テメェは戦意をなくしたんだろ? ざまぁねぇな。なんだよ、あいつら、ムダ骨じゃねぇの」
相手はコーヒーカップをつかむ。
「世界に滅びを招いたのは黒紅色の男どもの仕業だぜ。正しくは、魔王がか。勇者への復讐のために悪魔を呼び出してな、世界を消そうとしてんだよ」
器の中身を飲んでから、彼は続ける。
「すでにテメェの周りでは舞台の物語が、侵食してやがるぜ。魔王軍が動き出しやがったからな。かくしてテメェは本当に魔王に挑む羽目になったと」
「ちょっと待ってください」
話の途中で割り込む。
パンにかぶりつきながら、片方の手を相手へ伸ばした。
「話についていくのが精一杯です。第一、魔王は死んだはずですよね?」
ゴクンと炭水化物の塊を飲みほして、顔をしかめる。
「
「そんなことって……」
「例の舞台の脚本は、実際の記録を捏造したもんなんだぜ。勇者は魔王に止めを刺さなかった。だから久遠小夜子は永遠の時を、勇者を待ちながら、生き続けているんだぜ」
いままで魔王とはすでに死んだ者だと思いこんでいた。動揺が心に広がって、額を抑える。パンをつかむ手も震えた。
真っ白な世界が神が発したフレーズが、彼の頭に蘇る。
――『全ては勇者が悪を仕損じたために起きる悲劇』
三〇〇〇年前のクルールで、勇者は悪を滅ぼさなかった。
「結局は自分でまいた種じゃないか」
肩を落として、重たい息を吐きながら、元勇者は現実を受け止める。
「でも、あれ? ちょっと、待ってください」
おかしな点に気づく。
「君、魔王軍の内情に、くわしくありません?」
ゆっくりと顔を上げて、相手の姿をじっと見つめる。
「悪魔の一族の生き残りだったり、します?」
彩葉が観覧車の中で発した説明が、頭に浮かんだ。
――『無彩色の一族がいてね、彼らは髪も瞳も灰か黒、または白でまとまっていたの。人は悪魔の一族と呼んだわ』
涅影丸は真白に近い色彩を持つ人間だ。黒髪黒目。正確にいうと相手には茶色が色素に混じっているが、だいだい一緒だ。
「何歳なんです? もしかして、勇者と魔王の戦いを見てたんですか?」
「なぜ知ってやがる?」
いぶかしげに眉をひそめると、相手の額に青い筋が浮かぶ。ピキッと血管の切れる音がした。
「普通のやつは知らねぇぞ、悪魔の一族の特徴なんざ。魔王自身が隠しやがったんだからよ」
涅は雷鳴のような声を放った。
黒いカーテンのそばに立つ涅は、血走った目で真白をにらむ。今にも頭から湯気が立ちそうな熱を感じた。煙の臭いがツンと前からただよう。自身の口には鉄の味が広がった。途端に縮み上がって、席を立つ。
「花咲彩葉か?」
低い声が
心当たりを見つけたようで舌打ちをしつつ、怒りを収めた。
真白も気が抜けて、緊張をゆるめる。ガタッとイスが後ろに倒れて、本人も床に転がった。脚を立て直してから、座り直す。
「昨夜、花咲彩葉は敵のアジトに捕まったぜ。俺は助けなかった。様子は見たが、手を出す前に引き返したぜ」
涅は服の胸ポケットからタバコを取り出す。
「おっと、不満を漏らすんじゃねぇぞ。俺は身の安全を考えた結果だ。逃げ惑うだけだったテメェとは雲泥の差だろ?」
彼は白い棒を口にくわえて、ライターで火をつける。
窓ぎわでたばこをふかすと、紫色の煙が天上へ上った。
「俺こそが泥そのものなわけだが、するってぇとテメェは泥以下の存在になんのかね?」
「なんとでも言ってください」
「実際に動けなかったのは僕も同じですよ。なにより、彼女は僕のために捕まったんです」
魔王軍は勇者を動かすコマとして、彩葉を使った。
全ての出来事が自分の責任になると思うと、気分が沈む。今のリビングの薄暗さと同じ心境だ。気落ちして声すら失った少年に対して、涅はしれっとした口調で告げる。
「気楽に生きろや。今回ばかりは仕方ねぇ。全ては敵が悪ィのさ。ほら、真っ黒な連中は生きる価値すらねぇってな」
顔を上げる。黒いカーテンを背にした男の姿をとらえた。
彼が自分の存在意義を認めてくれたような気がして、心の霧が晴れる。パンを食べるとミルクの味が口に広がった。じんわりと心が温まり、目の前が明るくなる。
気持ちが前向きに傾いた矢先に涅が手前まで寄ってきて、切符を差し出した。表の面に『西』と行き先を記してある。
相手の行動の意味を知ったとき、少年の視界に霧がかかった。リアクションを口に出すために口を開くも、言葉がノドでつかえて、止まってしまう。真白はなんと反応を取るべきか見失ったまま、顔から汗を流した。
「さっさと逃げろ。テメェは役立たずだぜ」
冷たい目が戸惑う少年を見下ろした。
部屋はさらに薄暗さを増す。目の前が真っ暗になった。
勇者であるにも関わらずへたれてしまった自分を、惨めに思う。
気持ちを切り替えるためにパンを頬張ると、やけに甘く感じた。
前のほうからスモーキーな匂いがただよって、心がくさくさとする。
「僕って真の勇者にはなれないんですね」
――心が弱いから。
東歴二五三八年の世界では、勇者も土臭い田舎者である。
パンを飲みこんだあとの口には、塩気の利いた苦い味が広がった。
心は水に濡らしたように湿って、奥のほうがチクチクと痛む。
「守れなかったのは、事実です」
薄い霧の中にいるような感覚に陥りながらも、少年は運命を受け入れた。
目の前から涅色の静かな視線を感じる。
――守れなかった。
陰気な声で口に出した言葉を皮切りに、脳裏を血に濡れた町がフラッシュバックする。屍、地面のぬかるみ、柘榴のような肉片、沈む夕日、弱々しく消えていった炎、青白い月光、色を失った町、か細いうめき声、断末魔、呼吸を止めたような沈黙、鼻をつくすっぱい臭い、鉄の味、錆びついた心――ありとあらゆる感覚が鮮やかに、脳裏を、体に、心に蘇った。
真白は顔を歪めて、頭を押さえる。
全ては終わったことだと、過去のものにしようとした。けれども、忘れられない。今でも胸が、張り裂けるように痛む。
自分は今、どこにいるのだろうか。簡単な答えすらも頭から消え去る。少年は悪寒に濡れた。
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