合流

 住民たちが上げた悲鳴が、頭の中にガンガンと響いた。胸が苦しくなって、顔を歪める。何度も断末魔を聞いたせいで耳にこびりついてしまった。意識を別のほうへ向けても、今度は血の色が脳裏に蘇る。死んでいった者が自分を責めているような気がした。


「僕のせいじゃない。僕のせいじゃない。僕のせいじゃ……」


 ボソボソとつぶやいて現実から逃げる。

 今は遠くへ行くことだけを考えた。


 濃紺の空に浮かぶ月が東へ動く。ぼんやりとそれを見上げているとき、エンジンの音が後ろから迫った。振り向くとタクシーがやってくる。運転手は右側の歩道に車を寄せた。ヘッドライトのまぶしさが、少年の心を暗闇から解き放つ。ひと息ついて、手を上げた。


 ドアを開けて後部座席に乗り込む。


「東へ」


 短く告げると、運転手がアクセルを踏む。低いエンジンの音が響いた。車が走り出す。窓には外の景色が高速で流れていった。田畑や草原は影に染まってはいるものの、安全な場所を得ただけで、だいぶ違う。真白は肩から力を抜いた。


 しばらくの間、相手と二人で会話を続ける。


 最初は運転手が出身地を尋ねてきた。真白が「北だ」と濁すと、相手は愛想笑いで返す。話題は誕生日や趣味へと移って、ウソを交えて答えていった。たわいもない雑談がはじまる。気がつくと車内には和やかなムードがただよいだした。


 受け答えを続けるうちに気が紛れて、肩から力が抜ける。背もたれに体を押し付けているのもあって、リラックスできた。カーオーディオからはバラードが流れ、車内にはラベンダーの香りがただよう。しっとりとした雰囲気の空間だ。


 町に着くまで目を閉じていようかと考えた矢先、運転手が声をかける。


「ところで菫町へ向かっていいんですかねぇ? 町には我々の仲間もいますが」


 ヘラヘラとした声を聞いて、真白は「え?」と目を丸くする。


 相手の言葉の意味は分かりづらい。聞き間違いかとも思って、聞き返す。


「仲間?」


 おそるおそる尋ねたため、声が震える。


 答えを聞くかわりに、前へ視線を向けた。バックミラーに運転手が映る。彼はスーツを着ていた。ジャケットの色は黒みがかった赤色で――


「黒紅色?」


 口に出した瞬間、血と死の臭いが彼の身に襲いかかる。


 目の前の現実が少年を天国から地獄へたたき落とした。ラジオの音は不協和音と化し、ぞわっとした感覚が体を巡る。


 後部座席の窓が漆黒に染まった景色と、少年の青白い顔を映す。彼はこわばった表情で、歯をガチガチと鳴らした。


 逃げないと。闇の中でおののいた瞬間、車内が揺れる。


 車のタイヤはデコボコとした道を走っていた。窓ガラスには細かな枝やこげ茶色の葉が張りつく。前は真っ暗闇で視界が悪い。しかしタクシーは「知ったことか」とばかりに、森を突っ切る。


 自動車はガタゴトと揺れた。体がふわっと浮く。頭を天上にぶつけかけた。


「ちょ、どこ通ってるんです?」


 乱暴な運転に冷や汗をかく。

 身を乗り出しても、運転手はへへへと笑うだけだ。


 エンジンのモーターは時速一五〇キロを越えている。今と同じ速度で走ろうものなら、一発で免許停止だ。


 真白が唇を噛んだとき、窓ガラスを葉っぱまみれにしながら、タクシーが宙へ飛び出す。タイヤが地面に着いた。とっさにドアにしがみつく。ドアハンドルをつかんで、前に押した。道路へ転がりでる。ひざを曲げて、スニーカーで地面を蹴った。


「こっちは車ですぞ。逃げてもムダなのです」


 後ろから大きな声が追ってきた。

 真白は五歩で狭い道を横断して、川の土手の前で足を止める。


「あきらめましたかな?」

「いいえ、作戦があるんです」


 振り返る。


 フロントガラス越しに、運転手のどやっとした顔を見た。現在、タクシーは猛スピードで飛ばしている。相手もブレーキを押す気配がない。き殺す気だ。ところが次の瞬間、相手はハッと顔色を変える。


「汚いっすよ」


 こもった声が土手に立つ少年の耳に届く。


 運転手はすぐにブレーキを踏んだ。だが、遅い。


 真白は右へ飛んだ。タクシーが川へ突っ込む。ドボンと音がして、水の粒が地上まで届いた。冬に水遊びとはいかがなものだろう。服を軽く濡らしながら、川を見下ろした。


「無免許運転じゃないだろうな?」


 水をかぶったタクシーを眺めて、青ざめる。

 今思い返しても、森を通ってショートカットするとは、無鉄砲かつ危ない運転だった。


「そりゃあ川にも落ちるよ」


 自分の同じ目に遭う可能性を考えると、ブルッと体が震えた。

 とにもかくにも離れよう。少年が一歩を踏み出したとき、川のほうから声がかかった。


「ちょいと待ちなさい」


 後ろでザブンと音が立った。

 顔をしかめながら振り向く。


「私はまだ生きております。まだまだ勝負はここらでしょうや?」


 ずぶ濡れになりながら、運転手が陸に上がる。川の中ではタクシーがプカプカと浮いて、下流へ流れていった。


 よく見ると相手の拳は血まみれだ。細かな切り傷がついている。素手で窓ガラスを割って、飛び出したのだろうか。


「無茶なマネを」


 真白がため息混じりにこぼすと、男はヘラヘラと口角をつり上げる。


「さあ、逃しませんぞ」


 足音が迫る。

 瞳から光を消してなお、楽しげだ。

 まさしく狩りを楽しむ獣といったところ。

 途端にぞっと身がすくむ。真白はおずおずと後ずさった。


 そのとき道路の真ん中で、派手なエンジンの音を聞く。排気ガスの臭いが鼻をかすめた。風花のほうから五台のバイクが走ってくる。万事休すだ。


「くっ」とスニーカーで地を駆ける。ガードレールをまたいで、国道に出た。タクシーが使えないのなら自分の足で逃げるまでである。ところが国道を走り抜けた先に見えたのは、菫町へ繋がる橋を封じる二人の姿だった。彼らはイベントのときから勇者の行く手を阻んでいた。彩葉を連れ去ったのも彼らである。とにかく逃げ道は塞がった。真白は唇を噛む。


 さらにバイクのライトが少年を照らした。じわじわと敵が追い詰めにかかる。あたふたと目が泳ぐ中、厳しい声を背中に感じた。


「ほかは知らんが俺たちはお前を潰す。勇者は生かしちゃおけんもんでな」

「魔王の望みはお前の生け捕りだ。だが、その選択が正しいとは思わん。俺らは命令よりもお前を潰すことを選んだ」


 シャープな音が耳に入ったため、後ろを向く。相手はナイフをジャケットから取り出していた。


 黒紅色の衣をまとった男たちが真白を囲む。さながら暴走族に絡まれた一般人のようだ。今度こそ頭が真っ白になる。終わりだ。死を覚悟する。数はさらに増えて、元の二倍だ。タクシーの運転手まで群れに混じっている。戦意がじわじわと消えていった。あきらめの色が心を満たす。


 運命を受け入れながらも、無念だとは思った。彼はまだなに一つ、成し遂げていない。自分は真っ白なままだった。なにより、風花で暮らす者たちの姿を思い浮かべると、胸が痛む。彼らの死がムダになると感じて、苦い感情が心に宿った。


 息を深く吸う。絶望を飲みほしたとき、橋のほうから声がした。


「おいおい、なにをやらかしてやがんだ? ひでぇザマだな、ったくよ」


 野蛮な声がハッキリと鼓膜こまくを貫く。


「え?」と口に出して橋のほうを向いた。瞬間、視線の先で血がどばっと噴き出す。入口を塞いでいた敵がまとめて散った。闇夜で銀の刃が光る。刃の持ち主は道へ出た。彼は次から次へと、黒紅色の者を斬り裂く。相手があっけに取られて立ちすくむうちに、容赦なく葬っていった。かつては人だった者たちが丸太のようにアスファルトに転がる。目の前は血の海に沈んだ。


 戦いは一瞬で終わる。とにかく容赦がなかった。


 いくら悪人といえども、人をあっさりと殺しす者には抵抗感がある。心臓が激しく音を鳴らした。感謝の言葉も繰り出せず、真白はぼうぜんと立ち尽くした。

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