逃げる
夜。黒い雲が月を覆う。漆黒の闇が世界を包む。
静かだ。葉と葉が重なる音すら聞こえない。風が止んだせいだろうか。おかげで一ミリでも動こうものなら、足音が目立つ。敵に自分の位置を知らせる羽目になると考えると、全身に緊張が走った。
闇はさらに濃くなっていく。
血と肉を焼く臭いはいまだに鼻に残っていた。目を閉じても公民館の駐車場で起きた出来事が、脳裏に鮮やかに蘇る。
凍てつく風に身をさらしながら、死んでいった者たちの顔を思い浮かべた。彼らのことを思うと暗い気持ちになる。駄菓子屋の店主や小学生の子どもが犠牲になる理由が分からなかった。
彼がうつむいたとき耳元で、淡い声が広がる。
「君が沈んだところで、どうしようもないでしょぉ。だって、全てが君のせいなんだからさぁ」
アニマニック系の香りがムワッと体を包む。
たちまち心に波が広がった。電流を浴びたような衝撃を感じて、目を見張る。黒い瞳を向けた先に月光が差し込んだ。
「いやぁ、いつ話しかけようか迷ったね。ずっとつけてたんだけど、全然気づいてくれなくて、寂しかったよぉ」
犬顔の女が肌が触れ合う距離にまで寄って、立っている。
相手から悪魔に似た気配を感じた。衝撃と恐怖が胸の内側で混ざり合って、平常心が真っ逆さまに転がり落ちる。真白はヒッと短な悲鳴を上げてから、尻もちをついた。手のひらが土に触れて、湿った感触を得る。
真っ白になった思考にただ一つの考えが浮かんだ。戦おう。黒紅色の衣をまとった者は、敵だ。どうせ死ぬのなら相手に挑んで、華々しく散ったほうがいい。片方の手でクリスタルの剣を握り、もう片方の手のひらで湿った地面を押す。
「やめておきなよぉ」
立ち上がろうとした矢先、犬顔の女がヘラヘラと笑う。
「立ち向かったところで森の斜面を転がるだけだよぉ。それとも死にたいのかなぁ?」
タレ目からギラッとした光を放つ。
反論のために口を開くが、繰り出す言葉を悔しさごと飲み込んだ。相手の言葉は正しい。実際に戦っても敗北は決まっている。
「だけど、それがどうしたっていうんですか?」
真白は深く息を吸ってから、腰を上げた。
真っ黒な瞳に闘志が宿る。負けると分かっていても戦うべきだ。逃げたところで相手は自分を殺しにかかる。なによりも
濃紺の空に黒い雲がただよう中、大量の針葉樹をバックに、犬顔の女は余裕の表情を浮かべた。
「おろか者だねぇ。まさか私に向かってくるなんてさぁ。おまけに負けを覚悟しながらとか、なんたる無意味」
クククとわざとらしい笑いを漏らして、自身も懐からナイフを取り出す。相手もやる気だ。ならば先手必勝。土を蹴って距離を詰めると、両手で剣を振り下ろす。闇に溶け込む黒いシルエットに狙いをさだめた。渾身の一撃をたたきこむ。
犬顔の女はくるりと回った。まるで蝶のような動き。クリスタルの剣は空を切った。真白が顔をしかめる。相手は彼に迫った。ワープをしたかのように、一瞬で距離を詰める。
度肝を抜いて固まりかけたが、今は戦いの最中だ。隙は見せない。生ぬるい感触を背中に味わいながら、剣を向ける。張り詰めた空気がただよった。
次の瞬間、ナイフが視界に飛び込む。今度こそ体が固まった。死への恐怖が頭の裏を高速で駆け巡る。一方で相手の突き刺しにかかる動きが、スローモーションに見えた。時間が引き伸ばされて、一秒を一分にも一時間にも感じる中、肉体が遅れを取る。
顔を刺し貫く寸前で、刃物が止まった。
「本気になるんじゃないよぉ。こんなの、ただの脅かしだしぃ」
相手はナイフを下ろす。
彼女は攻撃をいなして格の違いを見せつけた上で、真白の命を見逃した。その事実が分かると甘酸っぱい感情が湧く。心に広がった味の正体は、悔しさと恥ずかしさだ。握りこぶしを作ると熱が血に乗って、全身を巡る。
「止めを刺さないんですか?」
沈黙のあと、土の匂いが広がる森で、真白は問う。
後味の悪さが胸に残って、ついつい声が荒くなった。
「生かす必要のある人間だからだよぉ」
犬顔の女が体の向きを変える。
「君が戦うべきは私じゃなくて、魔王なんだしぃ」
白々しさのただよう口調だ。
チリチリとした感覚が体の中を巡った。
「今、殺さなくても大丈夫なのかって聞いてるんですよ。僕がパワーアップすれば、必ず手を焼く羽目になる。君たちは勇者を生かしたことを悔いますよ」
低いトーンで告げて、相手を見澄ます。
途端に犬顔の女は笑いだした。
「見当違いにもほどがあるねぇ」
腰に手を当てて、大きな口を開く。
なお、表情はすぐに元に戻った。
あんぐりと口を開ける真白へ向かって、犬顔の女は軽やかな口調で語りかける。
「君が魔王に匹敵する力を得たところで、別にいいんだよねぇ。魔王と戦えるくらいまで勇者の能力を引き出す。それが私たちの目的なんだからさぁ」
「いったいなんなんですか、君たちは?」
ドクンドクン。波打つ鼓動が耳にしみこむ。
「魔王軍だよぉ」
無風の静けさの中、彼女の声が森に広がった。
「元はただの一般人だった私は『勇者と魔王の物語』の真相を知って、魔王に同情したんだよぉ。それからというもの、相手に仕えていてねぇ」
涼やかに語る女に対して、真白は目をパチクリする。
彼女の放った言葉は不協和音のように、彼には聞こえた。
空気の中では土や獣の匂いが混じり合って、不思議なハーモニーをかもし出す。
「わけが分かりません。魔王に仕えるのならなおさら、勇者を始末したいはずです」
真白は息を荒げた。混乱に目が回る中、犬顔の女がゆっくりと唇を動かす。
「おかしくなんて、ないんだよぉ。魔王こそが、君との、万全な対戦を望んでる。そのために覚醒しないと、ダメなんだなぁ」
彼女の話を聞く中、指のすき間に汗が流れていく。
「今回で分かった。君には魔王に挑む資格ないようだねぇ。いや、まさか本当に弱いとは思わなかったよぉ。報告には聞いてたんだけどさぁ。だってさぁ、私ごときが攻撃をかわしたんだよぉ。魔王に挑めば一撃でこなごなになるねぇ」
犬顔の女が目を細める。彼女の凍てつく視線が真白の心を貫いた。
「それに、君がここまで冷たい男だとは、思わなかったよぉ」
「どういうことですか?」
声が裏返る。
心の中では焦っていた。相手の放った『冷たい男』の意味を分かっていながら、ウソをつく。動揺が表に出て、瞳が泳いだ。
後方から焦げた匂いが忍び寄る。煙の気配が森まで流れ込んだ。
「そりゃあ、簡単だよぉ」
くすぶった空気の中で相手が口を開いた。
なおも女の目の前で、知らない振りをする。
自分が最低な人間だとは思いたくなかった。自分の正体から目をそらす。汗がじっとりと肌を伝った。
「だって君、私たちに敵意を抱いてないじゃないかぁ」
彼女の言葉が
鋭い声音が
「本気じゃなかったよねぇ? 君の攻撃には殺意がなかった。人を殺して殺して殺し尽くしたのに、なんで心が動かないんだろう。つまり、そうなんだぁ。悪を許す程度には人間味の薄い人間だったんだねぇ」
「ち、違う! 僕は」
「義務感で動いた。だよねぇ?」
彼女の繰り出した言葉のエコーが、心に大きな波を立てる。冷や汗が
瞳が揺れた。
少年がうつむくと犬顔の女が、間延びした声で告げる。
「君は他人を憎んだり恨んだりすることが、できないんだねぇ。でもそれは優しさじゃないんだよぉ。君が誰に対しても無関心だから、誰になにをされても平気でいられるんだよぉ。君だって、分かっていたはずだろぉ?」
彼女の言う通りだった。
真白はおのれがひどい人間だと認める。
塩辛い感情が心に広がった。
体が燃えるように熱い。煮だった鍋で処刑を受けるような気持ちになる。
体の芯となっていたものが崩れ落ちたとき、犬顔の女の問いが耳に入った。
「ねぇ、私たちはなにをなにをすればいい。君から本気を引き出すために、なにを奪えばいい?」
落ち着いた声で答えを求める。
「知りませんよ」
瞳孔を開く。
自分のことは自分でも分からない。一番につらくてみじめな思いになったのは、彼のほうだ。にも関わらず、相手は自分のほうが困っている風の顔で、他人から大切なものを奪いにかかる。なぜ彼女はしれっと残酷な言葉を吐けるのだろうか。
「君こそ一方的に被害者ぶってるんじゃないんだよぉ」
犬顔の女はニヤつきながら、次の言葉を繰り出す。
「だって、さぁ」
目が三日月の形に歪む。
「君のせいで町がつぶれたんだよぉ」
彼女のはなった答えが、荒れた心に追い打ちをかける。
息を呑む真白へ向かって、女は息をふりかける。
「君のせいで、人は死んだよぉ」
クールなトーンだった。
「今回の事件は君を覚醒に導くために起こしたんだよぉ。全部、君のためだったのにぃ、ムダにしちゃったねぇ」
生々しい温かさを肌で感じる。
女の吐き出したセリフがグサグサと、胸に突き刺さった。
「君が、殺したんだよぉ?」
瞬間、張り詰めていたものが崩れた。激しい感情がなだれのように、心を襲う。しゃがみこんで、頭を抱えた。
言葉を失ってうごめく真白へ向かって、トゲをふくんだ声が降りかかる。
「君はただの人間なんだねぇ。勇者になりたくないと願っているせいだよぉ」
声と一緒に一〇名以上の足音が迫る。
軍隊のように整った音の重なりは、真白にとっては死刑宣告のように聞こえた。
土の上でおそるおそる顔を上げる。
次の瞬間、黒いシルエットが犬顔の女と一緒に、ズラリと並んだ。無機質で人形に似た瞳が、標的を見下ろす。血や火薬の臭いが鼻についた。
自分が生き残るビジョンが見事に消え去る。視線が激しく上下した。目に映る全てのものが歪む。まるで質の悪いレンズを通して、見ているかのようだ。
比例して生存意欲は高まっていく。
一度、血に沈んだ人々の体を頭に浮かべた。彼らと同じ思いは避けたい。同じように生命を散らすなんて、ごめんだ。絶対に、生き残ってみせる。
スニーカーが勢いよく土を蹴る。少年は風と化した。死を避けるために道路に飛び出して、飛ぶように逃げる。町に転がる死体からは目をそらした。
生き残ることだけで頭がいっぱいになる。思考が凝り固まって、体だけが動いた。疲れが溜まっているはずなのに、驚くくらい身が軽い。皮膚が熱を持ち、夢の中のように自由に動けた。
疾走は一〇分間続く。
町は遠ざかる。死にものぐるいで駆けたためだ。振り返ると今は、豆粒以下の大きさである。
風花を見つめる真白の体を、冷たい風が吹き抜けていった。
今は穏やかな空気が流れる。敵との距離は離した。殺気も感じないため、気が抜ける。
闇はなおも濃いままだが、生き残ったと感じ取った。剣を持っていないほうの手のひらを眺めて、息をつく。
複雑な感情を抱きながら、黒い瞳で天を見上げた。
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