1-2 再演
当日に始めた説明会
本番前日の、三月二九日。
時計の針が午前七時を指す。窓の外は曇りだ。部屋は薄暗い。真白が寝転がっているベッドは影の中だ。おかげで気分がどんよりと沈む。
寝返りを打ちながら、彼はシミュレーションにとりかかった。いったん目を閉じる。国民から注目を浴びる勇者の姿が、まぶたの裏に浮かんだ。彼は敵と戦って勝ち続ける。仲間と一緒に冒険を繰り広げて、最後に魔王に挑んだ。ところが止めを刺す寸前に聖なる剣は砕けて、世界を闇が包む。勇者の敗北を知った人々は湿った息を漏らした。
頭の中でシナリオを描くだけで、体が震える。
イベントの鍵を握るのが自分だと考えると、気が重い。まるで岩の下敷きになったような気分だ。
外を歩けば住民が奇異の視線を向ける。ネットにも『勇者と魔王の物語の再演』についての話が多く飛び交うと、予想した。真白はプレッシャーから身を守るために、部屋に引きこもることを選ぶ。以降もだらだらと昼の時間を過ごした。
彼が行動を先延ばしにする間に日は沈む。太陽の光が窓から差し込んで、部屋はオレンジ色に染まった。ベッドの上からぼんやりと外を眺めていると、いきなりバンッと扉が開く。
「入るわよ」
活力に満ちた声が響く。廊下のひんやりとした空気が入ってきた。
けだるげに身を起こして、入口を見る。ドアの前にオパール色の髪をした少女が立っていた。彼女は萌黄色の瞳を少年に向けて、口を開く。
「私は協力者。勇者を目的の場所まで導く義務があるの」
彼女はどこで自分の役職を知ったのだろうか。頭が混乱する。行動の意図もつかみづらく、リアクションに困った。
ただし、なんとなく逃げたほうがいいとは感じて、窓まで走る。かじかむ指で三日月形の締め金具を回して、鍵を開けた。ガラスを囲う枠をつかんで引っ張ると、外の空気が入ってくる。ドライな冷気を浴びながら、地上へ降りた。くつしたのまま、走り出す。さながらオオカミを前にしたウサギのように必死で、臆病な動きだった。
かくして真っ白な少年は夕方の町を駆ける。彩葉と責任から逃げるために全身全霊をかけて、地を蹴った。しかし彼には体力が欠けている。息を切らしてへたりこんだところを、ベンチに乗った彩葉が悠々と追い詰める。逃走者はあえなくご用となった。
「まさか抽選で当たるとは思わなかったんですよ」
一夜明けても引きこもるつもり、ではあった。
反対に、彩葉は連れていく気満々だったようで、彼女からの呼び出しを食らう。真白は席についた。テーブルを挟んで大女優と向き合いながら、言い訳を口に出す。先生と二人切りでお叱りを受ける生徒のような状況だ。生徒のほうは肩を落として、曇った表情を見せる。
「いいから、外へ行くわよ」
細い腕を彩葉がつかむ。彼女は真白の手を引いて、玄関まで導いた。ベージュのドアを開けると、青く晴れた空の下に躍り出る。
午前七時。大きなテレビのついたカフェに足を運ぶ。客の話し声を聞きながら、奥の席まで進んだ。あたりにはコーヒーの香ばしい匂いがただよう。全体に暖かな雰囲気がただよう中、彩葉が先にイスに座る。つづいて真白も席について、二人でモーニングを頼んだ。
五分たって、朝食が届く。彩葉がサラダの入った器をつかむところを見てから、真白も椀の上に目を向けた。最初にフレンチトーストをナイフで切って、口に入れる。まろやかな甘みが舌を転がり、はちみつの爽やかなフレーバーが鼻を抜けた。
「安心して。必ずハッピーエンドに連れていくわ。あなただけでも幸せを味あわせてあげる」
彩葉が口を開いた。
萌黄色の瞳がひたむきな光を宿す。
「イベント自体を面倒だと思ってるだけですよ」
「本当は自信をなくしただけでしょう? いいのよ。私にまかせて」
「いや、だから、興味がないだけといいますか」
彼女との会話がはじまった途端に、周りの音は気にならなくなった。今は少女のはちみつのように甘い声だけが、耳に届く。
いちおう、訴えだけは聞くつもりだ。フレンチトーストをもくもくと片付けながら、彼女の声に耳を傾ける。
「あなたが輝くさまを見たいの」
熱のこもったアプローチで、たたみかける。
「ね、お願い」
彩葉は目だけで少年を見上げると、すぐに頬(ほお)を芍薬色に染めて、視線をそらす。
彼女の上目遣いは世の男性にとっての、最終兵器だった。
ドキッと鼓動がはね上がる。思わずフレンチトーストを皿に落とした。もう一度パンのかけらをフォークでさして、口に運ぶ。スポンジを口にふくんだような食感がした。
甘味すら忘れて、頭を悩ます。彼女の頼みは聞きたいが、勇者にはなりたくなかった。国民の期待を背負って戦うなど、小さな少年にとっては荷が重い。額に汗が浮かんだ。
二つの思いが心の中でせめぎ合う中、一分の時間をもらって、真白は結論を出す。
「分かりました。従います」
半分は妥協で残りの半分は、彩葉への恩を返すためである。ぜひとも彼女の役に立って、借りを返したかった。
真白がうなずくと大女優の顔もパッと明るくなる。ガタッと腰を上げると少年の細い腕をつかんで、「わーい」と小躍りした。彼女の行動によって四方の席から注目を浴びたのは、言うまでもない。素のオパール色の髪をさらした状態であるため、なおさらだ。
「予定通りに動けるように、説明するわね」
さっそく淡い紅色の唇を動かす。
彼女はノリノリで語りだしたけれど、真白はついていくのがやっとだった。
「今日、東国全域で一万人の参加者がストーリーを作り上げる。みんなで各々の役を演じるのよ。災いから世界を守る・物語の再演を通して本物の勇者を地上に
本物の勇者なら目の前で眉間にシワを寄せている。真白は内心でモヤモヤとした感情を抱いた。
「真白くんの役割は魔王を倒すことよ。春休みが終わるまでに国を巡って、敵の城へ行かなきゃダメ。主役を演じるのなら勝って終わることも重要よ」
「僕は一般人ですよ。くすんだ印象を持つ人に負ける魔王って、どうなんです?」
声を落としてブツブツと語る。
心に影が差した。平凡な人間が魔王と戦ったところで、一〇〇パーセントの確率で負ける。なぜ、冴えない男が勇者になってしまったのだろうか。ほろ苦い感情が心をかすめる。やはり、エントリーをしなければよかった。膝の上で指を曲げて、爪を立てる。自然と視線が下を向いた。
「顔を上げて」
薄暗く閉じていた視界に、光が差し込んだ。
甘い声が言った通りに顔を上げると、女神の顔が視界に入る。
「台本通りに演じるのなら、あなたの勝ちは決まりよ。あなたは気を楽にして私についてきたらいいのだから」
聖母のような微笑みが、少年の心を奪う。意識が夢の世界にトリップしかけたところで、あわてて首を振った。
虹色の女優と接するとドキドキして、心が破裂しそうになる。咳払いをしてごまかした。
情報を整理するほうへ意識を向ける。
「『勇者と魔王の物語の再演』とはすなわち、舞台の再現ですよね」
三月二五日に観た劇の内容は頭に残っている。イベントの元ネタが過去に起きた出来事なら、資料は舞台の脚本のみだ。勇者役は劇の中で相手が歩いた道をたどると、ゴールに着く。
「別に舞台を完璧になぞらなくてもいいのよ。魔王さえ倒せばいいだけだもの」
「あ、そうなんです?」
いずれにせよ彩葉もそばに控える今、ことは予定通りに運ぶと、前向きに考えた。
気持ちが明るくなったところで、真白と彩葉はフレンチトーストやサラダ・スープを胃につめこむ。温かいうちに急いで口に運んだ。よく噛んで、食べ物を粉々に砕く。雑な食べ方の割に味はハッキリと舌に伝わる。濃密な蜜の味をコーヒーの苦味で流し込んで、真白はモーニングを終えた。
会計を済ませたあとカフェを出た。自動ドアを越えると新鮮な空気が、肺に満ちる。黒い瞳の向く先には針葉樹の森があった。国道の端にずらっと並んでいる。見た目は森よりも山に近い。とにかく背の高さが異常だ。見上げると壮大な気分になって、心がすっきりとする。
木々のすき間からのぞく空も、晴れてきた。いよいよイベントがはじまる。
準備運動をかねて伸びをしたとき、下のほうから足音がした。次に渋い女性の声が
「二人よ、用があるのだ」
渋い女性の声に反応して、振り向く。
老婆が杖をつきながら、坂を上っていた。顔にはシワが目立つが、服はアイロンがかかっていて、清潔感がある。背には風呂敷に包んだ細長い荷物が見えた。
互いの距離は数メートルまで近づく。荷物を下ろした老婆はしわだらけの手で、風呂敷を開いた。透明な剣が表に出る。
「渡せと頼んだのだ、運営がな」
古い枝のような腕でクリスタルの剣を抱えて、真白へ差し出す。
「運営? 出会ったんですか? 姿とか性別とかは――」
「教えぬ」
老婆の態度は厳しい。
「運営は釘を差した。『くわしいことは話すな』と。特に主役を演じるお前にはな」
現役の狩人のように鋭い眼差しが、真白を貫く。下手に攻めたら弱き者は串刺しになると、予想がついた。
「そんなものですかね」
命を拾うために無理やりにでも受け入れた。
一方で真白は勇者の証から距離を取って、ぼんやりと眺めている。クリスタルの剣を受け取ったら、人生が変わるような気がした。なにより剣に触れる資格は自分にはない。
頬に汗が浮かぶ。伸ばした手が震えた。
「はよせい。もう疲れた。帰って売り払うぞ」
「あ、はい」
相手の気迫が背中を押す。真白はすばやくクリスタルの柄を握って、刃に触れた。質感はオモチャに近い。プラスチックのようにつるつるで、軽くもあった。武器の軽さが自分の器であると、突きつけられたような気がする。真白は眉をハの字に曲げて、しょんぼりした。
「よかったじゃない、かっこうをつけてよ」
彩葉が声をかける。苦笑いをして応えた。
武器が勇者の手に渡った瞬間を見て、老婆は背を向ける。
「ではな」
曲がった背中からあいさつが飛び出す。彼女は坂を下って住宅街の角を曲がった。軽くなったであろう背中は山のあるほうへ、小さくなっていく。
見送りの途中で彩葉が「あ」と声を上げた。
「導入の説明を忘れていったわ、おばあさん」
目を丸くして、口に手を当てる。
「そういえば」
真白も思い出したように口に出す。
「おばあさんの役割って勇者を物語の世界に誘うこと、ですよね。武器を渡したら満ち足りた顔で消えたんですけど、いいんでしょうか」
「役割を投げ捨てていったわよね、あの人」
「でも、いいですよ。僕は内容を知ってます。説明なんて」
彼がてきとうなことを口走ると、彩葉は真面目な顔で口を動かす。
「これよりあなたは魔王を倒すために戦うのです。まずはとなりの地区へ行きましょう。ボスが待ち受けています」
仲間がサボった分を彼女自身で取り返すつもりだ。真白も息をつきながら、彼女のノリにつき合う。
なお、説明は五分で切り上げた。二人はとなりの地区である
現在地は雪野町の風花で東のエリアとは、車で二〇分の距離がある。なお、遊園地までが二五分・劇場までが三〇分だ。
二人はボスの討伐を目指す。雪の溶けた道を蹴って進んだ。
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