エントリーをした結果
公園で留まってぼうぜんと立つこと、四五分。太陽は過ぎ去って空が透明に溶けた。長い時間外を歩いたせいか、肌がかじかむ。そろそろ帰ってもよいころだが、いまだに彼は木の門の前に立ったままだった。
半時間以上前に聞いた言葉が、耳の奥でこだまする。
――『彩葉はな、お前のためを思って頼み事をしてんだよ』
――『真白って男はオドオドしている。本当は魅力的な人なのに、どうにも鈍い。磨けばきっと輝く。だからまずは自信を取り戻したい。そのために、ゲームに参加してほしいって。これが、あの女の気持ちなんだ。分かるか? だが、お前は彼女の気遣いを、無下にしたんだぜ』
「そんなこと言ったってな……」
苦々しい顔つきで頭をかく。盗聴を趣味とする子どもの言葉が、心をかき乱した。イベントにエントリーするか否か――選択肢の狭さが体を縛る。例の小学生は見事に真白の逃げ道を封じていった。
真に取るべき選択は分かっているはずなのに、気持ちが揺れる。気が重い。たとえ遊びであろうと、個人は個人・真白は真白であるべきだ。キャラクターになりきるなんて、ごめんこうむる。
下を向いた。鉛色の地面が視界に飛び込む。
今回はイヤなものはイヤだとハッキリと伝えるべきだ。拒めば話は早い。
自身もリタイアを望んでいるにも関わらず、渋々引き受けかけている。腰抜けだ。情けない。
おのれへのイラ立ちを胸に抱きながら、足を前に出す。公園の入り口から見て北――駄菓子屋の真横を突っ切った。
なだらかな道を進みながら、セピア色の記憶をたどる。
小学生だったころから慎重な性格だった。彼は常に安全な道を進む。高校の受験も確実に受かる学校を選んだ。失敗を恐れた少年は安全なコースのみを拾い上げる。
冒険とは無縁の生き方だった。退屈は人生ではあったが、結果的には正しいと断じる。なんせ『覆水盆に返らず』だ。
全ては最悪の事態を避けるためであり、原因は本人の過去にある。
保育園児だったころの話だ。
無垢でバカな子どもだった彼はクラスのリーダーに立候補する。彼以外に手を上げた者はいなかった。組のトップに立ったのはよかったものの実際にやってみると、仲間をまとめるのは難しい。
要するに失敗した。
以降は脇役として過ごすように心がけて、少年の影は次第に薄くなる。今ではすっかり空気と化した。本当に弱い人間だと、真白は自分を
彼は逃げた。ぬるま湯につかり続けるために『リスクを避けるため』とウソをつく。自分の性格を過去のせいにして、弱い自分から目をそらすばかりだ。
分かっている。自分の弱さも世間に厳しさも。それでも『参加しなくても大丈夫』だと言ってほしい。「イベントには出ない」と早く結論を出したかった。
冷ややかな風が頬をたたく。藍色の薄闇が広がる空間で、天を見上げた。
リミットは近い。エントリーの締め切りまで、六時間を切った。自分の考えの着地点はどこか、本当はいずこにあるのか――いまいちど考えて、目を閉じる。
第一に、真白は最初からイベントへの参加を見送るつもりだった。彼は自らが他人を演じることを、虫唾が走るくらい嫌っている。今も頭からイベントに関する情報を消したくて、たまらなかった。奥歯を噛む。イラ立ちを石ころにぶつけて、蹴り飛ばした。
民家がまばらに建ち並ぶ通りをひたすら進む。カーブを曲がった先にある坂を上りながら、考えにふけった。
彼の脳裏にを虹色の女優がよぎる。全ては彼女のせい。彩葉に恩を返したいがために真白は、イベントへの辞退をためらう。
秘密主義者から望みを聞き出すのは至難の業だ。好みや趣味も勘で当てるよりほかない。頭と心がぐちゃぐちゃになった状態でも、彩葉が本当にしてほしかった内容は分かる。
――『参加する?』
――『あなたに魅力を感じるから、誘ってるのよ』
今こそ恩を返す。人間たちの演じる舞台に挑むべきだ。なぜならそれを彩葉が望んでいる。同時に一つハッキリとした。ほかの誰よりも、おそらくは自分自身よりも、真白は彼女が大切だったと。
顔を上げる。
坂道は長い。
息が上がる。
足がもつれた。
無理やりにでも笑ってみせる。
自分の心に嘘をついた。
ゲームは好きだ。演じることだって好きだ。
なぜなら物語の世界でなら、誰にでもなれる。
たとえ現実では偽物に終わっても何者かが作った世界でなら、本物になるはずだ。
だから、いいと。
ほどなくして、外の世界を闇に包む。帰宅したころには時計の針は午後七時をまわっていた。
扉を開けた途端にカンカンに怒った彩葉が彼を出迎える。
ずいぶんと遠くまで歩いたらしい。その分の心配をかけた。今回は勝手に飛び出した自分が悪い。反省とともに頭を下げた。素直に謝ると彼女も肩から力を抜いて、穏やかな表情になる。許したようだ。
夕食を摂ったあとは個室に戻って、パソコンを開く。マウスを動かすと真っ黒だった画面が白く光る。
深く息を吸った。いよいよ全てが決まると考えると、緊張感が高まる。
気が変わらないうちにエントリーの画面にたどり着くと、スラスラと個人情報を記入した。
いよいよ登録が終わる。気を抜きかけた矢先に、マウスが止まった。画面に忠告の文が現れる。サイトに新しく登録をするときに出る、注意書きだ。四角い枠の中に長々と書いてあるルールを読み飛ばして、『同意する』とあるボックスにカーソルをかざす。
本登録を済ませば後は一本道だ。ゲームが始まると元の自分や日常すら失う羽目になる。ギリギリになって引き返すと決めても、手遅れだ。予想しうる限りの悪い未来が心を追い詰めて、参加をためらう。
真白の心はガラスだ。中身はスカスカで、薄っぺらい。ただし、彼のような腰抜けにも使命があった。臆するばかりだった自分を助けて光の指す道へ導いた少女がいる。彼女のために覚悟を決めたはずだった。
いっそ、勢いでクリックしたほうがいい。
ヤケクソじみた思いが彼の心を駆り立て、『同意する』にチェックを入れる。
『どうにでもなれ』と口の中で叫んで、彼は登録ボタンをクリックした。
目をつぶる。高校生だったころの細かな出来事が脳に蘇る。自動販売機の前に立つ少年の姿が、まっ黒なキャンパスに浮かぶ。彼の所持金は一三〇円。買えるのは一本の缶かペットボトルのみ。欲しい飲み物が二つあると、どちらを選ぶか迷う。ならば――と。両手の指で同時に二つのボタンを押して、運命を天に任せた。
そして、商品の出口に出てきたジュースを確かめるような感覚で、目を開く。
パソコンの画面に映る文章は、『エントリーが完了しました』だ。途端に気がゆるむ。なんとか、締め切りには間に合った。始まる前だというのに満ち足りた思いが、体の中心からあふれだす。
真白は背もたれに体を預けた。
気分も少しは晴れる。おのれの心を自身の手で変えたような気がして、誇らしい。
一時間がたった後も興奮冷めやらぬ中、ネットサーフィンを続けた。時間はジェットコースターのように早く流れていく。
ふとパソコンの右下を見ると、午後一〇時だ。
急いで風呂に入ったあとに部屋に戻る。すばやくベッドに横になると、おとなしく眠りについた。
八時間後、彼は寝室で朝を迎える。
時刻は午前六時。
夜は明けた。黄金色に輝く光がまぶしい。
疲れは取れており、爽やかに目覚める。
三月三〇日がイベントの当日であるとも、覚えていた。
朝食を摂る前にパソコンを開く。まばたきを何度も繰り返しながら、ホームページをチェックした。
期待はしていなかった。
真白には普通の人間である自覚がある。役職は脇役だ。おのれを勇者に選ぶおろか者がいたとすれば、相手こそが勇者のごとき勇気を持った人間だろう。もっとも今回は運営でくじを引くため、配役についてはみな平等だ。
いずれにせよ重要な役をもらう確率は、無にひとしい。真白は顔の前で手を何度も横に振った。
画面には参加者のハンドルネームがズラッと並ぶ。コントロールキーとFを押して検索をしたほうが早いが、せっかくなので自力で見つけることにした。
スクロールバーを動かしながら、目をこらして文字と格闘する。さすがにないか。あきらめかけたときちょうど左端に、自分の名前――『六花』が目に入る。
ぼんやりしていたせいか気付くのが遅れた。
当選したと確定したときも「ふーん」と冷めた声を漏らす。
くじが自分を引き当てる未来は、読めていた。参加ができると分かっても、自分で決めたことゆえ、口を閉じる。
問題は役職だ。当日に演じる役は登録に使ったアドレスに届く。数分後にその情報に気づいた真白は、メールボックスをチェックする。あくまでのんびりと、油断しきった間抜けな顔で、レターのアイコンをクリックした。
次の瞬間、真白はパソコンの前で凍りつく。
『おめでとうございます。あなたは勇者に選ばれましたよ』
目を疑う。
嘘だろ……。心の中でつぶやいた。
真白の顔には生気がなく、世界が終わる瞬間を感じ取ったような色に染まる。事実、くじが『勇者』の座を未熟な少年にたくした出来事は、彼にとっての終焉と同じだった。予想もできなかった展開に頭を抱える。
「なんでよりにもよって」
すぐには現実を受け入れられず、自分は夢を見ているのだと思いこむ。どよめきは体の中心から指の先まで広がった。挙動不審な態度を取りつつ、
「
声を発した。
正気を失って、三白眼のまま、髪を振り乱しそうになる。
とにかく、夢ではなかった。
「やらかした」ことは、教養のない少年でも分かる。
見えない影に怯えるように、真白は眼を泳がせた。そして彼はイスから転げ落ちる。茶色の絨毯の上に寝転がって、ぼうぜんと天井を見上げた。
「やるんじゃなかった……」
真っ白な息はうたかたのように空気に溶けて、消えていった。
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