揺らぐ

 午後五時三〇分。社会人が家に帰る時間だ。


「仕事、仕事か……」


 ひんやりとした町を歩きながら、ポツリとこぼす。

 空気はやけに澄み、乾いていた。息を吸って吐いているだけで唇が荒れる。


「ダメだよな、働かないと」


 世界が人に課した役割は、仕事と勉強だ。今はよくても、いずれ世間は自分に労働を求める。四月からは働くのが当たり前だ。昼間からネットサーフィンに勤しむ輩は、真白かニートくらいになる。


「勉強も仕事もなしってダメ人間だよな。いや、それは昔からだっけ」


 高校に通っていたときは、常に蚊帳かやの外だった。学校の活動には消極的で、友達は〇人。昼休みは読書をして過ごす。ワイワイと騒ぐグループを遠目に、教室での居場所を失った。彼の周りには重苦しい空気が流れる。成長しなければ未来は暗いままだ。分かっている。されども少年は寒々とした環境に甘んじて、同じ日常を繰り返した。


 今度こそ変わるのだと、意を決する。

 拳を握りしめたものの少年は心は、霧の中をさまようままだった。


 五月には職に就く。残りわずかなタイミリミットがじりじりと、気持ちを急かした。上から降り注ぐ太陽も肌を焦がす。車が吐き出したガスの臭いを鼻で感じながら、彼はゆっくりと歩きつづけた。実際のところ焦った振りをしているだけで、彼の心は休みを求めていた。


 真白は三月二四日から彩葉の別荘で、彼女の経済力に甘えて過ごしている。現在の恵まれた環境にどっぷりと浸かったままでは、一生タダ飯食らいだ。


 一刻も早くループを断ち切らねばならない――


 されども透明な少年は腰抜けだ。

 過酷な世界よりも幸せで楽をできる世界を選ぶ。

 先ほどの意気込みは空気にぼんやりと溶けて、消えていった。


 雪が残っているせいか、空気は冷たい。

 青い山の谷間に、夕日が吸い込まれていく。暖色の光によって町がノスタルジックな色に染まってた。

 早くも夕食をとる家庭もあるらしい。香ばしい匂いが空っぽの胃にしみた。


 真白は坂を下る。公園にやってきた。湿った地面に上に老朽化の進んだ遊具が、間隔を空けてたたずむ。荒れ放題で静かな空間だ。一人で過ごせば心は落ち着くだろうが、中に入るのはためらう。いくら自分の見た目が子どもに近いとはいえ、中身は高校生だ。公園で遊ぶ歳ではない。小腹がすいたし駄菓子屋に寄るべきか。きびすを返そうとした矢先、後ろから声がかかる。


「おい。お前、真白っていうんだっけ?」


 初めて聞く声にたじろいだ。

 おどおどとしながら振り返る。

 声の主はイメージよりも小さかった。


「なに平気な顔でうろついてんだよ」


 モコモコのコートを着た小学生が男子高校生に、ガンを飛ばす。

 見るからに機嫌が悪いが、真白には心当たりがない。


「オレか? 仮にバレットとでも名乗ろうか」

「はあ、そうですか」

「薄い反応だな、わざわざ名乗ってやったってのに」

「偽名ですよね」


 白けた目を相手に向ける。


「ところで機嫌が悪そうですけど、なんですか?」

「忘れたのか。お前、花咲彩葉と付き合ってんだろ?」


 生意気な口から飛び出した発言に、耳を疑う。

 最初の感想は「は?」だ。頭が混乱して目を丸くする。


「彼女、熱愛報道とかなかったですよね。よりにもよって僕とウワサなんて、ありえません」


 実際に花咲彩葉にとって真白はただの居候だ。頼まれたら雑用であろうとこなす、便利なマリオネットでもある。


「オレの目はごまかせんぞ」

「そこまで言うのなら、証拠でも?」


 疲れてきたため、てきとうな相槌あいづちを打つ。


「お前、彩葉の頼みを断っただろ?」

「どうして知ってるんですか?」


 別荘は町から離れた山の中に建つ。住民との交流は一日に一・二回ていどだ。外に出るときも彩葉は別人として振る舞う。同居のウワサすら封じる完璧な環境だ。


 情報は漏れないはずなのに目の前に立つ子どもは、なぜか二人の秘密を知っている。本格的に雲行きが怪しくなってきた。警戒を募らせる真白に対して、相手は堂々と真実を打ち明ける。


「オレはな、お前らのことをずっと監視してたのさ。盗聴器を使って盗み聞きもしたんだよ」


――盗聴を抜きにしても、一部のやつは知ってたがな。


 堂々たる犯罪自慢に、真白は頭を抱えた。


「警察に突き出しますよ」

「できるのか。お前が?」


 ふてぶてしい顔でバレットは唇を突き出す。


「ホント、つまらない人間だな。お前みたいなやつに、あの女は渡さない」

「別に僕は彼女のナニカではないんですけど」

「ああ、そういうところだ。なんで俺みたいなやつにも敬語使うんだ? 敬語マンかよ」

「癖です。許してください」


 真白は敬語がデフォルトだ。現実世界でも『タメ口でいい』と注意を受けたが、敬語のほうがやりやすいため、今の口調で通している。


「タメで話せや。イラッとくるんだよ。バカにされてるような感じもするし」

「君の感覚がおかしいだけです」

「お前、オレのこと、うっとうしいとか思ってんだろ?」

「まあ、今」


 途端にバレットは大きな声で、笑いはじめた。


「ほうら、そうだ。ていねいぶっても内心は、グッチャグチャなんだろ。悪いやっちゃなー」


 鬱陶うっとうしい。心の中でグチを吐いて何度か瞬きをしつつ、頬をかく。


 実際に真白は冷淡だ。面倒な事件が目の前で起きても、見てみぬ振りをする。いくら善良な市民を演じたところで、本物の善にはほど遠い。表では聞き流すつもりだが、年下が自分の悪いところを的確に突いてくるため、恥ずかしくなる。自然と手が汗ばんだ


「盗聴器を外して謝ったほうがいいですよ」

「謝るのはお前のほうだろ」

「な、なんで?」


 鋭くからいツッコミに戸惑う。


「オレはいいんだよ。ちゃんと許可取ってるし」

「信じられないんですけど」


 ドン引きして、顔が引きつる。とっさに後ろへ下がった。バレットも大きな歩幅で迫る。まるで獲物を追い詰めるハンターのようだ。


「嘘じゃねぇよ。本人に直接言って、監視させてくださいって言ったんだぜ」

「公認のストーカー?」

「人聞きの悪いこと言うなよ。迷惑かけてないんだぞ?」

「普通のストーカーより、やってることがタチ悪いんですけど」


 相手から『いい』と答えを聞けば、犯罪すらもフリー――それが相手の思考回路だった。


 もっとも、堂々とのぞきをおこなった場合は、パトカーに乗る羽目になる。いまだに彼が動き回っているのは、本人が被害届を出していないからだ。寛容な大女優も大女優だと、真白は肩をすくめる。


 もしくはさすがと褒めるべきだろうか。

 彼女は自分に自信を持っている。人目に触れることについては人一倍、誇り高い。まっとうな生き方を貫くがゆえにプライベートを覗く者が現れても、堂々としているのだ。ファンサービスのためなら私生活すらさらす。通りで普段の動作も芝居がかっていると思ったと、真白は納得した。


 一方で真白は脱衣所で彩葉の裸を見ている。大女優のヌードは彫刻のように、美しい。彼女は珍しくうろたえていたが、むしろ自然な反応だった。ラッキースケベの被害者になったら、誰でも取り乱す。本人には悪いがいつか続きを見たいと、想像に胸をふくらませた。


「オレ、風呂は覗かないよ?」


 不意に冷めた声が耳に届く。現実を見つめると、小学生が軽蔑けいべつの眼差しを向けていた。


「僕を間接的に批難してませんか?」

「気づかなかったのか? にぶいんだな、お前」


 今さらながら年上を相手にひどい口の聞き方だ。ある意味尊敬に値する。将来は大物になりそうで、楽しみだ。具体的にいうと世界を統べる王になるだろう。


 冗談はさておき、厄介な子どもに捕まった。彼の話を相手にするのは骨が折れる。


「彩葉を困らせたんだろ。否定しないのか。なら、制裁を受ける覚悟はあるんだろうな?」

「ま、ま、待ってください。困ってるのはこっちも同じなんです」

「うるせぇ。お前の意見とか事情なんざ、知ったこっちゃねぇ。オレはな、あの女だけが全てなんだよ」


 子どもは大女優にゾッコンだ。

 小学生はさすがに彩葉のストライクズーンから外れている。

 大人であればお似合いだっただろうに、残念だ。


嘲笑わらったな、お前」

「いいえ」


 すっとぼける。


「まあいい。だが覚えとけ。彩葉はな、お前のためを思って頼み事をしてんだよ」

「ん? どういうことですか?」


 他人のためになにかを任せるなんて、あるのだろうか。ピンとこなくて、首をかしげる。


「ほんと、分かっちゃいないんだな」


 バレットは吐き捨てるようにつぶやく。

 途端に心が揺れた。

 心に生じた波が全身へ広がっていく。


「オレ、彩葉から相談されたんだ。真白って男はオドオドしている。本当は魅力的な人なのに、どうにも鈍い。磨けばきっと輝く。だからまずは自信を取り戻したい。そのために、ゲームに参加してほしいって。これが、あの女の気持ちなんだ。分かるか? だが、お前は彼女の気遣いを、無下にしたんだぜ」


 説明を聞いてハッと息を呑む。

 不意打ちを食らったような気分だ。

 ただただ立ちすくむ。


 虹色の女優が貧弱な少年を思っていたとは、予想外。だが、言われてみると、もっともだ。

 彩葉は他人を優先する節がある。真白への頼みごとにも根っこには、彼への気づかいをふくむ。そう考えると彼女のイメージが変わった。真偽は分からない。それでも、彩葉に報いる理由は増えた。


「今回は見逃してやる。だが次、同じようなことやらかしたら。直接殴り込むぞ。分かったな?」


 バレットは釘をさす。

 真白が苦笑いを浮かべると、相手は唇をへの字に曲げた。


 彼は渋い表情を浮かべてから背を向けて、公園を離れる。ときどき相手は振り返った。真白は黙ったままでいる。相手も前を向いた。バレットは民家の並ぶ通りへ、姿を消す。透明な少年は寂れた公園の入口に、置いてけぼりを食らった。

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