クリアな少年とカラフルな彼女

 真白はベランダで、夜空を眺めていた。

 星のまたたきは頼りない。今にも闇に溶けて消えてしまいそうで、不安になる。


 町は静かだ。まるで深海をただよっているかのようで、心まで暗くなった。

 息を吸うと、冷たく澄んだ空気を肺を満たした。ため込んだ空気を吐きだして、上を向く。白い霧が濃紺の空をただよい、あっけなく薄れて消えた。


 乾いた空気の中では唇が荒れる。かじかむ手でコップを持って、中に入った水を飲んだ。口当たりがよくて、飲みやすい。


「ジュースなら冷蔵庫にあるんだけど」


 窓がガラッと開く。となりに彩葉がやってきた。


 彼女はティーカップを両手に持っている。お茶はバラ色だ。フローラルな香りが鼻に入る。

 わざわざ真っ白な少年の天体観測につき合うために、ベランダに姿を現したのだろうか。気にはなったが、確かめる勇気はない。


「僕は、いいんですよ」


 視線をそらした。

 彼はミネラルウォーターを無心で飲む。退屈な味がのどを通った。


「気を使わなくても大丈夫です。ただ、不安はあります。本当にこのままでいいのかって」

「なぁに? 相談なら、乗るわよ」

「いいえ、大した問題ではありません」


 首を横に振る。


「ただ、僕って地味ですよね。君とはつりあわないといいますか」

「気にしてどうするの? 芸能人だって一般人とも結婚してるじゃない」

「いや……その」


 そのような問題ではないのだと、口の中でつぶやいた。


「僕には引き立て役すら難しい。君のそばにいると虹色の輝きを曇らせてしまいます」

「大丈夫よ。私もあなたの無色透明さに勝てるように、光り輝いてみせるから。それにあなただって、きらめけるのよ」

「会話、噛み合ってませんよね」


 自分は彼女の足手まといだと、真白は考える。なぜなら彼は平凡だ。正体が勇者でありながら、ちっぽけな器を抱えて生きている。虹色の女優が光れば光るほど、影の薄い少年は曇っていった。例えるなら昼間に浮かぶ月のように。


 二人は本来なら、住む世界が違う。最初から別れて生きるべきではなかったのだろうか。


「君との世界には満足しています。でも、こんなぬるま湯につかりつづけていいのかと、思うんです。自分が何者なのかすらあいまいなのに、なまけてばかりじゃダメじゃないですか」

「怖いの?」


 彩葉のストレートな質問が、少年の胸を貫く。

 真白は息を呑んだ。動揺が全身を包む。目が泳いだ。手のひらからコップがすべり落ちる。プラスチックの器が転がって、足元に透明な液体を広げた。


 スリッパでコップを避けて、ベランダの端へ移る。


「僕には自分がない。よりよい未来を得るためになにをするべきか、考えてはみたんですけど」

「このままじゃダメだって思うの?」

「はい。でも、僕にはなんにも……全てが〇だから」


 ポツリとこぼす。


「ふーん。でも、いいんじゃない?」


 軽いノリで、だけどハッキリとした意思のこもった声が、となりからかかる。

 途端に星の光が激しくまたたいて、漆黒の闇を照らした。少年の背中に風が吹きつける。口をかすかに開けて澄んだ空気を吸いながら、真白は顔を上げた。


「無色透明とはつまり、何色にも染まるってことでしょう。今からでもチャンスはあるのよ。がんばって自分の色を探して、ね?」


 ゆっくり前に進めばいいと。

 まだまだこれからなのだと、彼女は言う。


 世迷い言だ。言葉の主が他人だとしたら、聞き流すだろう。

 されども虹色の女優が告げるのなら、受け入れてもいい。

 自信に満ちた少女の声が冷え切った心臓に、小さな灯りをともす。ほのかに色づいた希望の光が、胸の底をただよった。


 そうだ。

 自分の物語ははじまったばかりだった。

 早い段階で弱気になってどうする。

 少年はもう一度、前を向いた。


 今日は実りのある日になったと感じて、気分も明るくなる。たとえ先の未来を雲が閉ざさしても、平気だ。虹色の女優が手を引くのなら、ついていくまでのこと。


 キラキラとした情景を想像しながら、少年の一日は幕を閉じる――はずだった。


 寝る前に一日の疲れを癒やすため、脱衣所の扉を開ける。ムワッとした湿気が肌に染み込んだ。


 真っ白な壁のそばに一人の少女が立っている。彼女は布一つまとっていなかった。

 果実のように瑞々しい二つの丸いものが、存在感を放つ。ウエストはキュッと引き締まり、ヒップは丸みを帯びて、なめらかな曲線を作っていた。肉は柔らかそうで、肌からほのかに花の香りがする。


 少女のヌードをじっと見てしまった。セクシーな裸体を視界に入れたにも関わらず、脳が相手を彫刻だと勝手に認める。

 八五・五八・八五――白い画面で見た数字が、頭に浮かんだ。


「本当だったんだ……」


 少年の唇がセクハラじみた言葉をつむぐ。


 その瞬間、白磁の肌に朱色がにじんだ。少女はうつむきがちに近づくと、固く引き結んだ唇を震わせながら、思いっきり扉を閉める。


 大きな音を立てて、脱衣所の外と中を厚い壁が区切った。

 真白は廊下で尻もちをつく。彼の頭はヌードの衝撃によって、白く溶けた。一〇分の間廊下でぼうぜんと立ち尽くして、シャワーの音で現実に戻る。


「やらかした……」


 入浴の順番は彩葉が先で、真白が後に続く。それを忘れていた。

 バツが悪そうに頭をかく。

 後で謝るべきだ。反省をしつつも明日の展開を想像すると、顔が曇る。


「次にどんな顔で会えって……」


 脱衣所の扉に背を向けて赤くなった頬(ほお)を、ポリポリとかいた。



 一時間後、自らも入浴を済ませた真白は、寝室のベッドに寝転がる。一刻も早く今日の出来事を、忘れたかった。しかしながら、眠ろうと意識すればするほど、頭は冴える。心の中で羊を数える間も少女の彫刻のような肉体が、脳裏に浮かんだ。何度か発狂して頭をかきむしりそうになる。なんとかこらえた。


 彼は毛布にくるまりながら、朝を待つ。三〇分もたつと気分も落ち着いて、時計の針が午前〇時を回る前に、眠りについた。


 空が明るくなる。小鳥の声と透き通った日の光とともに、少年はまぶたを開けた。

 室温は冷蔵庫の中のように低い。毛布は厚くて安心感がある。永遠にぬくもりに包まれていたい。とはいえ起床しなければ、家主に迷惑がかかる。まぶたをこすりながらベッドを離れて、寝室を出た。


 昨夜の出来事は頭から抜けている。フラフラと廊下を渡って遠慮もせずに、リビングに入る。途端にテーブルに朝食を運んでいた少女が、ビクッと体を震わせた。

 彼女はお椀で口を隠す。眉間にはシワが寄って細めた目で少年をにらんだ。


 三〇秒もの間、真白は首をかしげる。

 自分の席についたころに脱衣所で起きたた悲劇を思い出して、「あ」と口を開けた。


「嘘でしょ……忘れてたなんて」


 彩葉は目を丸くする。彼女は口をあんぐりと開けて、へたりこんだ。ボタン色のスカートが花のように床に広がる。真白は気まずい思いを抱えながら、頭をかいた。


「だ、だ、大丈夫です。見られても恥ずかしくないくらい、きれいで、……すごかったです」

「なにが」

「胸が大きくて、肌もツルツルで、細くて、引き締まっていて」


 目が泳ぐ。口を動かすたびに昨夜のヌードが、脳裏をよぎった。

 ついには弁明をあきらめて、視線をそらす。途端に彩葉は唇をわなわなと震わせた。真っ白な肌にパステルピンクの血色が浮かぶ。やがて少女は弱々しくうつむいた。


「まだ、誰にも、見せたことなかったのよ。別に、恥ずかしく、ないから。どうだっていいの。本当に、なんとも、な――」


 しどろもどろになった女優の姿は珍しくて、絵にもなる。真白は内心で感心して、温かい気持ちになった。


 以降、二人はなにごともなかったかのように、朝食をとる。黙々と食べるだけであるため、空気が重たい。

 息が詰まりそうだ。彩葉と目を合わせられない。

 居心地の悪さを感じながら、ため息をつく。


「戻せるわけないか、時間なんて」

「なにか言ったかしら?」

「いいえ」


 気を取り直して、水でのどを潤す。

 彩葉が落ち着いた態度を取り戻したことが、救いだった。


 なにはともあれ二人の関係は続く。同居をはじめてからの日々は平穏に過ぎて、初めて彼女と出会ったころから四日が経とうとしていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る