女優になった理由
夜の部を終えて外に出ると、日が陰っていた。空はとうの昔に茜色を通り過ぎて、紺色に染まっている。時刻は午後九時。小学生なら眠っている時間だ。真白もまぶたが重くなってきたところである。
会場は昼夜ともに満席で、熱気があった。人気の理由は分かる。花咲彩葉だ。彼女の色香は老若男女を惹き寄せる。清らかな容姿はさることながら、やわらかな所作と優しげな雰囲気も、印象がいい。
相手が国中の憧れの的だからこそ、大女優の秘密にメスを入れたかった。彼女の素顔を一つでも知るだけで、ステータスになる。
興味を抱きながらも、真白は黙って少女のそばにい続けるつもりだ。謎は謎であるからいいし、ミステリアスなほうが魅力的がある。否(いな)、言い訳だ。首を横に振る。
真白は自分に自信がない。なまじ、大女優と同じ屋根の下で暮らしているせいで、彼女との差が浮きぼりになる。一般人の分際で特別な人間に近づくなんて、おこがましい。
心を風が吹き抜けていった。木々が揺れる音がざわざわと、
自問自答をしても頭に生じた霧は、増えるばかり。一つ言えるのは、彼は常に逃げてばかりだった。秘密を知って七色の女優のイメージを壊すことを、恐れている。自分の理想を崩す可能性を考えて、言い訳を繰り返す。
心の内がハッキリすると、体が軽くなった。
地べたをはう虫けらにも、『知る権利』はある。女優の秘密に興味があるのなら、思い切って尋ねるべきだ。
建物の影から抜ける。彼女を探した。
ちょうど裏口から大女優が表に出る。姿を変える前のようだ。メイクはナチュラルで、舞台よりも薄い。オパール色の髪がつややかに揺らめく。コートの色は今朝と同じだ。お忍びの格好ながらスターのオーラを、内側からにじみ出している。
遠目から見ても彼女は美人だ。思わず見惚れる。白状すると本来の目的を忘れてかけていた。
裏口へ向かう。いきなりの運動に体力を使った。膝に手を置いてゼーゼーと息を吐いていると、クスッと少女が笑った。
「そんなに私に会いたかった? 嬉しいな」
「はい。でも、質問があって」
「言ってみて。少しは打ち明けてもいいわよ」
穏やかな顔で少女は誘う。
一瞬、ためらった。地雷を踏む可能性を危惧して、
しかし今吐き出さなければ、チャンスを逃す。真白は眉をつり上げて、ついに口を開いた。
「君が女優になった理由は、なんですか?」
「インタビューね、いいわ。今度は真実に近い情報を特別に公開してあげる」
誇らしげに胸を張って、少女は明るい表情を浮かべた。
静寂の中で鼓動が高まっていく。
握りしめた拳が震えて、手のひらに汗がにじんだ。
少女の澄んだ匂いを感じながら、ツバを飲む。
「ホンネを言うわね。私は、私が嫌いだったの」
第一声を聞いて光が当たったかのように、視界がクリアになる。
彼女の言葉が意外だったため、内心で「え」とつぶやいた。まばたきをしながらウソかホントウか確かめるように、相手を見つめる。萌黄色の瞳は真剣な光を宿していた。
「誰だって、自分が嫌になるときがあるでしょう。あなただって、自分のことを大好きだと思ってる?」
「いいえ」
首を振る。
「私も、自分の弱いところや短所が受け入れられなかったの」
少女はあえて明るい口調で、自身の過去を打ち明ける。
「子どものころね、結構嫌われていたのよ。ただ立っているだけでみんなが勝手に、トゲのある視線を向けるの。原因は自分にあったのでしょうね。気づかないだけで最低な人間だったのだわ」
淡々と少女は語る。
嫌われ者だったとは、ピントこない。
今や国を代表する女優であり、ファンクラブも多いと聞く。
「性格が悪かったのよ。周りが私に厳しく接するのは、自分のことしか考えてこなかったから。だから矯正したの。それが全てのきっかけ」
彼女の話は具体的であったため、リアルな印象を受けた。うんうんと相づちを打ちながら、話に耳を傾ける。
「ここからが本番よ。あるとき、白い人と出会ったの。あなたみたいな……ええ、真白を女性にした雰囲気かしら」
「え、僕?」
流れ弾が飛んできたので、目を丸くする。
彼女は口元に笑みを浮かべてから、話を続ける。
「彼女は女優だったの。素敵な人だったわ。悪魔の一族だといわれる人たちに手を差し伸べて、みんなと平等に扱ったのよ。知名度はそこそこだったけど、演技はすばらしかったの。人のよさがにじみ出た印象かしら。彼女のセリフはきれいごとでも真実に聞こえるの。芯が通っているから、説得力があったのよね」
思い出を回想するような表情で、軽やかに言葉をつむぐ。
「ボランティアにも積極的だったわ。理想の女って感じだったし」
「付き合っている人とか、いなかったんですか?」
少女は首を振る。
「それらしい人はいたの。でも、婚約を結ぶ前に、死んじゃったの」
「どちらが?」
「彼女が」
急に静かになった。
頭上に厚い雲が垂れ込める。
気持ちまで沈んできたところで、彼女は雰囲気に沿うように、淡々と話す。
「彼女の死は謎に包まれているの。私もくわしくは知らない。だけど、誰かのために死んだことだけが確かなの」
明るさの裏に、シリアスなエピソードを隠していたとは、意外だった。
『大切な人の死』に関する話を聞くと、目がくらむ。
きちんと覚悟を決めて問いかけたとはいえ、ショックが大きい。
彼女の話した内容が耳の奥でエコーを続ける。
フォローをするべきか、同情を表に出すべきか。彼女はおそらく三つ目の選択肢を期待している。一方の真白は口を一文字に結んだまま、下を向いた。彼は黙って彩葉の言葉を待つ。
「私は彼女の影を負っているの。彼女のような女優になりたくて、演技をしているの。でも、むなしいわ。彼女、最後まで評価されなかったもの。私が褒められたって、仕方がないのに」
眉をハの字に曲げたさみしげな表情で、彼女は言った。
彩葉の端正な顔に影が差す。
濃紺の闇が広がる空間で、少女はつぶやいた。
「ときどき不安になるの。私、きちんと演じられているかって」
彼女は悩んでいた。
淡い唇から繰り出した本音は、必死に隠し続けた弱音だったのかもしれない。
この瞬間、真白は思った。彼女の守りたい。悪意から、敵意から、ありとあらゆる負の感情から救いたいと。そして、抱えている悩みを解消させたいとも感じた。
彼女のためになにができるか。そもそも、本当に彩葉が救いを求めているのか。
不安材料が心を惑わしても、最後にはやると決める。
せめて、一人だったころの自分に手を差し伸べてくれた彼女に、恩を返したかった。
「大丈夫ですよ。君は、世界が誇る大女優ですから」
思い立つと唇が勝手に動いていた。
「君以上の人間はいません。女の人とは親しかったんですよね。なら、彼女は君が有名になって喜んでいます。その女優ためになにかをしたいのなら、彼女のできなかったことをすればいいんです。みんな、君を肯定します。責める者が現れても、僕がやっつけてみせます」
彼はふところからアクセサリーを取り出すと、彼女の首にかけた。銀のペンダントが少女の胸元で、神秘的な輝きを放つ。バラのシンボルが彼女によく似合っていた。
「これって?」
「プレゼントです」
「いいの?」
「君が渡したんですよ」
元より真白は無欲だ。資金を使うのならプレゼントに当てたほうがいい。
それに対して少女の顔がパーッと明るくなる。
「おいしいプレゼントだわ」
彼女が歌うようにはずんだ声を出す。
ふんわりとフローラルの香りがただよい、こちらの心も溶けた。
「それで、あなたは私を守ってくれるのね?」
「ええ、まあ」
急に自信がなくなって、視線をそらす。
目の前でくすっと笑い声がした。
「気持ちだけでも受け取るわ。しっかりしてね、きちんと守ってね。あなたは、私のナイトなんだから」
やわらかな唇から、甘い声を漏らす。
彼女の頼みなら、「はい」と言わざるを得ない。
守らなきゃ……そんな言葉が心に生まれた。
「ありがとう。少し、元気が出たわ」
にっこりとして、彼女はこちらの両手を取る。
「言っておくけど、あなたを助けたのは自分のためなの。今も好きで世話をしているだけなのよ。だからね、これからも、よろしくね」
「はい。こちらこそ」
手を握りかえす。
今、初めて自分を誇らしいと思った。
その後、二人はバスに乗って家に帰る。真白は舞台の感想をパソコンを通して、国中のファンと共有をして、一日を終えた。
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