朦朧とした意識の中で目を開ける。頭が重い――眠りを強要する体を起こして、目を向ける。


(いきてる、の?)


 痛みが消えているが、その分指先まで麻痺したかのように体が言う事をきかなかった。


(なに、が?)


 目が泳ぐ。と、掌がキサラの頬を撫でた。視界の端にうつる表情。それは硝子の中で漂うあの少年だった。


「※◇◯▷●〒¶〓◎◇」


 彼が言葉を発するが、それはキサラには聞き取れない。さらに彼はキサラの頬を撫でる。その瞬間、何かが体の中を走る感覚に晒された。


「ゲンゴカイセキカンリョウ」


 彼は呟く。何度か口をパクパクさせた。


「あー。あー。テ、テ、テステス、テスト、テスト。こんな感じか。今は24字構成なんだね、旧共通言語に舞い戻った感じかな? 時代は繰り返すと言えばそうなんだろうね」


 涼しい表情で、そう言う。


「……パ、パナケイア?」


 やっと出たキサラの言葉がそれだった。立ち上がろうと力を入れる。が、その途端、キサラを激痛が襲った。


「無理はしないこと。取り急ぎ、神経系を麻痺させたけど、治癒した訳じゃない。過剰な干渉は人体に影響がある。今の時代のニンゲンが、どれだけの耐性と薬効があるかはサンプルが無いから断言できないんだ。それにブート起動しかできなかったから、僕の能力も限られているしね」


 言っている意味がまるで分からなかった。


「とは言え、悠長にしている時間も無いか。しかしニンゲンは僕の事をなんだと思っているんだろうね」

「え?」


「君もそうなんだろう? パナケイアは全てを癒やす。パナケイアの心臓は賢者の石、不老不死の霊薬、奇跡の神薬。言い方は違えど、ニンゲンの考える事は常に同じだ。自分の事しか考えていない。ニンゲンはニンゲンを殺せる生き物だ、今の君たちのように、ね」


 キサラは目をぱちくりさせた。この少年――仮にパナケイアと名付けるとして――の彼の言う意味が分からなかった。


「遺伝子情報を検索させてもらった。君が相応の探検家である事もサーチ済みだ。その君がいとも簡単にトラップに巻き込まれた。けどね、この施設は人造兵器を研究し、大量処分する為に存在した場所だ。外敵を排除する為の場所じゃない。おかしいと思わないか?」


 そう言うパナケイアの言葉はほとんどキサラには届いていなかった。


「――パナケイアは不老不死の霊薬……?」

「実際は違う。でも、君たちはそれを渇望して、僕を狩りに来たんでしょ? 実際に君の記憶の中の、パナケイアの伝説はそう伝承されているじゃないか。今更でしょ?」


「――がっかり」


 それはキサラの本心だった。少年は目を丸くした。


 がっかり。がっかり、だ。パナケイアは全てを癒す。そこにキサラは全てを賭けてきた。実際、ロストセレブレーションの遺跡から薬の知識を発掘する事ができた。人体の縫合も、ロストセレブレーションから得た知識だった。だけれどと、と思う。


「――病を治せない喩術なんか意味が無い」

「ちょ、ちょっと待て! 僕は病を治せないなんて言ってないぞ!」


「不老不死? それが貴方の最大の役割なんでしょ? 貴方が言う所の、人が人を殺す事を当たり前と思っている人達に保管されてきたお人形さんが命を語るな!」


 キサラは吠える。そしてこみ上げてきた何度目かの真っ赤なモノを吐き出す。その意味について考えるまでもない。もう悪足掻きなのだ。


 なにに怒っているのか?

 グルグル回る。ぐるんぐるん。ぐるんぐるん。


 別にこのお人形さんは悪くない。


 察するに、彼はヒトの手で作られた人造物なのだ。どういう趣旨のモノか皆目検討もつかないが、ココは彼みたいな人造物を制作する工房といった所だろうか。


 だとしても、それはキサラにはどうでも良い事だ。永遠の命はどうでもいい。人を救えない喩術など、存在価値が無いと思う。


 ロストセレブレーションに関わる中で、様々な喩術の文献を見た。それはどれも断片的で、実行にうつせるモノではなかったが。


 一つ、病原体を体に取り込み抗体とする。

 一つ、体内の血管に直接、薬液を流し込む方法。

 一つ、血の足りない対象者に、別の人間の血で補う。

 一つ、外から人間の体の中を見る技術

 一つ、開腹し、体内の病を切り落とす技術。


 どれをとっても、今のキサラには実現不可能だ。知識があまりに足りなすぎる。でもこの技術があれば、多くの人を救える。喩術師ならば、当然憧れと夢を抱く。


 だが、もう遅い。


 願わくば、このお人形さんが、ギルドに悪用されない事を。人間が勝手に作り、勝手に保管し、勝手に忘れた存在。それをまた人間が身勝手に起こしてしまった事になったのか。考えてみれば、本当に申し訳ないと思う。


 彼からしてみれば、はた迷惑な話だ。

 ごめんなさい。


 掠れて声にならない。誰に謝りたいのか? お人形さんに? 先生と呼んでくれた無邪気な市井の人々に? そして悪友と呼ぶべき学師に? 不思議とギルドの面々がまったく顔に浮かばないことに苦笑する。唇が歪んだ程度だが、キサラにとっては苦笑だった。


 と、顎を引き寄せられた。

 彼だ。


 かろうじての視界が、彼を捉える。


 その目は琥珀色で。彼は人造物だから綺麗なんだろうか。それとも人間の廃棄しきれない感情を拭い去った生き物だから、だろうか。


 とくん。自身の心音が弱いことを自覚するが、一瞬ナゼか跳ねた。

 彼の唇が動く。


「君に薬をあげようか?」


 彼はそう言った。キサラは彼の唇の動きを追う。それは怪しく笑んだように思える。


「薬は、良薬にも毒にも転じる。医術を志す者は、患者に投与する薬剤の効用について熟知して然り。でも時として、副作用は起こる。薬は毒にもなりえるから」


 キサラはただただ、彼の唇の動きを見る。綺麗で小さい唇だが、発音に少し苦労しているようだ。ゲンゴカイセキ、と彼が言っていた事を思い出す。本当にロストセレブレーションの技術は底が知れなかった。


「だから、本来なら君たち現代人に投与や干渉していいか悩む所ではあるんだ。副作用は絶対にある」

「フクサヨウ……」


 薬剤によって痺れや体の拒絶反応を示す。これもまたロストセレブレーションの知識にあった。だが、その意味と言葉が今のキサラには頭の中に入ってこない。


「でもね?」


 パナケイアは無邪気な笑みを浮かべた。


「ちょっと、興味あるでしょ?」

 彼は笑む。


「だって気にならない? もしも僕を食べたら、毒林檎のように甘いか、薬草のように苦いか……どちらにしろ、酷く癖になる味だと思うんだよね。だから、ちょっとだけ、味見したくならない?」


 え? それはいったい、どういう――。


「ここに薬は無い。だから僕の中の体内培養物質からの緊急措置を行った上で、生体内干渉をする。ドクターなら、それも一興だと言うだろうね。君はどうしたい?」


 どう?

 助かりたいのだろうか。


 命が惜しいなんて思った事はない。少なからず、こんな世界で生きてきたのだ。いつもある程度の覚悟はある。


 ――先生の次の診察はいつですか?

 無邪気に語りかける人々。


 ――先生のお役に立てばいいのですが。

 すでに持っている薬草を摘んできてくれた老人。

 

 ――先生は痩せてるからね。ちょっとは肉を食いなさい、肉!

 とご馳走してくれる主婦たち。


 それぞれに深い未練は無い。キサラも淡白に対応していたはずだ。それなのに、頭から離れてくれないのは、何故か優しく笑うあの人達で。


 ――先生こそ、命を大事にするんだよ。粗末にしちゃいけない。先生は危なっかしくてねぇ。

 ――本当だぜ。


 にこやかや笑う面々が瞼の裏にちらつく。あの人達にもう一度会いたい、そんな事を無意識に思う。

 だからキサラは小さく頷いていた。


 彼がキサラの唇に唇を重ねる。


(え?)


 まったく意識していなかった事に驚く。だが、彼はキサラの髪を撫でながら舌で口蓋を触れていく。


 バカな子だ、とキサラは思う。私の唇なんか奪っても血の味しかしないだろうに。そう思いながら、パナケイアの接吻は何故か懐かしい、金木犀の香りがして――キサラの意識が、そこで静かに落ちていった。


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