第5話 漢軍の逆襲

 季布は虞姫を抱きしめた。

「私にも声を聞かせてくれ。あの時のように、もう一度」

 そうでないと、私は。

「嫉妬で、狂いそうだ」

 虞姫は彼の背中に手を回した。一度だけ強く抱きしめると、そっと身体を離した。

「虞姫」

 彼女はもう一度季布の右手をとって、手のひらに文字を書いた。

「項王」、「心」、「救いたい」

 虞姫は項羽の元へ向かった。


 趙国に続き、斉国までも、漢に降った。

「またあの男かっ」

 項羽は吐き捨てるように言った。

 漢の別働隊の将、韓信。彭城での戦いでは少数ながら粘り強く抵抗を続け、ついに劉邦を脱出させることに成功している。希代の戦術家と言っていい。

「味方に付くよう呼びかけてはいかがでしょう。私が使者になります」

 鍾離昧しょうりまいが進言した。項羽はすっ、と目を細めた。

「ほう。軍を抜ける良い口実だな」

 彼は、言葉に詰まり引き下がる。もう誰もその事を口に出すことは出来なくなった。

「竜且将軍も韓信に討たれました」

 次の報告は項羽を激怒させるのに十分だった。竜且は斉の押さえとして派遣していた将である。勇猛果敢、項羽が最も好む型の武将だった。

 その男が死んだ。


 さらに南方では廬綰ろわんが、そして、彭越ほうえつがまたも勢力を拡大していた。

ってもすぐに舞い戻る。奴らは蠅か」

 その中でも彭越は、滎陽と彭城を結ぶ線上へ出没し兵糧を狙っている。

「彭越、今度は必ず殺す」

 こうなると問題は項羽の性格に起因するのかもしれない。再び滎陽を放り出し、彭越退治に向かってしまった。


 その隙をつくように、漢軍の本隊は滎陽郊外の敖倉ごうそうという、食料保管庫とでもいうべき小山を占拠する。

 またしても彭越を取り逃がした項羽は滎陽に戻り、漢の要塞と化した敖倉を見て歯がみした。やむなく、敖倉と対峙する位置にある別の高地に陣を敷くことにした。


 季布はぼんやりと敖倉の方を見ていた。

「どうですか、傷の具合は」

 振り向くと、ふうが立っていた。

「ああ。見た目ほど酷い傷ではなかったからな。大丈夫だ」

「しょぼくれちゃって、そうは見えないよ」

 季布は鼻で笑う。自分でも、それは分かっていた。

「項王さまは他人の女を横取りするような方ではありませんけどね」

「それは知っているとも。だが、虞姫のほうが私に愛想を尽かしたのかもしれん」

 はは、と楓は笑った。

「それは、何故です」

「なぜ、と言っても……」

 楓は急に真面目な顔になった。

「いい加減になさい。あなたが怪我人じゃなきゃ、張り倒してるところだよ」

 声に怒りを含んでいる。

「あの娘が、あんたを嫌う理由がどこにある。たとえそうであったとしても、あの娘を守ると言ったんだろ。違うかい」

「その、通りだ」

 季布は思わずたじろいだ。

「では、あなたの名は」

「き、季布だ」

 楓はひとつ、頷いた。

「じゃあ、あんたのその名前に誓いなさい。何があっても虞姫を守るって」

 季布は苦笑して目を逸らした。そしてまた楓の瞳を見る。

「ああ。それが私だったな。もちろん季布に二言はないとも」

「それを聞いて安心したよ。あの娘はね、項王さまがもう誰も信じられなくて、孤独だって知ってるんだよ。だから、傍にいたいのさ。許してあげなよ」


 楚と漢のにらみ合いは、いつ果てるともなく続いた。


 そんな小競り合いの中で、劉邦が負傷した。致命傷でこそなかったが、劉邦は逃げ腰になった。関中へ帰りたい、と思った。

 漢軍と楚軍の間に、講和の使者が往来するようになったのはそれからすぐの事だった。

 兵糧が尽きてしまっている楚軍にとっても、断る理由はない。

 両者の勢力圏を定め、撤退することになった。


 西と東へ、それぞれの軍が移動を始めた。

 漢軍は西の関中へ。そして楚軍は東の彭城へ。そのどちらの兵にも、安堵の色が広がっていた。

 そんな漢軍の中に一人、深刻な顔で立つ男がいた。小柄で、まるで少女のような容貌のこの男。軍師の張良だった。

「陳平どの。向かう方向が違うと思わぬか」

 隣にいたのは、いつも首筋に汗をかいている肥満体の男。もう一人の軍師、陳平だった。

「いや、間違ってはおりませんよ。この道は関中に続いております」

 怪訝そうに張良を見る。

「違う。この道の先にあるのは、漢の滅亡だ」

「……止めましょう、張良どの。講和が成ったのですよ。それだけは、いけない」

 すぐに張良の考えに気付いた陳平は、青ざめた。膝が震え始めている。

「軍を返して、項羽を倒そうというのでしょう。なんて恐ろしい事を考えるんです」

 いまの兵数はほぼ互角だった。つまり、敵陣に項羽がいる限り、漢軍の圧倒的不利ということだった。

「勝てませんよ、これじゃ」

「兵のあてはある。韓信を呼べばいい」

「いや、しかし」

 韓信は、漢と楚がにらみ合っている頃から独立の兆候を見せ始めていた。

 果たして来るのだろうか。陳平は疑念を持たざるを得ない。


「彭城で出来なかったことをやろうではないか、と伝えよう」

 かつて、漢の連合軍は五十万もの兵で彭城に迫った事がある。その時、項羽は北方の斉国によって泥沼の戦闘に引きずり込まれていた。

 それを知った韓信と張良は、軍を北に向け斉軍と共に項羽を挟撃しようとしたのだ。必勝の策だったが、彭城入りに固執する劉邦と、その他の連合国の王達が反対したことにより成らなかった。その時の恨みを、いま晴らすのだ。と。


「最悪の想定をしても、よろしいでしょうか」

 陳平がおずおず、と口を開いた。

 張良は首を振った。わかっている、と呟く。

「陳平殿は、韓信がまず漢軍を襲い、それから楚軍を倒すのでは、と言いたいのでしょう。そうですね。私ならそうする」

「韓信がそうしないという、確証はありますか」

「いや。そこは、賭けだ」

 陳平は顔を引きつらせた。


 韓信が北方の大軍を率いて南下しているとの情報は両軍に衝撃を与えた。

 しかし、斉王韓信が漢王劉邦の元を訪れ、片膝をついたその時、楚漢の争いに決着がついたのだ、と言っていい。


 項羽は垓下がいかに追い詰められた。



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