第4話 滎陽に死す

 声が欲しい。

 虞姫は痛切に思った。

 目の前で季布が命を失おうとしている。彼を呼び戻すための、声が欲しい。

 彭城で男達に犯されたときも、ここまで辛くはなかったと思う。今は、胸が痛い。剣で突き刺されたように。息さえできないくらい。


 横たわったままの季布の右手を握りしめ、心のなかで呼びかける。

 生きて。お願い、生きて、と。


 季布の唇がかすかに動く。

「……分かった……だから、そんな大きな声を、出すな」

 はっと、虞姫は彼の手を強く握る。

 うっすらと目を開く。季布の意識が戻った瞬間だった。

「……!」

「声が聞こえた。お前の声だと、すぐに分かったぞ」

 ほとんど聞こえないような、小さな声で季布は呟くように言った。

 虞姫は何度もうなづく。

「変だな、お前の声を聞いた事は無いはずなのに」

 季布は、泣き笑いの表情の虞姫を見て笑みを浮かべた。


 滎陽を脱出した劉邦に、あと一歩まで迫った季布だったが、親衛隊長の樊噲に阻止された。

 重傷を負った彼は生き残った味方に助けられ、本営へ戻ったのだった。

 それからずっと生死の境をさまよっていた。

「虞姫、もう一度お前に会えてよかった」


 一方、項羽は滎陽の有様を見て激怒した。

 主将の項呂は即座に首をはねられた。劉邦の逃走を許すという大失態を犯した上、自らも捕虜になりかけたこの男は、失点を取り返すため無謀にも正面攻撃を繰り返し、貴重な兵力をさらに減らしていた。

 滎陽の守将は周荷しゅうかという男だった。前任の周勃しゅうぼつの縁戚なのかは不明だが、彼と実によく似た、果敢な戦いをした。そして劉邦と見せかけて、楚軍の目を引きつけた韓王信もよく彼を援護した。


 だが、ついにその時が来た。


 項羽が大軍を率いて戻って来たのだ。

「さて、ここからですね」

 周荷が静かな声で言う。普段から武人らしくない物静かな男だったが、この時の彼の表情を見た韓王信は背筋を震わせた。死を覚悟した上での凄みがあった。

「増援は来るでしょうか」

 韓王信の問いかけに、周荷は首を横に振った。

「必ず来るでしょう、ですが……」

 間にあうか、どうか。


 項羽の攻撃は激烈を極めた。

 楚軍の猛攻を数日にわたって耐え、滎陽は陥落した。

 関中からの増援は、ついに来なかった。

 周荷と韓王信は捕らえられた。


 季布が意識を取り戻したと知った項羽は、彼を自分のもとに呼んだ。

 虞姫に支えられて、季布は滎陽の城頭に上がった。

「劉邦を取り逃がしたか、季布!」

 季布は膝をついた。

 どうやら、生き返って早々だが、私は斬られるようだ。季布は覚悟を決めた。

「お主だけだったようだな、包囲を解くなと言ったのは」

「はっ?」

 項羽も片膝をつくと、季布の左腕の傷に触れた。

「これは、どうした」

「樊噲に、やられました」

 あの馬鹿力め。思い出すと痛みがぶり返し、血の気が引く。

 項羽は立ち上がり、哄笑した。

「それなら仕方ない。わしも騎馬隊をごっそり殺られた事がある。奴には勝てぬわ」

 季布、お主。そう言って項羽は彼を見下ろした。隣の虞姫を意味ありげに見る。

「その娘だが……」

 言いかける。そこへ、捕虜となった韓王信が連れられてきた。

「もう一人はどうした」

 周荷は傷が元で死んだ、との報告に項羽は天を仰ぎ、大きく息を吐いた。


「韓王、姫信よ」

 わしに仕えないか、と項羽は言った。

「漢には、わたしを待つ者がおります」

 静かに韓王は言った。

「ほう、妻か。思い人か。いずれにせよ、こちらに呼べばよいであろう」

 怪訝そうな項羽に、韓王は少しだけ笑みを浮かべた。

「それが。そのものは漢の軍師をしておりますもので」

 一層分からない、といった表情の項羽。漢で軍師と呼ばれるのは二人。

 暑苦しいまでの肥満体の巨漢、陳平と、小柄な優男の張良だ。

「あのどちらか、か?」

 少し気味悪そうに韓王信を見やる。

「わしは、そういうのには興味がないな」

 そこで、項羽は季布とともにいる虞姫に気付いた。手をあげ差し招く。

「どうじゃ、美人であろう。わしの妻だ」

 ほう、と韓王信がため息をついた。


 虞姫はしゃがむと、彼の頬に触れた。しばらくそのまま、彼の瞳を見詰める。

 韓王信は不思議そうな顔で彼女を見ていた。

 立ち上がった虞姫の肩を項羽が抱いた。虞姫はびくっ、と身体を硬くした。

「殺すべきだと思うか、虞よ」

 小声でささやく。虞姫は項羽を見上げる。鋭い目だった。項羽はしばらく何かに耳を傾ける様子をしていたが、やがて頷いた。

「そうか、なら止めておこう」

 なるほど、張良は。と、何事か納得したように項羽はつぶやき、虞姫を去らせた。

「剣を返してやれ。韓王よ、あとは好きにするがいい。虞姫に感謝するのだな」

 韓王は余りの意外さに、しばらく呆然としていた。


「虞姫よ、項王と何かあったのか。お前を妻と呼んだのはどういう事だ」

 季布は呻くように言った。だがこれは少し早口過ぎたようだ。虞姫は、分からないと云うように首を振った。

「なぜ、項王と話が出来るのだ。答えろ」

 虞姫は、困った顔で季布を見詰める。彼の右の手のひらに指で文字を書く。

「項王」、「哀しい人」と。


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